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日本人としてのアイディンティティ

2022.05.16 12:38

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/32376236/ 【日本人としてのアイディンティティ】

【スリッパを下駄に変える?】

アメリカでも くつを脱ぐ習慣を観たのに!!下駄を室内履きにしている人に続けて3人会いました。

一頃草履保育が流行ったり、5本指靴下がはやったりしました。

脳溢血で倒れた夫さえ 面倒な5本指靴下を履くようになりました。

聞いてみると「5本の指が自由に動くのがいい」と言うことでした。

もちろん指体操は気持ちがいいです。下駄の効能はどうやらそれ以上です。

足の親指と人差し指にギュッと力を入れて立って見ると 重心が内側にかかるのが解ります。

重心を内側に掛けようとして内股になると 過緊張になり 外股になるとエネルギーが漏れてしまいます。

下駄をはくのは 足を平行にしたまま太ももの内側に重心がかかる楽な良い方法です。

気運は足の外側から湧腺に向かい 湧腺から内側を通って 会陰、丹田に溜まります。

下駄、草履は 肛門を閉め、下丹田を強化する自然な生活習慣でした。

畳に胡坐をかいて座るのも 股関節にはとても良い習慣です。

椅子を使う文化圏では 股関節の手術がとても多いと聞きます。

食生活も 欧米のたんぱく質は 飽和脂肪酸が多い 肉類中心です。

魚肉、大豆たんぱく中心の日本食は 不飽和脂肪酸を多く含みます。

オメガー3,6,9を多く摂る食生活だということです。

日本の生活習慣に馴染んでいれば 何かのストレスがない限り 肥満になりようがないとも言えます。

エコノミックアニマルだとか、個の埋没だとか、第二次世界大戦故に犯した罪の故に 日本人であることへの感謝が足りなさすぎた私ですが ある神官さんとの出会いで 日本人としてのアイディンティティを考え直している この頃です。


