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触って感じること

2017.12.28 22:52

今起こっている症状に対しては必ず理由がありますが、その理由は現在の検査機器によって測定できるとは限りません。

つまり原因不明の症状は、この世の中に無数にあるということです。


いくら調べても問題がないけど症状はあって困っている。 

そんな症状で苦しんでいる人たちがたくさんいるわけです。  

そういう症状を抱えて病院に行くと精神的なものだろうということで安定剤等を処方されて終わりです。 

これってかなりいい加減な方法ではないかと思います。

その処置によって余計に新たな症状を引き出してしまうことが多々あるわけです。 

医療過誤というのはこのような現象から起こっています。 

必要のない治療をすることによって、必要のない症状で苦しんでしまうことがある訳です。 


東洋医学での基準となるものはすべて感覚です。

つまりどう感じるか?

が全てです。

触診を代表とする感じ方が主流になってきます。 

ここで問題になるのは 西洋医学で行われている定規と同じものがすべて感覚だということです。  

あくまでも感覚なので、個人差が大きいということです。 

つまりA 先生とB先生では、感じ方が違うため結果が違うということが起こってきます。 


とても非合理的なように思います。  

しかし、誤差を最初から許容することによって隙間を埋めることができるという利点があります。 

初心者には初心者なりの感じ方、ベテランはベテランの感じ方で良い訳です。

正しいか正しくないかは結果での判断あるのみです。

と言っても瞬時に判定できるので利点は大きいと言えます。


その感じ方の誤差を埋めるために感じ方の訓練をします。  

感じ方の訓練の仕方によって誤差を埋めることができるようになってきます。 

これが 主観的普遍妥当性です。 

訓練の仕方を統一し感覚による誤差を限りなく少なくするということができるわけです。 

しかし、あくまで感じ方ですから絶対とは限りません。  


昨日の動画をご覧になって頂くとよくわかりますが、特別なことをしている訳ではないというのがわかると思います。

見た目に特別なことをしていないと初心者は何が違うのかがよくわかりません。

手を添えて足首の位置を少しだけ変えているだけに過ぎません。

ちょっとしたことでも感覚の違いが起こります。


見た目に同じことをしても結果が違うと再現性がないと言われたりします。

しかし、感覚の違いがあることを考慮しないで再現性がないという考えにはなりません。

東洋医学的手法を用いたエビデンスが現実とは解離したものになってしまうのは、この感覚の差を考慮していないことから起こる誤解です。

ある一定の訓練を受けた術者が同じことをして観察した場合、同じ結果になります。

全く訓練を受けていない人が見た目だけ同じように行っても同じ結果にはなりません。


だから何々の穴は、何々の病気に効果があるとは言えないのです。

それを捉えて再現性がないという理論は成り立たない。

ということです。


感じ方というのは思考の成り立ちによっても違いが起こってきます。

術者がどのような知識を持ち、どのような経験を積んでいるかによっても違いがでてくるからです。

昨日の動画でも解剖学的知識がないと同じ経験を積んでも全く同じ再現性を作ることができません。

そういう理由で再現性を作ることができないから間違いだとか似非だとは言えないという訳です。

そしてそんな議論は何の役にも立ちません。

なぜなら私達は目の前にある患者さんの訴えを軽減させるか、全くなくすかが目的だからです。


その目的を果たせずして、医療は成り立たないし、医業にはならないからです。

最終的には患者さんの満足度の話しです。

西洋医学によって行った医療で満足している人は、それで良いことです。

しかし、世の中にはそれでは全く満足しない人が沢山います。

そんな人のためにあるような手技を科学的でないとか似非医療だと言って埋もれさせることは人類の未来にとって何の利益もないことだとわかります。


科学的根拠がないという意味をもっともっと深く考えてより良い医療を目指すことが何よりも重要であり患者さんの本当の利益となる訳です。

お互いが補い合う医療でなくてはならないと思います。