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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 190 (10/06/22) 那覇四町 (1) Izumizaki Area 泉崎町

2022.06.11 12:28

那覇四町 泉崎町 (いずみざき、イジュンジャチ)



今日は沖縄県立図書館で調べ物をする。図書館は近世の旧那覇の中心地だった那覇四町 (ナファヨマチ、西町、東町、泉崎町、若狭町) の一つだ。何度もここには来ており、いくつかの文化財は見ている。泉崎をもう少し掘り下げる事にして、この那覇四町を巡り始める。(この日の後も、確認したいこともあり、更に四回にわたって再訪し、やっと訪問記ができた。)



那覇四町 泉崎町 (いずみざき、イジュンジャチ)

泉崎は昔は久茂地川の中洲で、そこを埋め立てて、発展した地域だ。泉崎は那覇由来記では、昔、此の地に酒造を業とした長者がおり、その酒が泉の如く尽きなかったので、その地を泉酒 (泉崎) と唱えたという伝説が出ている。南島風土記には泉崎は、職名丘陵の続きで、安里川と国場川との間を走って、古波蔵から城岳の丘を越し、那覇江に突出する一半島であった イズミ (泉) と云い、ワク (湧) といったとある。また、湧田の郊外に在る湧田井が字名 (涌田=上泉=泉崎二丁目) の起りとある。琉球王統時代から明治大正時代までは久茂地川沿いに民家が集中していた。

泉崎橋から内側を泉崎 (下泉町、当初は仲島町としていたが変更された)、湧田 (上泉町) を含めて橋内といっていた。「内」と称していたのは、泉崎人の地域に対して自負があった事による。かつては、泉崎とはいわず、「湧田大勢」といっていた。泉崎村は大正三年に旧泉崎村が下泉町、旧湧田村が上泉町と行政上区分されていた。この上泉と下泉は昭和35年に再度合併して泉町となり、昭和46年に泉崎町と改称されている。現在の泉橋一丁目にあたる下泉は商業地として発展し、現在でも官庁や商業ビルが立ち並び、行政、商業の中心地となり、泉橋二丁目に当たる高台の上泉 (旧涌田村) は、かつては立派な石垣門や屋根門がある屋敷が立ち並ぶ準屋敷町で、壺屋に移転する迄は涌田焼で知られた陶器の街でもあった。現在は住宅街となっており下泉とは対照的な地域だ。人口は旧上泉が旧下泉を上回っている。明治後期から1918年 (大正7年) にかけて、泉崎の仲島大瀬の附近の仲島前の浜から、渡地の前薬師堂の浜の近まで埋めたて、新開地ができ、久茂地川の泉崎側、中島前ヌ浜は旭町となった。旭町は流通商業中心の町で、現在でもオフィス街となり、住民は少ない。民家の分布が判る地図を見ると1919年と比較すると民家の範囲は上泉地域に拡大している。

泉崎の人口は明治13年にはすでに2,834人で那覇の中心だった。当時は下泉に民家が集中しており、上泉には民家はそれ程多くない。人口データがそれ以降1960年までは見つからないのだが、沖縄戦後数年は米軍に接収され、立ち入り禁止地区となっていたので、人口はほぼゼロだった。土地が開放されたのが、いつかはわからないのだが、それ以降は急速に人口は増えていった。1968年に明治時代の人口に戻り、それ以降本土復帰時は3,300人にまで達したが、それ以降は人口は減少に転じている。世帯数は上泉 (泉崎二丁目) を中心にコンスタントに増えているのだが、人口は本土復帰時のがピークでそれ以降は、横這い状態となり、現在は3000人程になっている。

昭和51年に沖縄タイムスが「思い出のわが町」という記事で那覇の各集落、町の昭和初期町並みを紹介している。民族地図が掲載されていた。この泉崎には戦前は多くの拝所や井泉が存在していた。現在でも残っているのはその内、ごく僅かだ。戦後、米軍の管轄地域となり、整地され現在の道筋と大きく異なっている。


