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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

48年革命5-ウィーン3月革命宰相逃亡

2022.05.14 11:15

フランス2月革命の報はすぐメッテルニヒに届いていたが、彼はウィーンには革命は起こらないと自信を持っていた。しかし29日にウィーンに届くや、銀行の取り付け騒ぎが起こった。さらにメッテルニヒ退陣を求めるビラが撒かれる、オーストリアは言論の自由や改革が遅れていたが、メッテルニヒのせいだと思われた。

3月3日ハンガリー議会で、議会権限拡大の演説があり、11日にプラハで自由拡大の大集会が開かれた。墺帝国の他民族性はこういうときアキレス腱となる。そして3月13日、ウィーンで学生の陳情デモが開かれた。このとき議会前で、フィッシャーホーフという学生が熱弁を奮い、皆が集まった。

群衆は大きくなり、さらに口々に叫ぶ。軍が動員されたが、イタリア警備隊が発砲して死者を出してしまった。労働者が反撃して市街戦が拡大、市民側の死者は50人にのぼった。今度は、城壁外の貧しい人が住む市外区で、商店が襲われ、火が立ち上った。市壁内を抑えられても外は抑えられない。

この機に、宮廷内のゾフィー大公妃をはじめとした反メッテルニヒ派が宰相の辞任を画策し、彼は辞任を余儀なくされた、もはや75歳だった。市内は騒然となり、メッテルニヒが危険となったため、国外に脱出し、一つの時代が終わった。皇帝は憲法を約束したが騒乱は止まらない。