http://gunzo.kodansha.co.jp/10052/18199.html【渋面で描く近代日本像 片山杜秀】より

 横光利一が一九三七年から敗戦直後まで書き継いで結局未完に終わった長編小説『旅愁』。それをサカナにした大漫談である。いや、漫談というよりはやや無愛想な長談義と呼ぶべきかもしれない。著者の書きっぷりは決して楽しげではない。けっこう渋面である。『旅愁』の主人公は西洋文化にそれなりに親しんできたつもりの日本人。彼が実際に欧州に留学する。さまざまな違和感に苛まれる。孤独に追い詰められる。寂しくなる。祖国が恋しくなる。人として分かりあえる相手は同じ日本人しか居ないだろうと思う。異郷はどこまでも異郷だと肌身で知って帰国する。そのあと、かつてはそれほどと思わなかった日本のよさを再発見してゆく。日本に回帰する。 陳腐なまでにステレオタイプともいえる。だが横光はその物語を平凡と見限らない。決して冷笑的にも虚無的にも進めない。すこぶる真面目なのである。誠実に書き込もうとして七転八倒する。そこが横光のよさだろう。その真摯さゆえに『旅愁』は横光一個の文学ではなく日本人の文学になりおおせている。西洋と接触する日本人の煩悶体験の典型が、濃い墨汁でとられた魚拓のように生々しく精密に、多くの破調もそのままに綴られる。『旅愁』というひとつの小説を通じて、明治や大正や昭和の日本人のもろもろの洋行体験が似たようなものとして、もしくはいくぶん食い違ったものとして思い起こされてくる。著者は、そういう連想術を稼働させる転轍機というか、色々な経験を飲み込み吐き出しのたうつ大魚のような代物として『旅愁』を発見する。あとは『旅愁』から思い起こされるものどもを横光と組み合わせて盛り付けてゆけば大漫談は際限なく回転してゆく。 著者が本書で繰り広げる連想とはたとえばどのようなものか。横光が『旅愁』を生み出す欧州旅行に実際に出かけたのは一九三六年。行きは神戸から船。俳人の高浜虚子が同船していて、洋上や経由地で度々句会が開かれる。はじめのうち横光は「鰐怒る上には紅の花鬘(はなかづら)」などと詠んで虚子に褒められる。しかし日本から遠ざかるにつれ「俳句はだんだん下手(まず)くなって来た」(横光の日記から)。「印度洋羽毛動かず鳥立ちぬ」とか「十五夜の月はシネマの上にあり」とか。 だがこの俳句の拙さはひとり横光の問題ではない。虚子でさえ下手になってくる。日本の四季の移ろいから遠くなればなるほど、俳句の美学を成り立たしめ詠み手と受け手の共感の地平を確保する季語が利かなくなってくるのだ。よい俳句ができるわけもない。横光も虚子も日本人としての手足をもがれたように感ずる。 この話が著者の連想を広げてゆく。一九〇〇年、夏目漱石がロンドン留学の旅に出る。横浜から船で行く。乗船直前、寺田寅彦宛の葉書に一句添える。「秋風の一人をふくや海の上」。好調である。ところが漱石の俳味は早くも香港あたりで衰える。香港から日本の高浜虚子に贈った一句。「阿呆鳥熱き国にぞ参りける」。著者は「凡作である」と断ずる。 本書の流儀とはこういうものだ。一九〇〇年の漱石と一九三六年の横光の洋行が、三十六年のギャップを二人の共通の知人、虚子に埋められて、見事につながる。しかも時代の懸隔は結果に何の相違ももたらさない。俳味の喪失が日本人としてのアイデンティティを壊す。自信喪失の萌芽となる。単なる繰り返し。明治から昭和への歴史は何の進歩ももたらしていない。しかもそれは目的地の欧州に着くはるか手前の出来事なのだ。 もっと遠くに行けばもっとおかしくなるのではないか。欧州ではさらに精神が痛めつけられるのではないか。本書はその予想を裏切らない。横光の旅の愁いを、著者はたとえば漱石の、あるいは二葉亭四迷の、森外の、林芙美子の、その他大勢の洋行体験と重ね、交錯させながら深めてゆく。そこからある種のイライラを抱えた未完の大作『旅愁』が立ち上がってくるのである。 そういう異郷での精神の危機の経験は、危機を克服するための足下の練り直しを要請する。ここに日本回帰という定番が登場する。定番といってもやはりヴァリエーションはある。著者は『旅愁』に先んじる横光の短編小説「厨房日記」に描かれた、シュールレアリスト、トリスタン・ツァラと横光との会話を取り上げる。一九三六年春、パリでの本当の出来事。通訳を務めたのは若き日の岡本太郎である。 ツァラに日本での超現実主義の人気のほどを尋ねられた横光はこう返答する。「日本ではシュールリアリズムは地震だけで結構ですから、繁昌しません」。 欧州の詩人や芸術家は超現実主義を現実社会への抵抗の方法として発明した。ところが横光は地震国日本の現実そのものが超現実だという。そこには関東大震災の体験が反映している。日本の自然環境が用意する超現実性│想定外や例外状況が当たり前という語義矛盾の現実│を受け入れ適応しなくては、日本人は生きていけない。 このツァラとの会話から『旅愁』での主人公の日本回帰の質も定まってくるというのが著者の見立てだろう。『旅愁』が強調する回帰すべき日本とは古神道の日本なのだ。横光の理解する古神道を端的に言えば、いついかなる事態が起きようともそのありのままを素直に肯定する態度なのだと思う。大戦争も大災害も平和も悲惨も敗戦も、みんな肯定するのである。この極端な日本像とは、西洋への感覚的違和がおのれの無力感・非存在感にまで進み、それがおのれのみならずおのれを支える日本にまで投影されて出き上がるのだろう。それが、西洋の理性中心主義というか何でも人間がやりおおせるという思想への地震国日本人の本能的反発ゆえに増幅するのだろう。 近代日本人が西洋への旅の愁いの果てに辿り着く日本像が、戦時期の文学たる『旅愁』ほど常に極端な質を示すわけではないにせよ、やはり多かれ少なかれ「古神道的」な全肯定のニヒリズム--個人の無力を当たり前として現実に随順する寂しい信仰--をどこかに孕むものであるとすれば、『旅愁』から紡がれる近代日本論が楽しく希望に満ちたものになるはずがない。横光が大真面目で誠実なキャラクターだけにその感はなおさらだ。やはり本書は渋面の漫談である。