泉崎町訪問ログ




仲島ヌ大石 (ナカシマヌウフシー)

沖縄県立図書館は那覇オーパという商業ビルに入っている。このビル入口に高さ約6mのノッチ状の仲島ヌ大石 (ナカシマヌウフシー) があり、拝所になっている。鳥居とシーサーまで置かれている。参拝者はこの鳥居の所で拝んでいるのだが、その横の隙間を通って岩の裏側にも香炉や霊石が置かれていた。近隣住民には縁起の良い岩として大切にされてきたとある。確かに今でも綺麗に維持されている。どの様な経緯でこの大岩が拝所となったのかが気になる。何か逸話などがあるような気がする。

この岩の上に龍神の拝所がある。少し上にあり、スマートフォンカメラではうまくは撮れなかった。

ここには天水龍大御神の次女で酉の干支の龍神の仁天屋船久久姫神を祀っている。


この付近は仲島前の浜 (ナカシマメーヌハマ)、大石ヌ前 (ウフシーヌメー) などと呼ばれていた。昔は、この辺りが海岸であった。更に時代をさかのぼった時代にはここは海の底だった。

この仲島ヌ大石は1756年に中国から来琉した冊封副使周煌が琉球国志略の球陽八景図に中島蕉園 (左図) として描かれている。この絵を元にして葛飾北斎が浮世絵 (右図) を書いている。絵の真ん中の岩が仲島ヌ大石で、その前は海岸になっている。

この仲島ヌ大石を描いたものがもう一つある。ペリーが琉球を訪れた少し後にはフランス艦隊が1855年10月に通称条約交渉で訪れている。当時のフランス新聞のフランク・レスリー誌に掲載されているもの。葛飾北斎のが浮世絵よりも写実的なので、実際ににこの岩がどのような形で、周りがどの様だったかもよくわかる。ペリー一行は琉球に対して好意的な印象を述べているのに対して、フランス艦隊一行は否定的な記事が載せられていた。おおらかな米国民とシニカルなフランス人との性格の違いか?


軽便鉄道那覇駅跡

ビルの前の広場は、戦前にあった沖縄における軽便鉄道各路線の起点となった那覇駅跡だ。転車台が残っており展示されている。1914年 (大正3年) に、那覇と与那原間の与那原線 (全長約9.8km) の操業が開始され、その後、1922年 (大正11年) に那覇~嘉手納線 (約23.6km)、1923年 (大正12年) に那覇~糸満線 (約18.3km) が開業した。那覇港への引き込み線 (約0.7km) も敷かれ、貨物専用として使用された。沖縄の軽便鉄道は、人々から「ケービン」の愛称で呼ばれていた。那覇駅は、1944年 (昭和19年) 10月10日の空襲により甚大な被害を受けたが、1ヵ月後には、運行が再開され、沖縄守備隊の兵站輸送や、住民の本島北部への疎開に利用されたが、翌年の3月下旬には、米軍の攻撃により破壊され、運休となった。終戦後の1947年 (昭和22年) には鉄道復興の計画もあったが、幹線道路建設が優先され、とうとう鉄道は再開されることは無かった。現在はモノレールにゆいレールが那覇空港から浦西てだこまで走っているが、かつての軽便鉄道のルートに比べてかなり短い。鉄道が再開されていれば、沖縄も那覇一極集中ではなかったかも知れない。


旭橋

那覇駅跡から久茂地川に旭橋が架かっている。この橋は330号線になるが、この道路で南が旭町で北側が泉橋町になる。琉球王統時代には仲島ヌ大石から南は海で、この旭橋は存在していない。旭地区もまだ海だった。戦前の地図に旭町やこの旭橋が記載されている。

1918年 (大正7年) に泉崎の仲島大瀬の附近の仲島前の浜から、渡地の前薬師堂の浜の近まで埋めたて、新開地ができ、久茂地川の泉崎側は旭町となった。新開地には砂糖倉庫や砂糖委託会社、石炭会社の貯炭場、その他、卸商店が移転してきて賑わっていた。更に、旭町は那覇港に面し、那覇駅もあり、流通の拠点にもなっていた。現在はこの旭町は商業地になっており、大型店舗、ホテル、ビジネスビルが建ち並び、住宅は殆ど無い。人口も僅か185人 (2020年末) しかいない。


