【北豊島】平尾宿
町名:平尾宿
読み方:ひらおしゅく Hirao-Shuku
区分:町丁
起立:江戸期
廃止:1889(明治22)年3月31日
冠称:なし
現町名:板橋区板橋一・二丁目
概要:「板橋宿平尾町」は『染井王子巣鴨邊繪圖』にある。
「板橋」の地名は既に平安時代には存在していた。江戸時代初期、武蔵国豊島郡板橋村が上板橋村と下板橋村(下板橋宿)に分割される。よく知られる「板橋宿」とは下板橋村(下板橋宿)に属していた。
板橋宿は江戸四宿の一つとして栄えた。江戸の境界にあたり、江戸後期には上宿の入口にある大木戸より内側をもって「江戸御府内」「朱引き」、すなわち「江戸」として扱われていた(上宿北東側は一部、大木戸外)。板橋宿はそれぞれに名主が置かれた3つの宿場の総称であり、上方側(京側、北の方)から上宿(かみしゅく。現在の板橋区本町)、仲宿(なかしゅく、なかじゅく。漢字では「中宿」とも。現在の板橋区仲宿)、平尾宿(ひらおしゅく。「下宿」(しもしゅく)とも。現在の板橋区板橋)があった。上宿と仲宿の境目は地名の由来となった「板橋」が架かる石神井川であり、仲宿と平尾宿の境目は観明寺付近にあった。平尾宿は本来「下宿」とするべきだが、村名の別称「下板橋宿」との混同を避けるために分村名がそのまま残された。
「平尾」の地名は旧中山道と国道17号の交差する板橋一丁目の交番名に残っている。なお、平尾の語源は嘗ての「武蔵国豊島郡広岡郷」とする説がある。また、板橋宿の周辺にあった前述の各村は畑(特に大根畑)或いは平原(板橋の原、平尾の原)であったが、北西側は加賀藩の下屋敷が広い土地を占めていた。なお、平尾宿は下板橋宿がある程度発展してから拡張された地域で、当宿の成立によって、下板橋宿と江戸の町屋とが連続し、ほぼ一体化した(旧中山道のJR板橋駅北の踏切より折戸通りとの庚申塚交差点辺りまでは民家はあったが町屋ではなかった)。
1868(慶応4)年8月7日(旧暦6月19日)、武蔵知県事管轄区域となる。1869(明治2)年3月10日(旧暦1月28日)、発足した大宮県に所属。1869(明治2)年11月2日(旧暦9月29日)には、大宮県が「浦和県」と改称。浦和県に所属となる。1872(明治5)年1月8日(旧暦1871(明治4)年11月28日)、東京府に編入。東京府豊島郡に所属。同年、伝馬・宿駅制度が廃止。
1878(明治11)年11月2日、東京府北豊島郡が誕生。東京府北豊島郡下板橋宿のうちとなる。隣の仲宿に郡役所が置かれた。1883(明治16)年に日本鉄道本線(後のJR東北本線)上野駅~熊谷駅間開業。1884(明治17)年の大火で板橋宿の大半が焼失。
1885(明治18)年には日本鉄道山手線の品川駅~赤羽駅間が開通し、板橋駅が開業するものの、板橋宿からはかなり遠かったことなどから客足は遠退き、板橋宿は江戸時代の面影など見る影もないほどに寂れてしまい、板橋遊郭へと変貌する。なお、江戸時代も板橋宿には150人もの飯盛女を置くことが認められており、日本橋寄りの平尾宿には飯盛旅籠が軒を連ねていた。
1889(明治22)年4月1日、下板橋宿は金井窪村、中丸村(池袋村の分村)及び池袋村飛地、上板橋村飛地と滝野川村の一部と合併し、東京府北豊島郡板橋町が発足。当地は大字下板橋に編入となり消滅。
なお、『東亰明細圖 : 新撰區分』(1876(明治9)年)には滝ノ川平尾丁とある。実に別称が多い。
平尾宿の位置は、旧中山道を巣鴨から来て、JR板橋駅北の踏切付近から西。『大江戸今昔めぐり』によると、JRの踏切及び板橋駅よりもやや西側が始点であるように見える。東端は旧中山道(いたばし縁むすび通り)の北側と南側では差異があり、北側は板橋区板橋一丁目50番1号柏家ビル(松屋板橋店)から西、南側は板橋区板橋一丁目27番5号(シャロン板橋 ファミリーマート板橋一丁目店)と板橋区板橋一丁目27番6号(サンパレス まいばすけっと新板橋駅南店)の間に建つビルから西。現在、いたばし縁むすび通りは、北側は板橋区板橋一丁目55番16号(板橋ビュークロッシング ガスト板橋駅前店)まで、南側は板橋区板橋一丁目17番1号(プライムアーバン板橋 きらぼし銀行板橋支店)までに「平尾宿」と書かれた旗を電柱に飾っている。
