48年革命10-ウィーン革命鎮圧
2022.05.20 10:57
少し戻ってウィーンでは4月にピラースドルフ憲法を出したが、大幅に制限された選挙法だったため民衆は拒否。5月15日に第二次ウィーン蜂起が起こり、皇帝フェルディナンド1世はインスブルックに逃れた。市民はフランス革命ばりの公安委員会で市政を司り、失対公共事業を行った。
しかし6月、プラハで起きた6月蜂起を首都長官ヴィンデッシュグレーツが鎮圧に成功した。このときもうプラハでは、労働者学生とプチブル市民の間には溝ができていて、この鎮圧を市民は冷ややかに見過ごした。そして7月のイタリアでの勝利である。貴族側は復活し、プチブル市民ものせられていく。
9月に帝国議会で農奴解放の法律は成立した。これで農民の要求が満たされ、農民は静まっていく。10月6日、ハンガリーへの軍隊派遣に反対する労働者らが三度労働者が蜂起、シュテファン大聖堂を血で染める市街戦になり、戦争大臣が殺害され、宮廷も議会もウィーンを離れた。
ここで騒乱の鎮圧にあたったのがプラハで実績をつけたヴィンデッシュグレーツである。オーストリアだけでなくクロアチア軍も入った。26日から鎮圧軍はなんとオスマンのような首都砲撃を行い、31日にウィーンに突入し、激しい市街戦の末革命の首謀者は皆処刑された