新旭橋 (旧月見橋)

埋め立ててできた旭町を通る久茂地川は漫湖に流れ込んでいる。久茂地川には埋め立て後に橋が架けられている。当時は月見橋と呼ばれる橋が架かっていたが、現在は掛け替えられて新旭橋となっている。


松田橋跡

泉崎橋跡から久茂地川を少し上った所に松田橋跡がある。泉崎と対岸の中洲だった仲毛を結んだ橋だった。 1884年 (明治17年) 頃、第百五十二国立銀行副頭取の松田通信によってこの辺りが埋め立てられ、木橋が架けられたが、1888年 (明治21年)、 松田氏によって石橋に掛け替えられて松田橋と命名された。

1917年 (大正6年)、 電車軌道敷設の道路拡張により、橋は取り壊され、改めて木橋が架けられたが、1944年 (昭和19年) 10月10日の空襲により、橋は橋脚を残して焼失した。 戦後、木橋が架けられたが、1970年 (昭和45年) 頃、久茂地川の護岸整備により、橋は撤去されてしまった。


船蔵 (フナングヮ) 跡

松田橋跡と泉橋跡の間には船蔵 (フナングヮ) があった。ここを流れる久茂地川は山原船が那覇港の渡地 (ワタンジ) まで運んだ松の原木や樽皮板の材料を天馬船に積み替え荷上げした所で船蔵 (フナングヮ) と呼ばれ、天馬船の繋留場になっていた。この橋の付近には木材や薪炭の市場になり、橋口市場 (マチグヮー) が立ち、賑わいを見せたという。


旧那覇役所跡

琉球王国時代、港町として発展した那覇は、那覇四町とも呼ばれ、東村、西村、若狭町村、泉崎村の4つの村からなり、各村に役場が置かれたが、那覇全体を統括する役所として親見世があった。1879年 (明治12年) の沖縄県設置により、旧那覇里主所 (現東町郵便局近辺) に親見世役所が設置され、那覇四町の他に、久米村、泊村の行政も併せて管轄した。翌年1880年 (明治13年) に親見世役所は那覇役所と改称された。那覇役所及び7ヵ村の役場は、「里主所前御余地」と呼ばれた。久茂地川沿いの材木等の荷物置き場 (敷場) があったこの場所に建てられた長屋に置かれ、西・東・泉崎・若狭町・久茂地・久米・泊村の順に、一室ずつ割り当てられた。1893年 (明治26年) 頃、那覇役所は、東村の旧天使館跡に移転し、1944年 (昭和19年) 10月10日の空襲に至るまで、同地にあった。那覇役所が移転した後の長屋は、沖縄で初の新聞の琉球新報の印刷工場として、1903年 (明治36年) から1937年 (昭和12年) まで使用された。終戦後、同地一帯は米軍により敷きならされ、軍道1号線 (現国道58号) として整備された。


旧泉崎橋跡

琉球王統時代は海岸線だったところは、埋め立てられて、水路として久茂地川が流れている。この泉崎村からは、対岸にある旧那覇中心地の浮島へは泉崎橋が架けられていた。かつては橋を渡った所に鶏市 (トゥイマチ) があり、河口側には船蔵があった。

沖縄戦で破壊され消滅している。橋がかかっていた場所に説明板が残っている。

那覇と泉崎、楚辺、壺川方面を結ぶ交通の要所だった。橋の架橋年は不明だが、1683年来琉の冊封使汪楫 (おうしゅう) が著した使琉球雑録に泉崎橋口 (泉崎橋を渡った内側の地域) としてあらわれている。また、1756年来流の冊封使周煌 (しゅうこう) の琉球国志略には、球陽八景の一つ「泉崎夜月」として描かれている。これを基にして、葛飾北斎が浮世絵に描いている。

