母なる大地
【進化は退化?】
創世記2:7
「主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」
ヨブ記34:14-15
「神がもしその霊をご自分に取りもどし、その息をご自分に取りあつめられるならば、すべての肉は共に滅び、人はちりに帰るであろう」
聖書には人間は土の塵から創られ土に返っていく存在だと 語られています。
更に神の息(=聖霊、風)を吹き入れられ生きるものとなったとも記されています。
命は大地から生まれ、大地に帰る存在。大地を通して循環し続けるエネルギー。そのエネルギーに神の息が吹き込まれ生きるものとなった。神の息が取り去られると(抜けると)肉体は滅び土に帰ると聖書は語ります。
聖書の神話表現を 今日的な言葉で置き換えると 肉体は大地から生まれ 神の息(霊魂)が去れば肉体の死が訪れ、大地に帰り その成分は循環し続ける。シーターヒーリングでは受胎するとしばらくたって 魂が(今世を生きる目的をもって)受精卵を選んで入り、命として成長してゆくと伝えます。(選択が間違っていたと感じるときは 出て行き流産)
こんな大地につながる命の存在が 大地から切り離されるとパワーを失うのはあまりにも明確です。
大地には過去との繋がりや現在の自己を確認できる時間と、柔軟で奥行きがあり、光や風、土や緑、生命のエネルギーと動きが感じられる空間があります。
しかし現代人はコンクリートジャングルといわれる乱立するビルの谷間に住み 大地はアスファルトやコンクリートで塗り固められ 大地と切り離された命を生きています。
より安全に、より快適に自然を克服し、支配する科学万能主義は「天空の城ラピュタの物語」を連想させます。バベルの塔、大国主命の国譲りの条件の話・・・etc.私たち人類は大地に根差すことより 天高く昇ることを求める生き物であることを 示すのでしょうか?
安全、快適、便利さを求めて進化してきた人間は 本来供えられていた機能を退化させ 五感、エネルギー感覚を失い 今や人口脳に支配される明日さえ杞憂される程になりました。
まさに大宇宙の愛と調和のエネルギーと響きあい 本来の姿を取り戻す必要を痛感します。
【生憎の雨✩慈雨】
「苦☆楽は自分の選択」・「運命の輪は自分が回す」
日光巡礼に出かけました。あいにくの雨でした。1日めは雨の中 日光東照宮などの参拝をしました。
翌日の天気予報は午後になってようやく晴れるという内容でした。それ故 翌日の予定は流動的になるというアナウンスがされました。翌朝、やはり雨です。湖畔に出て 予定外の講話がありました。私流に受け取った内容を掻い摘んで紹介します。
日光は 長い間雨が降らず、両日の雨の後は 晴れが続くということでした。
「よりによって」との思いは 生憎の天気と表現し「恵みの雨」との思いは 慈悲の喜びとして表現されます。慈悲の喜びは 利他心をベースにした四無量心によって得られます。
私たちは宇宙の一部であり、日光の一部です。(肉体は新陳代謝をしながら 死と再生を繰り返します。 他の命をいただきながら自分の命を営み続けます。ですから寿命が来れば 生かされてきたことへの感謝のお返しとして「自分の肉体が他の命に捧げられ 他を生かせる幸い」を 習修することが勧められます。)
日光の喜びを自分の喜びとし、日光の痛みを自分の痛みにする時、この雨は慈雨と感じられます。
そう受け取った時 不思議なことに 自然からも愛の応答が帰ってきました。
(「植物を育てる時 よい音楽や 愛の言葉がけがどれほど大事か」を ご存知の方も多いと思います。)日光には豊かな自然があります。木々や無数の命が息吹いています。
慈雨を体験するとは無我の体験であり そんな体験も聖地巡礼の目的の一つです。
まだ雨の残るなか 聖地巡礼に出かけました。
男体山はその頂まで くっきりと姿を現し、 雨で洗われた 清いエネルギーに包まれる幸いを 味わってしまいました。
山々にかかる白い雲は幻想的で 静かな美しさを堪能してしまいました。
華厳の滝では 虹をみることもできました。虹はひかりと水、義と愛、天と地の融合とも言えます。
その後は絶好の秋日和となり、美しい千手が浜で 豊かなひと時を過ごすことができました。