 横光利一が一九三七年から敗戦直後まで書き継いで結局未完に終わった長編小説『旅愁』。それをサカナにした大漫談である。いや、漫談というよりはやや無愛想な長談義と呼ぶべきかもしれない。著者の書きっぷりは決して楽しげではない。けっこう渋面である。

『旅愁』の主人公は西洋文化にそれなりに親しんできたつもりの日本人。彼が実際に欧州に留学する。さまざまな違和感に苛まれる。孤独に追い詰められる。寂しくなる。祖国が恋しくなる。人として分かりあえる相手は同じ日本人しか居ないだろうと思う。異郷はどこまでも異郷だと肌身で知って帰国する。そのあと、かつてはそれほどと思わなかった日本のよさを再発見してゆく。日本に回帰する。

 陳腐なまでにステレオタイプともいえる。だが横光はその物語を平凡と見限らない。決して冷笑的にも虚無的にも進めない。すこぶる真面目なのである。誠実に書き込もうとして七転八倒する。そこが横光のよさだろう。その真摯さゆえに『旅愁』は横光一個の文学ではなく日本人の文学になりおおせている。西洋と接触する日本人の煩悶体験の典型が、濃い墨汁でとられた魚拓のように生々しく精密に、多くの破調もそのままに綴られる。『旅愁』というひとつの小説を通じて、明治や大正や昭和の日本人のもろもろの洋行体験が似たようなものとして、もしくはいくぶん食い違ったものとして思い起こされてくる。著者は、そういう連想術を稼働させる転轍機というか、色々な経験を飲み込み吐き出しのたうつ大魚のような代物として『旅愁』を発見する。あとは『旅愁』から思い起こされるものどもを横光と組み合わせて盛り付けてゆけば大漫談は際限なく回転してゆく。

 著者が本書で繰り広げる連想とはたとえばどのようなものか。横光が『旅愁』を生み出す欧州旅行に実際に出かけたのは一九三六年。行きは神戸から船。俳人の高浜虚子が同船していて、洋上や経由地で度々句会が開かれる。はじめのうち横光は「鰐怒る上には紅の花鬘(はなかづら)」などと詠んで虚子に褒められる。しかし日本から遠ざかるにつれ「俳句はだんだん下手(まず)くなって来た」(横光の日記から)。「印度洋羽毛動かず鳥立ちぬ」とか「十五夜の月はシネマの上にあり」とか。

 だがこの俳句の拙さはひとり横光の問題ではない。虚子でさえ下手になってくる。日本の四季の移ろいから遠くなればなるほど、俳句の美学を成り立たしめ詠み手と受け手の共感の地平を確保する季語が利かなくなってくるのだ。よい俳句ができるわけもない。横光も虚子も日本人としての手足をもがれたように感ずる。

 この話が著者の連想を広げてゆく。一九〇〇年、夏目漱石がロンドン留学の旅に出る。横浜から船で行く。乗船直前、寺田寅彦宛の葉書に一句添える。「秋風の一人をふくや海の上」。好調である。ところが漱石の俳味は早くも香港あたりで衰える。香港から日本の高浜虚子に贈った一句。「阿呆鳥熱き国にぞ参りける」。著者は「凡作である」と断ずる。

 本書の流儀とはこういうものだ。一九〇〇年の漱石と一九三六年の横光の洋行が、三十六年のギャップを二人の共通の知人、虚子に埋められて、見事につながる。しかも時代の懸隔は結果に何の相違ももたらさない。俳味の喪失が日本人としてのアイデンティティを壊す。自信喪失の萌芽となる。単なる繰り返し。明治から昭和への歴史は何の進歩ももたらしていない。しかもそれは目的地の欧州に着くはるか手前の出来事なのだ。