那覇港の改修工事 (1717~1718年) の記念碑の新濬那覇江碑文 (しんしゅんなはこうひぶん) には、1717年に那覇港への土砂の堆積を防ぎ、川の流力を高めるために行われた浚渫工事に伴い、泉崎橋の規模を大きくしたと記されている。

泉崎橋は1945年 (昭和20年) の沖縄戦で破壊され、1958年 (昭和33年) に元の位置から120m程北下流、ちょうど船蔵があった付近に、アーチ型コンクリート橋が架けられた。


那覇市立甲辰尋常小学校(国民学校)跡石碑

かつては、旧泉崎橋からは泉崎大路という大通りがあった。現在は道筋は変わり泉崎大通りとなっている。この旧泉崎橋を渡ってすぐの泉崎大路沿い、現在は国際通りの近くパレット久茂地の一画にも甲辰尋常小学校跡の石碑が建っていた。学校は現在の久茂地町にあるのだが、この通りが久茂地と泉崎の境になる。甲辰小学校は、1904年 (明治37年) の甲辰年に設置され、日露戦争開始を記念してこの名が付けられた。1944年 (昭和19年) の10・10空襲で焼失するまで、40年間続いたのだが、戦後、隣接する小学校があったことから再建されなかった。この後、訪問する開南小学校に吸収され、その校庭にも石碑が置かれている。沖縄戦では、昭和19年8月には対馬丸に乗船し、疎開地に向かっていた学童100人余が犠牲となっている。この対馬丸沈没では1,484人 (うち800人が学童) が犠牲になっている。


仲島の小堀跡

旧泉崎橋からの泉崎大路は現在は消滅しているが、この泉崎大路を進むと現在では那覇の最も賑やかな通りの国際通りに交差する。この国際通り沿いに泉崎村にあった人工の溜池 (小堀 クムイ) 跡がある。泉崎小堀と呼ばれた。かつては、泉崎村の地先一帯は、久茂地川が漫湖に合流する河口で、土砂が堆積した中州になっていた。この中洲は仲島 (なかしま) と呼ばれ、後に埋立られて陸続きとなった。河口付近のこの場所に、17世紀中頃、琉球に亡命し泉崎に住んでいた明人曹得魯の薦めにより、仲島大岩付近からこの地一帯を開拓し、火難封じの風水として、土俵をもって潮入口を塞ぎ水を堰き止め、溜め池 (小堀 クムイ) とした。小堀は、王国時代から鯉、鮒、鰻の養魚場として使われ、後に泉崎村の管理地となり、池から上がる収入で小堀の浚渫費に充てたという。仲島小堀は昭和初期には埋め立てられている。


仲島遊郭跡

この仲島クムイ跡から東のすぐ先には、1672年に仲島遊郭と呼ばれた花街が開かれた。泉崎の街は久茂地川沿岸に集中しており、この仲島あたりは明治大正時代までは、街から離れ民家はほとんどなかった。そのような外れに色街が置かれたのだ。那覇には、辻、仲島、渡地の3箇所に琉球王朝の尚貞王の時代の1672年 (寛文12年) に公認された遊廓があった。辻が上位に位置し品格があった。ついでこの仲島、そして庶民向けの渡地とランク付けがされていた。この仲島遊郭には馬で通ってくる客も多くおり、遊郭街の漫湖側に馬をつなぐ「馬くんち場」をられていた。仲島と渡地の遊郭は、1908年 (明治41年) に辻遊郭に移転統合された。現在では民家と飲食店が密集して当時の遊郭を偲ぶものは見当たらない。

この仲島遊郭には歌人で仲里王子と思鶴の恋物語で有名な吉屋思鶴 (ユシヤチルー 1650-1668) が、八才でこの仲島に身売りされ、この地で短い生涯を送ったと伝わっている。伝承では、思鶴は遊郭の客だった仲里の按司と恋に落ちたが、黒雲殿と呼ばれる金持ちに身請けされたために添い遂げられず (または仲里の按司とは身分が違うために一緒になれなかった)、悲嘆にくれた思鶴は食を絶ち、18歳で亡くなっ たという。仲島遊郭へ売られていく途中に詠ったという歌