JR踏切から東の旧中山道沿いには、民家はあったものの、北側に巣鴨町上組(豊島区巣鴨四丁目34番14号(グレースビル 北前船のカワモト巣鴨とげぬき地蔵店))、南側に巣鴨町上組増上寺領(豊島区巣鴨四丁目13番21号(ひろ))のあるところまでは町屋ではなかった。
「下板橋」について以下に詳述する。
[下板橋宿] 江戸期の中山道の宿駅。中山道の初宿で、江戸四宿の1つ。上宿、中宿(仲宿)、平尾宿から成る。上宿は小名根村、中宿(仲宿)と平尾宿は小名山中村の者が主に移住し、3宿(3組ともいう)を構成したと伝える。上宿中央の坂の上大木戸には、安藤対馬守の家臣10余名が常時警備に当たった(板橋区史)。継送り先は下り江戸、上り蕨宿、その他に品川宿、内藤新宿、千住宿、岩淵宿、下練馬村へも継ぎ送る。常備人馬50人・50匹、うち5人・5匹は囲人馬。問屋場は中宿(仲宿)に1ヶ所あり、問屋4名が10日間ずつ勤めた。宿高札は中宿(仲宿)の板橋際に1ヶ所、家数573軒。本陣は中宿(仲宿)に1軒、脇本陣は3軒あり、各宿に1軒ずつあった。旅籠屋54軒。町並み15町49間。人口2,448人。宿高1,087石余。1712(正徳2)年、中宿(仲宿)の問屋場に貫目改所を設置(宿村大概帳)。1722(享保7)年、飯盛旅籠屋1軒に2人ずつの飯盛女を置くことが許されたが、1655(明暦元)年には宿全体で150人と改定。江戸四宿のうち、「板橋と聞て迎ひは二人減り」と川柳に歌われたように、下板橋宿は遊び場として最下位であった。助郷は、1657(明暦3)年頃には100石につき人足2人・馬2匹で52村(村高1万5,613石余)から徴集。1867(慶応3)年10月、一旦廃止。1868(明治元)年復活。1869(明治2)年の助郷は豊島・足立両郡72ヶ村から集められている。1872(明治5)年正月、陸運会社の設立により、助郷制撤廃。上宿は現在の板橋区本町、中宿(仲宿)は現在の板橋区仲宿、平尾宿は現在の板橋一~三丁目の地。
[下板橋] 石神井川中流の南・北両岸に位置する。中世の板橋が上・下に分村して成立。中央を中山道が北西から南東に走り、江戸期には中山道の初宿としての下板橋宿(板橋宿)があった。地内の浄土宗孤雲山慶学院乗蓮寺の開山は、英蓮社信誉無的で1407(応永14)年没。境内には板橋信濃守忠康(法名を本樹院前信州空山有賢といい、1593(文禄2)年没)の墓の他、1268(文永5)~1270(文永7)年の板碑5基がある。同龍光山恵照院智清寺の開山は見誉智清で1440(永享12)年没。同丹船山薬王樹院東光寺の開山天誉は1491(延徳3)年没、境内に暦応(1338~1342年)~応永(1394~1428年)年間の板碑数基があり、新義真言宗如意山観明寺にも1338(暦応元)年の板碑がある(板橋区史)。
[下板橋村] 豊島郡野方領。「下板橋宿」とも称し、村内を走る中山道沿いに江戸四宿の1つ、下板橋宿がある。幕府領。『田園簿』の村高は田304石余・畑306石余、計611石余。『元禄郷帳』では994石余。『天保郷帳』では1,113石余。『旧高旧領』では幕府領1,087石余、乗蓮寺領15石余、智清寺領7石余。『新編武蔵』によれば、化政期(1804~1830年)の家数419軒。1679(延宝7)年、前田綱紀が村内東方の小名平尾に6万坪を賜り、加賀藩前田家の下屋敷を開設、寛文年間(1661~1673年)には21万7,000坪と増加。中山道に開かれた下板橋宿は上宿、中宿(仲宿)、平尾宿(「組」ともいう)からなり、幕末の名主は上宿は板橋市左衛門、中宿(仲宿)は本陣の飯田宇兵衛、平尾宿は豊田市左衛門。1871(明治4)年に東京府、1878(明治11)年11月2日、東京府北豊島郡に所属。1872(明治5)年の戸数651・人口2,844、人力車231両、荷車31両、農車39両と宿場町らしい(府志料)。1889(明治22)年4月1日、金井窪村、中丸村、滝野川村(平尾北谷端のうち)及び池袋村と上板橋村両村の飛地を合併して成立した板橋町の大字となる。
