俳句のことばをめぐるメモ
http://a-un.art.coocan.jp/za/essay/memo.html 【俳句のことばをめぐるメモ】より
具体の俳句作品のほか、自然科学やアートに関わる経験から、俳句および俳句のことばについて考察した小文です。
技術ということばを使っていうと、私たちの社会は凄まじい勢いで技術を発展させてきた。それ自体はすばらしいことだし、私たちも生活のさまざまな場所でその恩恵を受けている。しかし、あらためていうまでもなく、同時に問題も抱えている。
技術は、ものごとを取り扱ったり、処理したりするための手段。私たちの社会が凄まじい勢いで発展させてきた技術とは、そのなかでもとくに科学を応用して人びとの生活に役立つようにする手段。技術は、本来知恵というものと密接に結びついていた。しかし、いつの間にかそれを置き忘れてしまったのだと思う。
社会は人と人との関係の場であり、その集積。知恵はその秩序を豊かに維持しようとする意志であり、技術がそれを具体化する。知恵を置き忘れてしまえば、つまり具体としての人が置き忘れられてしまう。
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たとえば、芭蕉の有名な一句「古池や蛙飛こむ水のおと」における「や」。作者の感動を打ち出すとともに韻律に格調を与え、また、切れ字というように切ることにより生み出される無の空間が普遍の存在としての古池を提示し、同時に、単に切るだけではなく、「に」という助詞を内包しながら以下へ接続し具体の古池をも提示する。さらには、音を詠みながらも一句全体に静寂を与える働きも持っている。この「や」にはこのように多様な意味があるのだが、それを受け取ることができるのが知恵なのだと思う。
比喩的な意味だけでなく、私たちの身体は優れた共鳴体である。震えるような感動というのは、まさしく身体が共鳴しているのだ。芭蕉がこの「や」を置いたのは三百年以上も前。芭蕉がどのような思いでこの「や」を置いたのか、その真意はわからない。しかし、私たちの身体は確かにこの「や」に共鳴している。
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短歌は用言の詩、俳句は体言の詩。そんな言い方ができると思うが、俳句は短歌よりも音数が少なく、さらには切れを内包するために、切断されている。一句のなかに切断を抱えるとともに、一句が世界と切断されている。この切断が俳句の大きな、そして本質的な魅力だと思う。切断は空間や時間を切る。空間や時間を切ることによって、無を生み出していく。この無によって、もの/ことが再生(=架橋)されていく。俳句とはこうした過程もしくは行為なのだと思う。
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2年ほど前(2005年)、横浜美術館の「マルセル・デュシャンと二○世紀美術」展を見た。デュシャンには興味をもっていたが、作品を見たのはこのときがはじめてだった。
とても面白かった。まず入口正面に「泉」(Fountain 1917/1964)が展示されていたことも、「さあ、どうぞ」といわれているようで、わくわくした。「さく(結界)、またはフロアに貼られたテープ等の手前でご鑑賞ください」。会場に貼られていた注意書きだが、こうした空間に置かれていても、デュシャンの作品は魅力的だった。おそらく彼の作品のもつ切断の力が、それとは別のところで毅然と立っているからだろう。
この切断の力とは、制作当時のアートの置かれた文脈を切断するそれであるとともに、現在置かれている場所においても機能するそれであり、常に「いま・ここ」においてそれを実行する力なのだろう。だから、見るものを惹きつけ、そして不安にする。デュシャンとはそんな作家なのだと思う。
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私は大学では木材化学を専攻し、樹木の成分やその加工品の分析に明け暮れていた。分析とは物質の組成を決定していく作業。物質を切り分け、切り分けたものに名前を与えていく(必ずしも新たな名前を与えるという意味ではない)。ここで求められるのは明確さ。つまり、これとこれは同じもの、これとこれは違うもの、と断定していく明確さ。しかし、こうした手法でものごとに関わっていくことに違和を感じていた(蛇足だが、手法そのものに違和を感じていたわけではない)。
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俳句は幸せな詩型なのかもしれない。ことばはとてもやっかいなもので、日常的なやりとりも文芸も、同じことばによってなされる。あるいはすこし角度を変えれば、散文的な表現も韻文的な表現も、という言い方もできると思う。違うのは、その働かせ方。しかし往々にして、前者の作法によって、後者が取り扱われてしまう。
俳句はとても短い詩型。短歌と比べても55パーセントほどの音数である。日常的なやりとりや散文的な表現における一般的なことばの運用が成り立たない。切れや季語を用いながら、別の方法によってことばを運用する。このことは多くの人が知っている。しかし短歌は、やはり日常的なやりとりや散文的な表現とは別の方法でことばを運用しなければならないにも関わらず、作者も読者も必ずしもそうではない。つまり、俳句はことばによる表現のなかできわめて特殊な姿かたちをしているために、その本質が十分に理解されているかどうかは別としても、一定の理解に基づいて取り扱われているのではないだろうか。
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冬景色なり何人で見てゐても 田中裕明『櫻姫譚』(ふらんす堂、1992年)
初景色こなたの湖は汽水かな
鞄より出してつくづく青き梅雨
田中裕明はとても魅力的な作品をつくる作家である。ふわふわというか、ふにゃふにゃというか、そんな感じの作品だが、俳句という詩型の本質をしっかりと捉えていると思う。現象としては再生(=架橋)、かたちとしては連結。それを生み出す切断。
たとえば、一句目。「何人で見てゐても冬景色なり」と理解する人はいないだろう。「冬景色」という普遍と「何人で見てゐても」というある具体のモンタージュが、この作品の構造である。これら二つを「なり」というやわらかな助動詞で結び、二つのあいだの往復をしやすくするとともに、中七の句割れによってリズムをつくり、ある具体をいきいきと起動させている。切断とは沈黙と言い換えることも可能である。沈黙は深さを志向する。一句全体が世界から切断されることによって、深く世界へ架橋する。すこし大袈裟な言い方だが、この一句は俳句のそうした本質を備えていると思う。そしてこの一句は(むろんほかの二句も)、こうした解釈がなされた後でも、読者を惹きつける。解釈をする/しないに関わらず、その実体は変わらないのだから。
(本稿は、[BLEND]第7号・第8号の、今井恵子および高橋みずほとの鼎談における筆者の発言に加筆・修正したものである)