仲島クムイから仲島遊郭へは仲島小矼 (こばし) が架けられており、花街への出入り口であった。仲島が辻に移転統合された際に、この仲島小矼も埋立・道路拡張により消失した。民俗地図では現在の那覇市役所駐輪場の西の道路辺りが仲島小矼があった場所で、この道路から駐輪場通路が旧上泉町 (旧涌田村) と旧下泉町 (旧泉崎村) の境だった田仲小路 (タナカスージ) にあたる。泉崎地区は、大正三年に上泉と下泉に田仲小路を境として分離している。下泉が北側で久茂地川沿いに集落があった地域で上泉は旧涌田村で昔は民家はあまりなく、一面畑だった。この上泉は人口が増えていき分離した。

花街廃止後、埋立により住宅地として発展した泉崎は、沖縄戦後の区画整理により、往時の街並みとは異なった住宅地となった。仲島クムイも仲島遊郭のその名残はなく、当時の街並みは全く変わってしまい、場所を特定するのは難しい。戦前の民族地図と現在の地図をマッピングすると大体下の図のようになる。


陽石拝所 (ハンキヌウガン)

戦前の民俗地図では仲島小堀から遊郭へは仲島小矼を渡って入る。仲島遊郭に入ったすぐ側に陽石拝所 (ハンキヌウガン) という御願所があったと記されている。ここには陽石 (ハンキ = 男根) が置かれていたそうだ。尚貞王の時代、仲島遊郭が設けられた後に、この拝所もつくられたという。街並みや道路位置は戦前と随分と変わっており、この拝所も無くなっているので、正確な場所はわからないのだが、現在の開南小学校校庭の西側道路付近にあったようだ。仲島遊郭とこの陽石 (ハンキ = 男根) を祀った拝所とは関係があるとする資料もある。性器を祀った拝所は本土でも多くあり、子孫繁栄を願って造られている。沖縄ではあまり見かけないが、ここも同じような願いで作られたのかも知れない。


泉崎学校所 (学道館) 跡 (開南小学校)

かつての泉崎遊郭から田仲小路を北東に抜けるとかつての泉崎大路に交差する。この泉崎大路沿いには、屋門 (ヤジョー) 構えの豪邸が建ち並んでいた。金持ちが住んでいた地域だ。現在は開南小学校になっている。この小学校の小さな一画には那覇の教育の発祥の地といわれる泉崎村学校所跡にあたる。泉崎村学校所は文政七年 (1824年) にこの場所に屋敷を構えていた大湾親雲上 (おおわんぺーちん) 等の寄付によって創設され、学道館と命名し、久米村の儒者の魏学源楚南親雲上を招いて教育が行われていた。校庭に片隅に泉崎村学校所跡碑が建っている。その近くにももう一つ石碑が置かれている。甲辰校記念碑とある。先に訪れた泉崎場所近くにあった甲辰尋常小学校が沖縄戦で破壊され廃校になり、生徒たちはこの開南小学校に通い始めている。そのようないきさつで、この記念碑が建てられたのだろう。

泉崎村学校所がこの開南小学校になった訳ではなく、開南小学校は戦後1947年に、開南にあった私立開南中学校の跡地に建てられ、1952年にこの場所に移転している。写真はその当時の様子。


筋荒御願、八重山宿跡

現在の開南小学校敷地内には戦前までは、校舎が建っている場所には筋荒御願 (勢治荒御願) があり、牛が寝ているような形でが5~6個あり、その奥に香炉があったそうだ。 筋荒御願の前は広場で、人力車の停留所になっていた。(名勝「識名園」の創設(上巻)-琉球庭園の歴史-著者: 古塚達朗) また、校庭には八重山人の那覇における専用宿だった八重山宿があった。那覇にはこの様に地方から出てきた郷土の人達の専用宿が各地域で設けられていたという。


