「フィガロの結婚」とフランス革命
1789年の革命以前、フランス人口の98%の平民を支配していたのは、わずか2%の特権階級(僧侶、貴族)。しかも、彼らは大部分の土地を所有しながらなんと非課税!5億リーブルの歳入に対して、50億リーブルの負債を抱え、完全に財政破綻だった状況を打開しようとしてルイ16世が特権階級への課税を考えたのは当然だった。平民の大部分を占めた農民(全人口の86.7%)の生活は過酷だった。当時の領主(貴族)たちの最大の娯楽は狩猟。そのため農民による獲物の捕獲は禁止された。ルソーが書いている。「「(野獣の害に対して農民たちは)そら豆やえんどう畑の中で、なべや太鼓や鈴を鳴らして一晩中すごさねばならない。」もっとばかげた例も挙げている。「領主の奥方が妊娠したといって、その安眠を守るために、農民たちは交替で夜中じゅう池の水面をたたいて、カエルの鳴くやかましさをおさえねばならなかった。」と。モーツァルトの「フィガロの結婚」は、「フランス革命の導火線」と言われたボーマルシェの戯曲が原作。従者のフィガロは主人アルマヴィーヴァ伯爵に対してこんなセリフをはく。
「・・・・あなたはご身分の高い殿様だものだから、大した能力をお持ちだと思っていらっしゃる!・・・・貴族、財産、身分、階級、すべて揃えてふんぞり返っている!そういった財宝を手に入れるのに、あなたは何をなさいました?生まれてきた、ただそれだけのことで、それだけのものを手にお入れになった。そのうえ、人間としてもあなたは平凡な出来だ。それに引き換え、このおれなんぞは・・・・馬の骨のひとりだったから、ただ生きていくことだけのためにも、ありとあらゆる知恵、才覚を使わなけりゃならなかったんだ。」(戯曲「フィガロの結婚」第5幕第3場)
オペラ「フィガロの結婚」の初演は1786年5月1日。パリの民衆がバスチーユ監獄を襲撃する3年前のことだ。モーツァルトとダ・ポンテは、上演許可を得るため原作の社会風刺、貴族批判をやわらげ、人間の愛と欲望のドラマに修正している。それでも、貴族の横暴を打破しようとする平民の心意気に満ちた内容をハプスブルク帝国の都ウィーンの貴族たちが快く思うはずがない。期待したほどの成功は得られない。しかし、プラハでは違った。ここは、ハプスブルク帝国の支配下にあり、貴族も含め反体制、郷土愛の感情が強い。モーツァルトは興奮して書く。
「当地じゃ、フィガロの話でもちきりだし、弾くもの、吹くもの、歌うもの、口笛吹くもの、すべてフィガロだけさ。オペラを観にいくといやあ、いつもフィガロっきり、いつまでもフィガロさ。」
有り余る才能を自由に発揮できる場所を求めて旅を続けたモーツアルト。その音楽に熱狂したのは、抑圧からの解放を求め自由を熱望した人々だった。
(「アンシャン・レジームの皮肉」)
平民(第三身分)が僧侶(第一身分)と貴族(第二身分)を背負っている
*「アンシャン・レジーム」=旧制度=フランス革命以前の制度
(ル・ナン「農民の食事」ルーヴル美術館)
土地所有農民(中央)、雇われ農民(左)、貧農(右 裸足)が描き分けられている。これでも、実際よりも農民を美化しているそうだ。
(貧民を見舞うルイ16世)
1788年~1789年の冬の農民の飢えは、特にひどかった
(1789年7月14日 バスティーユ監獄襲撃) フランス革命勃発!
(ヨーゼフ・ランゲ「モーツァルト」)
ヨーゼフ・ランゲはモーツァルトの妻コンスタンツァの姉アロイージアの夫。
この肖像画を、コンスタンツァは「本物にそっくり」と言っている。