[下板橋] 成立前は板橋町の大字。1932(昭和7)年10月1日、板橋区板橋町四~十丁目。現在、「下板橋」の名は東武東上線の駅名に残る。
「板橋」について以下に詳述する。
[板橋] 石神井川中流の南北両岸に位置し、東端を中山道が南西に走り、下板橋の地で石神井川を渡る。ここに架せられた橋を「板橋」(『源平盛衰記』は「松橋」とする)といい、地名の由来となったという(新編武蔵)。江戸期には上・下両村に分かれ、上板橋村には川越街道の上板橋宿が、下板橋村には中山道の下板橋宿(板橋宿)が開かれて栄えた。『江戸名所』に「駅舎の中程を流るる石神川に架する小橋あり。板橋の名ここに発るとぞ」とある。現・板橋区仲宿と本町を結ぶ。1946(昭和21)年の改架で長さ12.7m、幅7.2mのコンクリート橋となり、現在の橋は石神井川の改修工事の際、1972(昭和47)年に架け替えられたもの。
[中世] 板橋 鎌倉期(1185~1333年)から見える地名。武蔵国豊島郡のうち。1180(治承4)年10月2日、武蔵入りした源頼朝は、4日には長井渡しを渡って板橋に進軍、5日には武蔵府中に入り、6日は相模鎌倉の民家に着いている。延慶本『平家物語』に「武蔵国豊嶋ノ滝野川ノ板橋ト云所ニ陣ヲ取ル」とあり、『源平盛衰記』に「滝野川・松橋」とあるのは誤記であろう。『義経記』には「さてこそ太日・墨田打ち越えて板橋に着き給いけり」とある。奥州平泉で頼朝の挙兵を知った義経も板橋に馳せ参じ、『義経記』には「板橋に馳け付きて『兵衛佐殿は』と問い給えば、『一昨日是を立たせ給いて候』と申す」と見える(巻第3)。当時、板橋辺りは豊嶋氏の所領で、後には豊嶋氏支流の板橋氏が板橋城に拠り板橋周辺を領した。板橋城の位置については不詳(新編武蔵)。1448(文安5)年11月の『熊野領豊嶋年貢目録』には「一貫五百文 板橋近江」と見え、天文年間(1532~1555年)頃と思われる『武蔵国旦那書立写』には「いたはし周防 同弥次郎殿 同ひやうご殿」と、3人の板橋氏の名が見える(米良文書)。また『役帳』には、小田川北条氏の臣太田康資の寄子衆に板橋大炊助が見え、板橋で12貫文、大谷口で3貫300文、志村で14貫文、計29貫300文を配当されていた他、康資の同心衆に板橋又太郎が見え、江戸板橋内毛呂分で7貫文を領していた。さらに江戸衆の興津加賀守は『元板橋知行』の「桜田内平尾分」30貫700文を買得したとあり、この平尾は下板橋氏の平尾ともいう(新編武蔵)。中世を通じ、板橋は板橋氏の本貫の地であったことが窺える。江戸期には上板橋村と下板橋村に分かれた。
[近代]板橋町 北豊島郡の町名。江戸期からの金井窪村、中丸村、下板橋宿、池袋村飛地、上板橋宿飛地、滝野川村の一部が合併して成立。大字は金井窪、中丸、池袋、下板橋、滝野川の5大字を編成。町役場は大字下板橋に設置され、1914(大正3)年、木造瓦葺洋式2階建の庁舎を新築した。現在は仲宿の仲宿ふれあい広場の地で以前は清掃事務所があった。人口は1898(明治31)年に7,141人、1916(大正5)年には1万680人、1922(大正11)年には1万8,196人、1925(大正14)年には3万891人、1930(昭和5)年には4万4,713人と増加。1932(昭和7)年10月1日、東京府東京市板橋区板橋町一~十丁目となる。
[近代]板橋町 1932(昭和7)年10月1日、東京府東京市板橋区が発足。板橋町一~十丁目があった。1874(明治7)年~1949(昭和24)年に第一~十小学校が開設された。1935(昭和10)年、1939(昭和14)年に三丁目の一部が豊島区長崎東町三丁目、高松二丁目に編入。1956(昭和31)~1965(昭和40)年に現行の稲荷台、大谷口上町、大山町、大山金井町、大山東町、熊野町、幸町、南町、大和町、弥生町、双葉町、富士見町、栄町、常盤台一~四丁目、中板橋、仲宿、仲町、中丸町、氷川町、本町、板橋一~四丁目、加賀一・二丁目となる。
撮影場所:平尾宿