涌田地蔵堂跡

開南小学校の外側道路に涌田地蔵堂跡の案内板が置かれていた。ここは旧涌田村の中心地で、菩薩を安置したお堂があったそうだ。この湧田地蔵堂は、真言宗の僧侶日秀上人 (1503 ~ 1577年) が、尚清王の時代、1538年にここに建立した堂で、赤瓦屋根の中央に擬宝珠を載せた八畳程度の平屋で、中央に石柱が立ち、石柱上部は六角の厨子の形だった。厨子の中に上人手彫りの木像が安置され、厨子には 「欽奉 六道能化地蔵菩薩 現世安穏 後生善所 大明嘉靖 十七年戊戌三春晦日 敬白」 と刻まれていた。泉崎・湧田村ではこの地蔵菩薩を村の守護仏として、旧暦の1日・15日、9月9日、10月の竈まわり (カママーイ) 等で拝んだそうだ。残念ながら、1944年 (昭和19年) の10・10空襲やその後の沖縄戦により破壊されてしまった。


涌田ガ-、涌田川碑

開南小学校の向かい側には那覇警察署があり、その一画には涌田ガ-があり、そこにはこの井泉を改修した記念碑も置かれていたそうだ。両方とも沖縄戦で消滅してしまった。


下川の神 (シチャカーヌシン、川神)

仲島遊郭を南に抜けた所に川神という拝所がある。Google Map では下川の神 (シチャカーヌシン) と表示されていた。この隣が井戸だったので、その川の神を祀っていたのだろう。この拝所は泉崎地区にあるが、泉崎だけでなく壼川集落の拝所でもあり、更に、与儀の人たちも、5月ウマチー、ウガンブトゥチ、6月ウマチー、初ウガミで拝んでいる。拝所の周りには、かつて拝みの対象となっていたのだろう、石柱が6柱置かれている。そのうちの一つには、「中の祝女御世 真呉勢阿母司 申のみふし女世」と刻まれているが、詳細はわからなかった。


壺川井 (ツボカワガー)

川神の隣には井戸跡があり、覆いが掛けられており、その前には香炉が置かれている。この井戸の水の神を祀っているのが、隣に下川の神だろう。泉崎にあるのだが、壷川井となっているので、隣村の壷川住民の井泉だったのだろう。


壷川神社 (御嶽)

壷川に近いので、この拝所も壷川と泉崎の拝所 (ウタキ) と書かれている。祠の中の霊石には「恵比須大明神 金比羅大明神 大国大明神」とあるので、沖縄の神を祀った御嶽というよりは、本土の神社の神が祀られているので、本土から国家神道の影響が強い時期に造られたのだろうか。ある民俗地図では、この拝所を仲里松尾の拝所となっていた。吉屋チルーと恋仲だったという仲里按司の屋敷あたりを仲里松尾と呼んでいたので、この近くに屋敷があったのだろう。


Harbor View Hotel ガジュマル

旧上泉は下泉から坂道を登った地域で、その坂道を登った所は涌田獅子松尾と呼ばれており、この丘地域一帯には松林がありその中に、石の獅子像が置かれていた。それでこう呼ばれているともいい、この場所は仲里王子家の請地だったので仲里松尾とも呼ばれていた。確かに、先程訪れた壷川神社は仲里松尾のすぐ下にあった。このまた、このあたりには後に壺屋に移転する涌田の窯があったという。戦後、この丘にはアメリカ軍の将校クラブ、琉球列島米国民政府の職員などの在沖アメリカ人による会員制社交クラブ (米国市民会員制社交クラブ) として使われた豪華な施設のハーバービュークラブが建てられた。別名「沖縄鹿鳴館」とも呼ばれた。

その後、本土復帰でハーバービューホテルと改装されている。ホテルの北西側入口にガジュマルの大木が生えている。那覇市景観資源に指定されている。戦前、この辺りは泉崎御願の森だったそうだ。広場があり、そこには旧士族が人力車の溜まり場だったという。


