碁石
確かに可能性としてはあり得るも、誰も見ておらぬから「逃げた」とはにわかに信じがたく。警察による嫌疑不十分との結論に不服とばかり近隣の一部から市にて弁償はできぬものか、と相談あり。車両の衝突と思しきごみの集積所の破損。作業中の事故は補償の対象と知って、そこに責任を被せてしまえば、なんて。探される「名目」。
たまには下々の話も聞いてくれぬか、との依頼に、親子以上に齢の離れた御仁の話をじっくりと拝聴させていただいた。昨今は退職後の趣味に始める人も少なからず。が、読んで字の如く「囲む」以上は一人では出来ぬ。対局の相手を探すに本市が運営する「老人いこいの家」がいい場を提供しているそうで。戻りつつある利用者。
碁好きが集まらば自ずと一局どうか、との申出に胸を貸すにやぶさかならずも慣れぬ手つきに星目に石を置かれてはかなわぬ。が、それ以上に波紋を投ずるは碁石の洗浄。「衛生上、好ましからず。使用後は洗浄の上、返却を」と突然の告知に。
まさに手に汗握る勝負とあらば手垢とて。雀荘などでも日に一回は必ず牌も洗われる。が、そりゃ卓の故障の原因になり得るからであって、碁石に全自動卓など。借りた鍋は洗って返す、は不変の価値観。その労は厭わぬ、が、それまでは施設側が担っていた話。そこを「名目」にこちらに負担を押し付けんとする意図が見え透いてしまったらしく。
どこぞの施設では職員が洗ってくれる、同じ市の施設において統一されておらぬはこれいかに。それが仕事が忙しくて大変そう、ならば良心の呵責が生じることもありそうなもんなれど、どうもそうは見えぬ。ならば、木製の将棋の駒はいいのか、日単位といわず対局毎に課すべきにあるまいか云々、と追及止まらず。ボール投げるは自由なれど、話を複雑にする位ならば投げぬに限る。そのへんの見極めこそ。
たかが碁石、されど碁石。んな時は災い転じて福となすべく。それを口実に些か恩を売るかの如く低姿勢にて趣旨を告げれば、相手より謝辞の一つもあって、しかる後は私のもとに寄せられる相談の内容も全く違ったもの、いわゆる運営費の増額だったやもしれず。何とも惜しい。そもそもに碁石の前に対局後の手洗いを徹底すれば。頭がカタイ。
戻らぬ日常。来賓はもとより保護者とて未だ許されぬ運動会。蜜を避けんとするが名目なれど、学校の運営に口を挟まれるは不本意、ならばそれを口実に排除せんとの下心がないと信じつつ。
イベントの興行主より。万が一、生じれば興行主の責任、管理体制が不十分、などと批判を招きかねず。入場のたびに求められる連絡先の記入。仮に後日に判明しても自ら自首する輩など、居れども当日の座席を特定して前後左右に連絡する手間、それで十分か否か、日中とあらば繋がらぬ可能性とて、何よりも突然に連絡を受ける客側とて。
とするとこの期に及んで、あの行為などはほぼ「無駄」、というか「非現実的」に見えなくも。
(令和4年5月25日/2713回)