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Okinawa 沖縄 #2 Day 193 (20/06/22) 旧真和志村 (24) Matsuo Hamlet 松尾集落

2022.06.21 04:15

旧真和志村 松尾集落 (まつお、マチュー)



前回は牧志集落を巡り、戦後沖縄の復興の原動力になった国際通りの商店街を巡ったが、この国際通りと商店街は牧志と今日訪れる松尾にまたがっている。このアーケード街はかつては牧志に属していた。このアーケード街については牧志集落のレポートに含めている。ここでは、それ以外の所を巡ったレポートトする。



旧真和志村 松尾集落 (まつお、マチュー)

1920年 (大正9年) に県庁が現在地の移転と共に、中頭、国頭の各地方からの転入者がこの地域に増えていき、それに伴い楚辺から分離し始まる。当時、この松尾は蘇鉄山城とか、ユーナー木山城と呼ばれ、美栄橋と牧志に対峙して、山城一門が住居し、 僅か十数戸位の住居しかない静かな集落だった。二中裏の大和人墓の松林に連なる一帯は赤松や琉球松が天を抑ぐように高々とそびえて松尾原と呼ばれていた。昭和の初めでも約30戸程の農家が点在している小さな地域だった。

1933年 (昭和8年) に県庁前から安里への県道 (現在の国際通り) が通じてから、道沿いに民家が増えていった。県道沿いに国際劇場が建ち次第に賑やかになり、やがて那覇のメインストリートになり、国際通りと呼ばれて奇蹟の一マイルの場所だった。戦前の松尾は元の寄宮国映館通りに面し約300世帯の住宅地だったが、終戦直後には、松尾の西側は立入禁止になっていたので、戦前の一帯の住民はやむをえず集団で東地域 (現在の松尾2丁目、旧牧志) に住みついた。その後、国頭や島尻などからの寄留人 (転入者) が増え、1970年代には元々松尾に住んでいた人は僅か6世帯程になってしまった。

立入禁止を解かれ、後に奇蹟の一マイルといわれるようになった国際通りを中心に急速に発展し、牧志に続く那覇市の中心商社街となっている。1948年 (昭和23年) の地図では松尾の東半分に民家が集中しているが、この地区は1979年 (昭和54年) の行政区変更までは牧志に属していた。

松尾は戦前では現在の国際通りが商店街になった事で、人口は1300人と大きな地域となっていた。沖縄戦後、米軍に土地を世襲され、以後数年に渡って立ち入りが禁止されていた。そのため、かつての住民は牧志地区に住み、松尾人口は少なくなっていた。立ち入り禁止が解除された後は人口が急増し。1960年代には1万人を超えている。1961年をピークにその後は人口は減少に変わり、現在も減少は僅かではあるが続いており、ピーク時の半分以下の4200人程となっている。

他の那覇の中心地と同様に、戦前までは、商業地とそれに伴った住宅地として発展していたので、旧真和志村の中でも人口の多い地区だったが、戦後は商業地としてさらに発展したために、住宅街としては寄留人などの単身者や若い世代が中心となって人口が減少傾向となっている。世帯当たり人数も、現在では1.8人と沖縄平均2.4人に比べ低い人数となっている。


松尾は大正以降の新しい集落で、寄留人中心だったので、村としての祭祀はなかったのではないかと思う。琉球王統時代は楚辺に属していたので、楚辺ノロの管轄地域だった。


松尾集落訪問ログ



那覇劇場跡

戦後、旧真和志村字樋川神里原には那覇劇場が建てられた。いつ建てられたのかははっきりしないが、戦後、この地域に闇市ができ民家が増えていった時期と考えられる。1949年には新装開館の新聞広告がある。それ以前にあった事が分かるが、当初は露天劇場でその後テント劇場になったそうだ。この劇場は映画上演の時期もあったが、芝居専門の演芸場だった。戦後、沖縄各地集落住民の殆どは収容所暮らしだったが、その住民を代表する沖縄諮詢会 (後の沖縄民政府) が組織され、その下に文化部が置かれ、収容されていた琉球芸能の役者・音楽家など約200人を集め、松・竹・梅の3劇団を組織し、各収容所の慰問公演を行っていた。1945年11月10日から那覇市の部分的解放が行われ、壺屋・牧志を中心に住民の居住が広がり、市場ができ、中央劇場、アーニーパイル国際劇場、那覇劇場の順に劇場が造られた。那覇劇場は戦後旗揚げされた多くの劇団が公演を行い、芝居のメッカとして人気を博した。また、学芸会やボクシング試合など各種催し物会場にも使われた。時代は映画、テレビと移行していったが、芝居専門館として興行していたため、那覇劇場は経営難に陥いり、1969年 (昭和44年) に閉館、劇場跡地は売却され、市場利用者の駐車場となった。


開南交差点バス停、トックリキワタ大木

国際通りから水上店舗の第4街区の太平通りが終わった所が開南交差点となる。かつて、この一帯は真和志間切与儀村の村外れで、墓が点在する場所だった。大正期になると、付近に沖縄県立第二中学校 (現那覇高等学校)、沖縄県庁、沖縄刑務所等が相次いで移設され、にわかに人口が増え始めた。このため、1928年 (昭和3年) に与儀から樋川原と神里原が分離し、字樋川という行政区が誕生した。近く樋川の高台に開南高校 (1936年 昭和11年開校、日本初の南極探検隊が乗り込んだ開南丸に因み名付けられた) があったので、この地域一帯は開南と呼ばれていた。この開南交差点は牧志公設市場への買い物や品物運搬などで利用された開南バス停があり、島尻方面の乗降所として賑わいを見せた。