シーサー御嶽

ハーバービューホテルの南側の坂を下った小字の仲里松尾 (吉屋思鶴と恋仲だった仲里按司の屋敷があった) に、ホテルの一画なのだが、獅子松尾 (シーシーマーチュー) と呼ばれる拝所がある。下泉にあるのだが、与儀集落の拝所のようで、与儀八三会が、5月ウマチー、6月ウマチー、ウガンブトゥチ、初ウガミで、毎年理事や役員10名程度で、拝んでいる。綺麗に手入れされてます。かつて、ここは仲里松尾と言う小地名で呼ばれたらしい。この拝所には石獅子が置かれている。元の拝所に石獅子を置いたのではなく、石獅子が拝所となったのだろう。シーサーは、ヒーケーシー (火伏せ) の為に村の入口安置されるので、この辺りまでは与儀だったのかも知れない。


もう一度、久茂地川方面に戻り、那覇市の中心地、旧下泉地区に戻る。



那覇市役所

広い道幅の国際通りに面して那覇市役所がある。この場所に市役所が置かれたのは1964年で、それ以前は、1945年に壷屋地区の窯業関係者約100人の職人が帰還した際に、壷屋の民家に事務所が設置された時から始まり、牧志公設市場敷地に移転、さらに当時の開南小学校敷地内、旧グランドオリオンホテル敷地内、天妃小学校敷地内と幾度が移転を経ている。


沖縄県議会

沖縄県議会の前身の沖縄県会が1909年に開設され、戦後、1945年には沖縄県会は米軍政下で沖縄議会となった。 米軍政期間中に沖縄議会から沖縄民政議会への改組を経て、1952年に琉球政府立法院となる。 1972年の沖縄の本土復帰に伴い、日本国の都道府県議会の一つとして沖縄県議会となった。

2006年以降、自民党、公明党が県政与党で県議会では過半数を確保していたが、2008年の第10回沖縄県議会議員選挙の結果、与野党の勢力が逆転し、自民、公明は少数与党となっる。その後も、県知事は自民・公明だが、会派では少数与党が続く。2014年の第12回沖縄県知事選挙で、社民、共産、社大、生活、新風会支持の翁長雄志が当選し、3党1会派は県政与党になり、自民、公明は下野している。


涌田古窯跡

沖縄議会、沖縄県庁、沖縄県警察本部一帯から、シーサー御嶽までの広範囲に渡って、古窯跡が発掘されている。知花窯、宝口窯、涌田窯の三窯が1682年に壷屋に統合されるまでは、琉球最大規模の陶器窯だった。沖縄議会、沖縄県庁、沖縄県警察本部の建設工事の際に発掘調査が行われている。壷屋を訪問した際に、この涌田古窯跡で発見された窯跡が展示されていた。

豊臣秀吉の朝鮮出兵 (文禄・慶長の役) で薩摩に連れて来られた陶工の張献功 (張一六、仲地麗伸) が、1616年に当時薩摩にいた尚豊の要請によって、琉球に派遣され、湧田村に住まわせられて陶器製造の技術を伝えた事から始まり、張献功は湧田窯の祖とされている。この涌田村では張献功が窯業を伝える前にはすでに瓦製造をしていた事がわかっている。


愛のシーサー公園

那覇市役所と沖縄県議会の間に愛のシーサー公園があり、その中に沖縄復帰50年の際に沖縄の県花デイゴと泉に遊ぶ親子シーサー像が、青少年健全育成運動のシンボルとして建立されている。シーサーは沖縄にとっては特別な意味合いがあり、魔除けとして殆どの建物にあり、またキャラクターとしてマスコットにもなっている。沖縄のアイデンティティの一つになっている。


