ルノワールの魅力、ゴッホの魅力
ルノワールの「舟遊びの昼食」も好きだが、ゴッホの「種まく人」も好き。ルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」に魅せられるが、ゴッホの「自画像」(1889年 オルセー美術館)にも魅かれる。「好き」とか「魅かれる」と言っても、その内容は大きく異なる。ルノワールが語りかけてくるのは「お前は人生を十分に楽しんで生きているか」。ゴッホはまるで違う。「お前は周りに流されず自分に正直に生きているか」。
人生を十分に楽しむなんてことは、口で言うほど簡単ではない。人間は「あれも、これも」求めたくなる。今より上を求めたくなる。未来を見ること、理想を求めることは悪いことじゃない。でも、未来のため、理想のために現在の生活が犠牲になってしまったら、何のための未来、何のための理想だろう。日々の生活を大事にすること、今を十分に味わうこと、それが自分の理想につながっていくような生き方がしたい、簡単じゃないけど。
ゴッホの絵は刺激的だ。眠る前に聴くならベートーヴェンよりモーツァルトだろうけど、ゴッホの絵も精神を高揚させるから、夜鑑賞するのには不向きだ。ゴッホは不器用な求道者。人間関係を取り結ぶ能力にも欠けている。リアルな現実認識能力にも乏しい。しかし、誠実だ。自分のなかからわき起こる内面の声、自らの魂の叫びに忠実だ。まさに「炎の画家」、「魂の画家」。だからこそ、観る者に強烈なインパクトを与える。自分に正直に生きることも難しい。人は日々様々なしがらみの中で生きなければならない。マルクスは人間を「社会的諸関係の総体」と定義した。生きて取り結ぶさまざまな関係は生きる喜びの源泉だが、それ以上にストレスの原因でもある。衝突を避けるためには妥協も必要。しかし、自分を失っては、生きる手ごたえ、歓びは消えてしまう。
ルノワールもゴッホも、自分にとっては人生の同伴者。あと何年生きられるのだろう。余命1年と宣告されても後悔しない生き方をしてきたつもりだ。こんな人生なら何度でも繰り返し生きたくなるような人生を送ろうと日々過ごしてきたつもりだ。これからもそれは変わらない。変えられない。
(1888年 ゴッホ「種まく人」クレラー・ミュラー美術館)
(1889年 ゴッホ「自画像」オルセー美術館)
(ルノワール「舟遊びの昼食」)
(ルノワール「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」