バス停の横にトックリキワタの大木がある。10月には写真の様に綺麗に花が咲く。このトックリキワタは1960年代にボリビアに移民していた人が持ち帰り、各地に広がった。那覇では多くに場所に植えられており、並木道になっている所もある。今年の秋はトックリキワタ巡りをしてみたい。


上ヌ井 (ウィーヌカー)

松尾は1916年 (大正5年) に古波蔵より分離独立した地区で、明治時代までは一面畑だった。御嶽などの拝所はなく、農民が使っていた井戸跡が少し残っている。ここには上ヌ井 (ウィーヌカー) がある。部落共有の井泉だった。


井戸跡

上之井 (ウィーヌカー) の近くにも井戸跡があった。詳細は不明。


松尾公園

松尾地区の中の傾斜地に松尾公園がある。ここは松尾古墓群があった場所。那覇市が平成27年度から5カ年計画の那覇市都市公園整備推進計画で、この場所にあった古墓を撤去し公園にすることになった。その時に発掘調査が行われて、石列、石垣、蔵骨器、本土産陶磁器、沖縄産施釉陶器などが出土している。


玉城盛義顕彰碑

公園内に明治・大正・昭和に渡って活躍した琉球舞踊家の玉城盛義の顕彰碑が置かれている。玉城盛義は明治27年6歳の時、仲毛芝居で初舞台となる「大川敵討」の若按司役を演じた。ここから彼の舞踊家の人生が始まる。舞踊家としての名声が高まるなか、琉球舞踊の稽古所を開き、辻町の遊女たちの舞踊の指導にも当たる。琉球舞踊団を結成して大阪やハワイで公演も行った。昭和7年劇団「真楽座」を創立。戦後は梅劇団の副団長として活躍。昭和27年那覇市に舞踊研究所を開設。玉城流・玉扇会をつくって門下の育成に尽力した。昭和42年琉球政府から組踊技能保持者に認定されている。多くの女優や舞踊家を育て玉城流を最大の流儀に育てあげた。

この公園には中央劇場という野外劇場があった。1947年に現在の松尾公園の斜面を利用した円形の露天の劇場として始まり、1948年に琉球政府から正式に営業許可を取得している。古写真は無いのだが、当時の想像図があった。


二中跡 (那覇高校)

松尾の南西の楚辺原に那覇高校がある。戦前までは第二中学校だった。この学校の歴史は古く、1910年 (明治43年) に開校した沖縄県立中学校 (現 沖縄県立首里高等学校) 分校として始まっている。1911年 (明治44年) に沖縄県立第二中学校として独立して北谷村嘉手納に移転している。1919年 (大正8年) に現在地に移転。沖縄戦では二中生は鉄血勤皇隊に参加し187名の学徒と9名の引率教諭の戦死者を出している。二中健児の塔という慰霊碑が城岳公園に置かれている。毎年6月23日の慰霊の日に慰霊祭が行われている。慰霊の日は三日後に迫り、テレビでは連日、沖縄戦に関わる番組が放送されている。どの番組も胸が詰まる様な内容だ。沖縄県民には特別な日になる。1945年6月23日に、第32軍司令官牛島満中将と長勇参謀長が自決し、旧大日本帝国陸軍司令部の機能が崩壊し、組織的戦闘が終了したとしてこの日が記念日に制定され、沖縄では休日になっている。ただ、この日以降にも残兵の戦闘は9月7日の降伏文書への調印まで続き多くに犠牲者が出ている。今年は6月12日から250時間かけて、犠牲者241,686名の名前が読み上げられている。各地域や各個人が想いを馳せる戦没者の名前を読み上げるこの取り組みは、戦争終結という歴史の一事実というよりも、各々の戦没者個人の人生が奪われたという悲劇、その悲惨な戦争の中で人生に重点が置かれている。読み上げる人、自分の近親者の名を聞く人、それぞれが戦争の悲劇について、その人なりの思いを持った事だろう。沖縄戦を歴史上の一マイルストーンとして風化させないためにも、今後もこの試みは続けていく必要があると思う。

以前はこの二中の周辺楚辺の一部までは二中前という行政区だったが、行政区変更で北側は松尾へ、南側は楚辺に編入されている。



大和人墓 (ヤマトンチュウバカ)

戦前には、二中の北側には松林の丘で、そこには寄留人の墓地になって、大和人墓と呼ばれていた。これは二中前に他府県から商人や役人が仕事でここにすみ始め、人口も多くなった。その住民の要望でここに日本式墓地が造られた。沖縄戦では松林も消滅してしまった。資料では戦後も大和人墓は残っていたとなっていたので、その付近を周り、その跡を探したが、一帯は住宅街となっており、墓跡も見つからなかった。移設されたのだろう。


これで旧真和志間切、旧真和志村の集落はほとんど巡り、後は天久とそこから分離した上之屋を残すのみとなった。梅雨も明けたようなので、雨の心配も少なくなったので、次回からは遠出ができそうだ。梅雨で中断していた宜野湾の集落巡りを再開する予定。台風シーズンまでに宜野湾は巡り終える予定。


参考文献

  • 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)