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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

F.ショパン、ショパン、シャファルニャ村とオブローヴォ村でマズルカを弾く…親から離れて村のユダヤ人の安息日や婚礼で弾きたくないショパンは…

2022.05.15 10:08

14歳のショパンは、自分のことを「ピション」と呼んでいた。シャファルニャ村での出来事を家族へ宛て、ポーランドの新聞記事の真似て『シャファルニャ通信』として伝えた。…「1824年8月19日。8月15日、シャファルニャでの音楽集会では、

聴衆と呼べる人は誰もいない。ピション氏は、プログラムに登場し、カルクブレンナーの協奏曲を演奏しました。

しかし、誰にも何も印象を与えることはありませんでした。

このピション氏によって演じられた「小さなユダヤ人」も同じでした。」ショパンは、

自分のことを、ピション氏として自分で書いて、ユーモアを交えて家族に新聞記事のように伝えた。

ショパンは、8月15日シャファルニャ村でユダヤ人のマズルカ舞踏を見て、その印象を即興的に曲にして披露した。「小さなユダヤ人」という題名は村のユダヤ人が小さかったという意味ではない…。ポーランドであるが、そこにはユダヤ人が集まっていた小さなひとつの村があった、それがシャファルニャ村だった。ショパンの父ニコラはフランス革命から逃れて来たときシャファルニャ村を

知っていた可能性があり、ショパンの祖父はフランスに住む前はシャファルニャの出身であった可能性がある。なぜなら、ショパンの祖父は車大工であったため、当時、精密な能力を必要とされた車大工はユダヤ人の職でもあったからだ。

ショパンは、マズルカ作品17の4をシャファルニャ村で書いたのだ。つまり「ユダヤ人街」と言う意味であろう。

ショパンは両親には、シャファルニャ村では、聴衆も誰もいなく、誰にも感銘を与えなかったと書いていたが、同じ日に、別の事も書いていた。隣り村のオブローヴォ村の領主屋敷にシャファルニャ村のユダヤ人達が穀物を買いに行った時、ショパンはユダヤ人の安息日に「小さなユダヤ人」を披露した。それを聴いた村の人々は喜びショパンのピアノに合わせて踊り浮かれたのだ。そして、ショパンに是非、オブローヴォ村の婚礼の余興でも演奏してほしいと村の領主にせがんだのである。ショパンは村の余興係は本当はやりたくなかった。

ショパンのこのマズルカは後にパリで手直ししたと言われている。ショパンは自作の曲を後に何度も手直し芸術作品に高めた。

シャファルニャ村

ポーランドのクヤヴィア・ポメラニア自治州

ショパンが1824年から1825年にかけて滞在した19世紀の古典主義の領主の屋敷マナーハウス(領主の屋敷)

村には19世紀に建てられた古典主義のマナーハウスがあり、ショパンは此処に1824年から1825年の2回、学友だったドミニクジエワノフスキーの父、ジュリアス・ジエワノフスキーの招きで夏の間シャファルニャを訪れていた。

現在の邸宅は、19世紀後半に建てられたもので、ショパンの頃の邸宅の壁を残して改修した。