沖縄県庁

沖縄県庁の歴史は、廃藩置県 (琉球処分) に伴い、1879年に通堂町の旧薩摩奉行所跡に仮県庁が置かれたことに始まる。1881年に沖縄県が設置され正式に県庁舎となった。1920年に現在の場所に移転し、新庁舎 (写真左) が建設された。1944年10月10日の十・十空襲で焼失し、宜野湾村に一時移転したが、米軍上陸後は首里の壕 (真地県庁警察部壕) へと移り、陸軍第32軍司令部の転戦に従い沖縄島南部を点々とするが、1945年に摩文仁村内の壕にて島田叡知事の解散指示によりその機能を停止した。戦後は旧県庁の跡地に、米軍の手により琉球政府、米国民政府、立法院、琉球民裁判所などの庁舎 (写真右) が建築整備された。1972年の本土復帰に伴い、琉球政府庁舎が県庁となった。

その後、職員の増加で手狭になり、1986年に第1庁舎、第3庁舎、旧司法庁舎などを撤去して着工するが、琉球王朝時代の窯業釜「湧田釜」が発掘され、移転論なども再噴出した。結局、釜は掘り出され、工事は遅れ、(涌田窯は2007年11月に開館した沖縄県立博物館・美術館への設置が行われている) ようやく1990年に新庁舎 (現庁舎) が完成した。


琉球政府立法院跡地

県庁裏側には琉球政府立法院跡地の碑が置かれて、ちょっとして休憩所になっている。


非核・平和沖縄県宣言碑

琉球政府立法院跡地の碑の近くには、太平洋戦争、沖縄戦終結50周年に当たる1995年 (平成7年) 、1961年に制定された6月23日の「慰霊の日」に、この「非核・平和沖縄県宣言」碑を建て宣言を行いった。碑には、

とある。このような平和宣言の碑は沖縄各地で多く見られる。沖縄戦では殆どの沖縄の住民が辛酸を経験している。それだけに、二度と戦争を起こしてはならないという意識が非常に強く、それを忘れない為に多くの場所に碑が建てられている。これに目をやり、立ち止まることで、その思いを新たにしてほしいとに願いが込められている。


武徳殿跡

那覇市役所の脇の道を国際通りに進むと、武徳殿跡の案内板がある。現在の沖縄県議会敷地の一部には大日本武徳会沖縄支部によって建てられた武道場の武徳殿があったと書かれている。大日本武徳会は、1895年 (明治28年) に、京都で設立され、各府県に支部を置き、警察組織を通じて、武道の普及と振興を図ったいた団体。この沖縄支部は、1933年 (昭和8年) に設立され、支部役員・武道関係者・県下警察署が中心となり、寄付金を集め、1938年 (昭和13年) に起工、翌年竣工した。武徳殿は、武道大会や普及・指導の場所として、武道のメッカとされたが、戦時体制下では、軍需物資の保管庫に転用された。1944年 (昭和19年) 10月10日の10・10空襲や、その後の地上戦では、一部損壊しただけで戦災を免れた。米軍に接収された武徳殿は、1947年 (昭和22年) に将校クラブとして改修され、舞踏会も開かれていた。1949年 (昭和24年)、沖縄民政府に譲渡され、行政庁舎として使用。1959年 (昭和34年) からは、警察武道場となっていた。

1985年 (昭和60年)、沖縄県庁舎の新築工事の際に、取り壊されて跡地は沖縄県議会棟敷地の一部となった。沖縄には戦火をくぐり抜けた建物が少ないのだから、是非とも残して欲しかった。


この泉崎町の史跡巡りを始めて、何度も再訪してやっと6月も終わりになって訪問記が形になった。旧那覇、現在本庁管轄地域の各町の町誌などは発行されていない。この地域の住民はほとんどが他の地域から移ってきた寄留人で昔からの集落住民組織が無くなっていることで、地域誌作成は困難なことがあるのと、那覇市の対応も一つあると思える。いくつもの文献の断片的な情報をその都度確認していったので随分と時間がかかったのだが、何度も足を運ぶと、今はすっかり町並みが変わってしまったが、当時の様子が見えてくるようになる。


参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 泉崎界隈 (1983  川平朝申)
  • 沖縄アルマナック 5 (1980 喜久川 宏)
  • 沖縄タイムス 新聞記事 (1976-4-22)