 もっと遠くに行けばもっとおかしくなるのではないか。欧州ではさらに精神が痛めつけられるのではないか。本書はその予想を裏切らない。横光の旅の愁いを、著者はたとえば漱石の、あるいは二葉亭四迷の、森鷗外の、林芙美子の、その他大勢の洋行体験と重ね、交錯させながら深めてゆく。そこからある種のイライラを抱えた未完の大作『旅愁』が立ち上がってくるのである。

 そういう異郷での精神の危機の経験は、危機を克服するための足下の練り直しを要請する。ここに日本回帰という定番が登場する。定番といってもやはりヴァリエーションはある。著者は『旅愁』に先んじる横光の短編小説「厨房日記」に描かれた、シュールレアリスト、トリスタン・ツァラと横光との会話を取り上げる。一九三六年春、パリでの本当の出来事。通訳を務めたのは若き日の岡本太郎である。

 ツァラに日本での超現実主義の人気のほどを尋ねられた横光はこう返答する。「日本ではシュールリアリズムは地震だけで結構ですから、繁昌しません」。

 欧州の詩人や芸術家は超現実主義を現実社会への抵抗の方法として発明した。ところが横光は地震国日本の現実そのものが超現実だという。そこには関東大震災の体験が反映している。日本の自然環境が用意する超現実性--想定外や例外状況が当たり前という語義矛盾の現実--を受け入れ適応しなくては、日本人は生きていけない。

 このツァラとの会話から『旅愁』での主人公の日本回帰の質も定まってくるというのが著者の見立てだろう。『旅愁』が強調する回帰すべき日本とは古神道の日本なのだ。横光の理解する古神道を端的に言えば、いついかなる事態が起きようともそのありのままを素直に肯定する態度なのだと思う。大戦争も大災害も平和も悲惨も敗戦も、みんな肯定するのである。この極端な日本像とは、西洋への感覚的違和がおのれの無力感・非存在感にまで進み、それがおのれのみならずおのれを支える日本にまで投影されて出き上がるのだろう。それが、西洋の理性中心主義というか何でも人間がやりおおせるという思想への地震国日本人の本能的反発ゆえに増幅するのだろう。

 近代日本人が西洋への旅の愁いの果てに辿り着く日本像が、戦時期の文学たる『旅愁』ほど常に極端な質を示すわけではないにせよ、やはり多かれ少なかれ「古神道的」な全肯定のニヒリズム--個人の無力を当たり前として現実に随順する寂しい信仰--をどこかに孕むものであるとすれば、『旅愁』から紡がれる近代日本論が楽しく希望に満ちたものになるはずがない。横光が大真面目で誠実なキャラクターだけにその感はなおさらだ。やはり本書は渋面の漫談である。


https://www.nf-jlep.org/topics/research/421.html 【HAIKU~世界一短い詩に込められた日本人の心~】より

当財団は、8月末にルーマニアのブカレストで開催された「第15回ヨーロッパ日本語教育シンポジウム」を後援しました。これは当財団が日本語教育基金(The Nippon Foundation Fund for Japanese Language Education、略称NF-JLEP)を通じて、ブカレスト大学の日本語教育を長年支援してきたことにより実現したものです。特別講演では、俳人の黛まどか氏が俳句の特徴である「有季定型」を解説しながら、日本固有の文化・日本人の美意識や自然観などについて講演されました。

ブカレスト大学では、シンポジウムでの講演に先立ち、一般の人々を対象にした黛氏の講演会「HAIKU~世界一短い詩に込められた日本人の心~」を開催いたしました。会場には、日本語を学ぶ学生、文化人、俳句愛好家など100名を超えるルーマニアの人々が詰めかけ、講演と黛氏の俳句朗読に熱心に耳を傾けました。さらに講演後も、黛氏を取り囲んで俳句や日本文化について意見交換が続きました。当日の講演要旨をご紹介します。

俳句は17音節からなる世界で一番短い詩。しかし、その中に日本人の美意識、自然観、哲学、思想、情趣といった様々なものが込められている。また俳句には「有季定型(季語があり、五七五)」というルールがある。これは、日本人が古来、四季の移ろいに心を寄せ、自然を愛で、型を尊重して生きてきたということで、俳句に限らず、日本の伝統文化に共通する。俳句とはどのようなものか、現代の日本における俳句について説明しつつ、日本人の心に触れていきたい。

