服従
読み終わって、呆然としながら、自分にこう言い聞かせなければならなかった。
「これは小説であって現実ではないんだ」と。
「こんなことは起こらない‥‥たぶん‥いや、もしかしたら」
──高橋源一郎(作家)
批評というより、思ったことをダラダラと。以下、ネタバレ注意。
“La tolérance et l’acceptation sont deux choses differentes. ”(「寛容と受容は全く異なる二つの事柄だ。」)『服従』で書かれたことは起こり得るのかとフランス人の友人に聞いたら、さらっとこんな答えが返ってきた。だってよ、高橋さん。
イスラムに対する風刺小説と言ってしまったらそれまでだけど、それ以上の面白さがこの小説にはあって、それはまさにこの『寛容』というキーワードで読み解けるんじゃないかなと思った。『寛容』もある種の受動的な『服従』だとしたら、なんだか本当に恐ろしいよなと。
(私の愛するオジサマ)野崎歓さんの講演会を聴きに行った時、「ウェルベックの小説の特徴は人類のヒエラルキーのトップにいた白人男性が底辺に落ちた姿を描いていることだ」なんてことを仰っていて、「あー、確かにな」と思ったのだけど、『服従』の主人公フランソワもまさにそんなティピカルなウェルベックの主人公。若い恋人には捨てられ、仕事は首になり、キリスト教に救いを求めようとするもののすぐに耐えられなくなり、結局セックス(一夫多妻制)とお金(給料アップ)につられてイスラム教に帰依する情けなさマックな中年インテリ白人男性なのです。「ああ、またウェルベックがやってるよ」とページを捲る男性たちの姿が目に浮かびますが、同じ条件を付きつけられた時、一体どれだけの人がNOと言うのだろうとも思ったり。
でも、まあ、センセーショナルに書いてはいるけど、結局フランシスの問題は拠り所のなさなわけで、それは今を生きる現代人の抱える問題でもあるわけです。いわゆる保守的なヴァリュー・システムが崩壊して、宗教も単なる迷信になってしまい、人気ポップ・アイドルが半裸にディルドーを付けてステージに立つ今、もはや若さと、美しさと、健康ぐらいしか価値がなくなってしまって(ナチスドイツ!)、だったら老い行く人間はどうしたらいいんだ、どう死と向き合えばいいんだ、って。そんな中で、服従できるぐらいの大義があったら、むしろしたいかも!?と思うのは自然なのかもしれません。Paris Review のインタビューを読んでいたら、あまりにも短い期間に多くの死を体験したため(ワンちゃんと親)、もはや無神論者でいられなくなってしまったウェルベック自身の変化がこの物語を書く理由になったそう。
Facebook のプロフィール写真をトリコロールにすることをドヤ顔で非難してる人たちがちょっとヤダなと思ったけど(しかもそういうの書いてる人、大抵英語読める子たちで、ネット系のオルタナティブメディアとかの受け売り感丸出しだったし)、めんどくさいからもちろん何もそのことについて言及しなかった私ですが、声の大きい人の意見がまかり通るっていうか、パブリックオピニオンになってしまうのが今のネット社会なんだなと思って少し恐くなった。寛容は確かに受容でもないし、同意でもない。だったら、寛容してるんだ、みたいなことぐらいは意見表明した方がいいのかな、とか。ウェルベックの小説が発禁にならないでちゃんと出版されていること自体が寛容の賜物であるわけで、そんなパラドックスを面白おかしく、ヒラリと茶化してしまうこの作家が大好きなのです。(そして、神社、仏閣に参拝し、クリスマスも祝う日本人のおおらかさも好きなのです。)