筋金入りの共和主義者ベートーヴェン
一兵卒出身でありながらフランス革命の混乱を収拾し、諸国の民衆を圧制から解放した英雄ナポレオン・ボナパルト。確かに「革命の申し子」だった、ナポレオンの出発点は。ベートーヴェンは、彼を称えて交響曲「ボナパルト」を作曲。しかし、ナポレオンは1804年フランス皇帝に即位。そのことを知ったベートーヴェンは、こう言って楽譜の表紙から「ボナパルト」の文字を消し「英雄」(エロイカ)と書き換えた。
「彼もまたただの凡人だったのか!いまに彼も人間のあらゆる権利を踏みにじり、自分の野心だけ
に溺れるのだ。彼はいま、ほかの誰よりも高いところに君臨し、暴君になろうとしている!」
ベートーヴェンが筋金入りの共和主義者だったことを示すエピソードは少なくない。1806年のこと。パトロンだったカール・リヒノフスキー侯爵に向かってこんなセリフを吐いた。自分を経済的に援助してくれるパトロンに向かってである。
「侯爵、あなたは偶然生まれ合わせてあなたであるわけですが、私なるものは私自身を通じて私で
あるのです。侯爵などというものは、これまでもこれからも何千といます。しかし、この世に
ベートーヴェンはひとりだけです」
1812年7月19日、テープリッツ。プラハの北西約80kmに位置するこの町で、ベートーヴェンは敬愛するゲーテと出会う。「二つの太陽たるベートーヴェンとゲーテの邂逅」とロマン・ロランが呼んだ出会いだ。その時の伝説的エピソード。二人が並んで散歩していると、皇族や廷臣たちが向こうからやってきた。道の脇にひかえ、帽子を脱いで丁重にあいさつするゲーテ。ベートーヴェンはと言うと、道を開ける貴族たちの真ん中を通り過ぎながら帽子のふちにちょっと手を触れただけだった。不遜なまでの独立不羈の精神。
これだけの強烈な自分を備えていたからこそ、絶望的とも思える苦境を自らの力で克服し、自由、解放の世界的讃歌「第九交響曲」を生み出せたのだろう。そして圧政者からは嫌われ憎まれたが、自由を求める多くの人々からは愛された。劇作家グリルパルツァーは弔辞の中でベートーヴェンをこう評した。
「彼はひとりの芸術家でした――誰が彼のそばに立って、そびえる感じになれるでしょうか?・・
彼はひとりの芸術家でありましたが、同時にひとりの人間でもあったのです。あらゆる意味での
人間――最高の意味での人間だったのです。・・・最後まで、自分の同胞に対して父親のような
愛情を抱きながら、彼の心臓は全人類に温かな鼓動を打ったのです。」
ルノワールやゴッホがそうであるように、モーツァルトとともにベートーヴェンも自分の人生にとって不可欠の同伴者である。共通するのは、人生を愛したこと、自由を愛したこと、そして何より人を愛したこと。
(1802年 ホルネマン「ベートーヴェン」)
(テープリッツでの伝説的エピソード)
皇族たちにお辞儀をするゲーテと対照的な不遜なまでのベートーヴェンの姿
(テープリッツ[テプリーチェ]宮廷庭園にある二人の出会いの記念プレート)
(「不滅の恋人」の候補者たち ーベートーヴェンが愛した女性たちー)
(1827年3月29日 ベートーヴェンの葬儀 )
「 かつてオーストリア皇帝でさえ、ベートーヴェンほどの葬礼は受けませんでした。三万人の人々が墓地まで着き従いました。」 (ズメスカルのテレーゼ・ブルンスヴィック宛手紙)
(同時代を生きたベートーヴェ、ナポレオン、ゲーテ)