俳句との出会い

私が俳句と出会ったのは、次のような一つの句がきっかけだった。〈花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ〉。「花衣」は、花見に行く装いのことである。日本人は桜の花が大好きで、昔は桜が咲く季節が近づくと毎年、今年はどんな着物を着て桜を見に行こうかと「花衣」を新調したそうである。

この俳句の意味は、お花見に行って帰ってくる。そして着物を脱いでいく。着物を着るのに使ったたくさんの絹の紐が足元に渦をなして散らばっていく。まだ着ていた人の肌のぬくもりが残っているような、色とりどりの紐が渦をなし、その芯に、着物を脱ぎ終えたばかりの女性がすっと立っている。外は満開の花の夜。

 この言葉に描かれた世界だけなら、本当に美しく艶のある風景が思い浮かぶが、この俳句の言葉のもっと奥にある、久女が本当に言いたかったことを読み解いてみよう。久女は明治23年生まれ。その時代に、女性が俳句のよう自己表現を以て活躍するということは、社会がなかなか許してくれなかった。女ごときが俳句なんぞにうつつを抜かしてと、非常に世間から悪く言われ、家庭内もうまくいかなくなり、精神病院で亡くなるという不幸な最後をとげた。それだけの才能がありながら、生前一冊の句集も出せず亡くなった。足元にまとわりついている紐いろいろというのは、実は当時の女性を縛っていたたくさんの枷を言っている。この句はただの美しい情景の句ではなく、久女の嘆き、あるいは心の叫び、当時の女性を代表し象徴するような嘆きを、美しいものに昇華している。わたしはこの点が俳句の素晴らしさだと思う。

感情を生の言葉で表現するのではなく、昇華することにより、作者の魂も浄化されると私は思う。いまは、あらゆる所で饒舌な時代、説明過多な時代だと思うが、こんな時代に、かくも省略され、研ぎ澄まされて単純化された詩形に出会い、大変感銘を受けた。これが、私が俳句に出会ったきっかけである。

俳句の誕生から現代まで

 俳句は15世紀末に起こった。俳句のもとは連歌といい、「五七五七七、五七五七七」とずっとつなげていく。その最初の五七五が後に俳句となった。17世紀に松尾芭蕉が発句を独立させ、芸術性を高めていく。明治になり、正岡子規が発句の呼び方を「俳句」と変えた。そしていまでは世界中で俳句が詠まれるようになっている。ファンロンパイEU大統領も俳句が趣味で、つい最近句集を出版された。フランスでもシラク大統領や、ドヴィルパン前首相が俳句に親しんでいるそうだ。そして日本では、俳句人口は800万人とも1000万人とも言われる。あらゆる新聞、雑誌、週刊誌に短詩形の俳句、短歌、川柳の投稿コーナーがあり、そこに毎週、おびただしい数の作品が寄せられている。しかも、プロの俳句ではなく一般人の俳句である。いま、世界的に詩が低迷し、シェイクスピアのソネットでさえ初版が2000部しか刷られない時代、日本は多くの人々が俳句、短歌、川柳に親しんでいるという非常に厚いベースがある。

また俳句は、他のジャンルや他の国に少なからず影響を与えてきた。ロシアの映画監督エイゼンシュタインは、映画における「モンタージュ理論」を構築したが、そのモンタージュ理論は俳句にヒントを得て作ったと言われている。またジョンレノンは、日本で俳句に出会って少ない言葉で多くのものを想像するところにヒントを得、あの名曲『イマジン』を作ったとも言われている。

有季定型

俳句は、季語があり五七五(有季定型)というのがルールである。季節の言葉を詠むというのは、日本人独特の自然観から来ている。どの国にも美しい自然とそれぞれの自然観があるように、日本にも固有の自然観がある。それは、自己と自然を一体化するというものである。

例えば、日本には「桜狩」「蛍狩」「紅葉狩」という言葉がある。「狩」という言葉が付いているが、決してその紅葉や桜を手折ってくることではない。こちら側から一方的に「ああ、きれいだなあ」と眺めるのではなく、その自然の中に分け入り、身を浸すようにその自然を観賞する、愛でる、そういう態度を「狩」というのだと思う。

