ベートーヴェン第九交響曲の誕生
クリスマスソングが聞かれなくなったと思ったら、今度はベートーヴェンの第九。年の瀬に欠かせない曲になっている。自由、解放の世界的讃歌として人々を激しい興奮に陥れ続けてきた第九交響曲。世界史の大きな転換点で何度も演奏されてきた。
1945年9月25日ニューヨーク・カーネギーホールで行われた第二次大戦終了チャリティコンサート、指揮者はアルトゥーロ・トスカニーニ。
1989年11月10日のベルリンの壁崩壊を記念して行われたコンサート。レナード・バーンスタインが指揮し、「Freude」(歓喜)が「 Freiheit 」(自由)に変えて歌われた。
そして、東日本大震災チャリティーコンサート「東京・春・音楽祭―東京のオペラの森2011―」。バッハ「G線上のアリア」に続けてベートーヴェン「第九交響曲」が演奏された。このときの指揮者ズービン・メータが残したコメントには胸を熱くさせられた。 「音楽には計り知れない力があります。これまで私は、音楽によって救われた危機的状況をたくさん見てきました。困っている時、つらい時、音楽は気持ちを明るくし、心に安らぎを与えてくれます。・・・・シラーの原詩に込められたメッセージをより一層引き立たせたベートーベンの素晴らしさ、こうした音楽のメッセージをぜひ被災者の方々にお届けしたいと思います。」
1800年の第一交響曲から1812年の第八交響曲まで、1~2年に1曲のペースで交響曲を作ってきたベートーヴェンが第九交響曲を完成させるのは1824年。その間12年。一体何があったのか?「不滅の恋人」(誰かは諸説あるが、おそらくアントーニエ・ブレンターノ)との破局、インフレ(ナポレオン戦争の進行による)でパトロンが破産、大病、弟カールの病死で甥のカールをめぐって実母と泥沼の裁判闘争、難聴の進行。自殺願望にとりつかれた1817年は「ベートーヴェンの生涯で、最大の危機の年」とされる。しかし、その絶望的な状況も彼は不屈の精神で乗り越える。
「 運命よ、おまえの力を示せ!私たちは、自分自身の主ではない。定められたことは、そうなる
よりほかはないのだ。それならそうなるがよい!」 (『日記』1816年ごろ)
「 おまえの芸術のために、もう一度社会生活の些事すべてを犠牲にせよ。」
(『日記』1817年秋ごろ)
あらゆる運命を受け入れることで、精神の究極の自由を獲得したベートーヴェンは作曲に専念。
大曲「ハンマークラヴィーア」、「ミサ・ソレムニス」そして「第九交響曲」を完成させていったのだ。
(1818年 ヨーゼフ・シュティーラー「ベートーヴェン」)
手にしているのは「ミサ・ソレムニス」(Missa Solemnis)の楽譜
「東京・春・音楽祭―東京のオペラの森2011―」 演奏前の黙祷
(アントーニエ・ブレンターノ 「不滅の恋人」の有力候補)