また俳句には、四季の山を表す次のような季語もある。春の山を「山笑ふ」という。芽吹きが始まって花が咲き始め、鳥が美しく囀り始める、そんなほわほわっとした明るい山を「山笑ふ」というのだ。夏の山は、「山滴る」。木々の葉が茂って万緑になり、その緑がにじみ出るような、滴るような、そんな夏の生命感に満ちた山を「山滴る」という。

秋は山が紅葉する。日本は特に楓が赤くなり、その他の葉も黄色くなったりして、とても美しくなるのだが、その様子をまるで山がお洒落をしているかのようなので、「山粧ふ」という。そして冬になり、木々が葉を落として静まりかえった山を「山眠る」という。こうやって見てみると、その自然を擬人化し、非常に人と自然が近しい関係にあるということがわかる。

「山笑ふ」という言葉には、寒く辛い冬を乗り越え、ようやく春が来たという、その春の訪れを、山と人が一緒になって喜んでいる感じがよく出ている。日本人は、自然、四季の移ろいの影響を受け、それを暮らしの中に取り入れてきた。春は初花(はじめて咲く桜)を待ち、夏は蛍を愛で、風鈴を吊って風の音を聴く。秋は月や紅葉、虫の声を愛でる。そして、冬は雪を愛でてきた。今やもうこういう暮らしは、東京などの都会では無くなってきているのだが、古い都、京都に行くと、いまでも普通に暮らしの中にこういった日本人の習慣が残っている。

季語は、このような自然と人との関わりの中から育まれてきた言葉である。どんな時代にも、たとえ戦時下でも、四季はめぐる。どんな状況でも、月は出、桜は咲き、そういう中で日本人は四季とともに暮らし、喜び、悲しみ、憂いてきた。そういった日本人の情感、喜び、痛み、涙、あるいは価値観、美意識、すべてのものを、「季語」という言葉がその懐深くに抱え込んでいる。たった17音で、時には非常に大きく深いことが言える俳句の秘密が、この季語にあるのだ。

また俳句には五七五のリズムがある。俳句に限らず、日本の文化、例えば、お能、華道、茶道、すべてのものに型がある。よく人から、「俳句はそれでなくても五七五と短いうえに季語を入れなくてはならない。非常に制約がきつく大変ではないか。」と言われるが、じつは季語があり型があるからこそ、その型の中で遊ぶことができ、大きくイメージをふくらますことができるのだ。

他の世界に置き換えてみよう。例えばオリンピックといえば、ルーマニアはナディア・コマネチで有名であるが、体操競技の床運動は12m2の枠の中でおこなわれ、その枠からちょっとでも足が出れば減点になる。だからといってその枠から出ることを恐れ、真ん中だけ使っていてはいい得点にならない。枠ぎりぎりの所で演技をすることが、大変高い得点を生む。対角線を使って連続回転し、一番最後の足がその線から少しもはみ出さず、ぎりぎりのところにストンと落ちたときの美しさは、あの緊張感あってゆえの華やぎだと思う。

 俳句もその12m2の枠と同じようなことが言える。狭い拘束された型があるからこそ逆に、私たちはその中で思い切りイメージをふくらますことができる。17音節ぎりぎりのところまで、削って、削って、削って、削っていった凝縮されたひとしずく、その緊張感ゆえの華やぎがある。

俳句は挨拶

また、俳句は挨拶ともいわれる。「こんにちは」「さようなら」「ありがとう」という挨拶である。たまたま同じ時代に生まれてすれ違った他者、人だけではなく、鳥や花などを含めた他の命への挨拶を俳句でするわけである。桜を詠むことは、長い冬を耐えて咲き出で、私たちを楽しませてくれる桜に対する挨拶である。桜が一方的に私たちを楽しませてくれるのではなく、詠むことで、その桜の命を俳句という器に永遠に宿すといえる。詠むことで関係が双方向になっていくわけで、芭蕉が300年前に詠んだ桜は、いまも瑞々しくその俳句という器の上で咲いている。

余白の美しさ

日本人はよく、「曖昧だ、なかなか『No』が言えない民族だ」といわれる。しかし「No」が言えないのではなく、言わなくてもいいのだ。「No」と言わなくても察し合うことができる。日本人は短い言葉の中で、お互いにその言葉の余白にあるものを察し合うことができる「お察しの文化」を持っており、その究極が俳句だと思う。黙ること、型を持つことで生まれるのは、余白である。この余白の美しさ、余白美というものが日本文化に共通している。

例えば能というのは、非常に動きの少ない舞台であるが、その省略の限りを尽くした能の動作ゆえに、舞台の余白に非常に高質な余情が生まれる。日本料理にも同じことがいえる。フランスでも修行したある日本料理の料理人によれば、フランス料理の味付けが10だとしたら、日本は五分(ごぶ)しか味を出さないそうだ。日本料理では五分のところで味を留める。それは味が無いということではなく、隠し味や下ごしらえに非常に手をかけているのだが、10のアピールをしない。五のところで留め、あとは隠したところに味がある。あとの五分は食べる人に探ってもらうという形である。

生け花も同じことがいえる。日本の生け花は、花で空間を埋め尽くすようなことはしない。例えば私の習っていた草月流の基本型では、真(しん)・副(そえ)・控え(ひかえ)があり、角度も決まっている。副と控えの間にはとても大きな空間ができる。その余白も生け花作品の一部である。ある華道家は、「花を生けるときに、花を見ていない」と言われた。「花ではなくて、空間のほうを見ている」と。俳句もまったく同じで、私自身は言葉を紡いでいるのと同時に、余白を紡いでいるという感覚を強くもっている。そして、その余白に漂う余情、余韻、気配、匂い、そういったものを鑑賞する側が感受して察し、さらにクリエイトしなくては、真の日本文化の楽しさはわからない。鑑賞者はそれに自分の体験を重ね合わせ、作者の感動を俳句の言葉になってない余白に再生産しなくてはいけない。そして作者の感動を追体験していく。読者と創作者、その両者の共同創作が俳句である。俳句は身の丈を超えないとよく言われるが、そういう意味では鑑賞もまた、身の丈を超えることはない。鑑賞者のほうにそれだけの体験がなければ、それだけ深いことを感受することはできないのだ。

俳句というのは、文字になっている部分以外の余白に作者の思いや思想が込められている。松尾芭蕉という昔の俳人は「謂ひおほせて何かある」と言った。言葉で言い尽くしたからといって、それでいったい何があるのだということである。

俳句の精神

俳句を作るということは、いまこの瞬間、目の前にある他者を詠むことであり、鼓動する地球の一瞬を切り取ることである。それは自らもその宇宙的な根源につながっていくというものであり、命と命の呼応、交歓が生まれ、関係が双方向になっていく。そして結果的に、俳句を詠むという行為が、自己の深い部分への旅になる。つまり他者あるいは他の命を通して、自己と向き合うことになる。

松尾芭蕉が俳句のことを「夏炉冬扇」と言った。「夏炉(かろ)」は夏の囲炉裏。「冬扇(とうせん)」は冬の扇である。ようするに、俳句なんて実用の役に立たないものだと言っている。しかし実際は、何ものにも代えられない大切なものだという意味である。俳句が詠めなくてももちろん生きていけるし、俳句があったからお腹がいっぱいになるわけでもない。しかし、日常生活に必要ないかもしれないが、人としてより豊かな人生を送るためには、俳句、あるいは文化、芸術、といったものはとても大切なものだということを、この言葉は言っている。

文化や芸術は、合理性とは対極にあるものだが、その合理性を追求するあまりに多くのものを失ってきた現代社会において、私は改めて見直すべきものではないかと思っている。

なかでも俳句は、余白を察して自然と一体化し、一本(ひともと)の菫と同じ身の丈になる、自然や他の命、他者の命を尊ぶものである。このような俳句の精神、あるいは俳句理念というのは、紛争や、環境問題など、いま世界の抱えている諸問題の解決の糸口になり得るものだと、私は確信している。