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たいしょーの朝鮮王朝史

太宗

2017.12.31 12:02

★朝鮮3代王

    太宗(テジョン)/李芳遠(イ バンウォン)

      ↑

    靖安大君(チョンアン テグン)

【←定宗/世宗→】

☆生没年

    1367年〜1422年

☆在位期間

    1400年〜1418年 ※生前譲位

宗室→家系図

【父】

【母】

【后】

【子】

▽元敬王后閔氏

▽孝嬪金氏

▽信嬪辛氏

▽善嬪安氏

▽懿嬪権氏(1女)

▽昭嬪盧氏(1女)

▽明嬪金氏

▽淑儀崔氏(1男)

▽淑儀李氏

▽貞嬪高氏(1男)

▽宮女李氏

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★王権の強化に着手

    1400年、芳遠は朝鮮第3代王として即位しました。父、李成桂は幼い頃から聡明な芳遠に大きな期待を寄せていました。父の期待に応えるように、芳遠はわずか16歳で科挙の文科に合格、李成桂はそんな自慢の息子をよく自慢していたといいます。

    1392年、李成桂が王位に就き、朝鮮王朝が幕を開けると、文武に優れ、溌剌とした26歳の若者のもとには多くの人が集まります。こうして彼は権力の頂点を目指して野心を燃やしました。

    ところが、当然自分のところに回ってくると思っていた世子の座を腹違いの弟、芳碩に取られると芳遠は「第一次王子の乱」を起こし、芳碩を世子の座から引きずり下ろしました。その後も王位に就くまで力ずくで反対勢力を排除します。

    太祖の四男、芳幹が起こした「第二次王子の乱」を鎮圧した後、定宗から譲位されて王位に就いた太宗は、王権強化と国制の整備に着手します。

【六曹直啓制(ユクチョ チクケジェ)】
    太祖の代に王権をめぐって鄭道伝(チョン ドジョン)と激しく対立した太宗は、王位に就くとまず王権強化政策に着手します。六曹直啓制は六曹(官庁)を王が直接管理する制度で、各長官は最高行政機関である議政府を通さず、直接、王に報告し、それを王が決裁するシステムになっていました。この制度をつくるために、太宗はまず長官の身分を正二品の判書(パンソ)に引き上げます。1414年にこの制度が断行されると、王権はより強固なものになりました。
    しかしその反面、議政府の大臣たちの反発は激しく、さらに、六曹すべての決裁に直接関わることになった王は多忙を極めました。世宗の代で一度、議政府署事制(ウィジョンブ ソサジェ)に戻りますが7代王・世祖の代に復活しました。

    即位の翌年には、宋の登聞鼓にならって宮殿の前に「申聞鼓(シンムンゴ)」という太鼓を設置します。民が王に上訴する際、この太鼓を打って直接知らせることができるようにしました。これは、民の生活の安定が国の安定と王権を確固たるものにするという太宗の理想を形にしたものでした。

    1404年には再び漢城に遷都します。太祖が建国と同時に開京から漢陽(漢城)に遷都したものの、この地で起きた第一次王子の乱の爪痕は生々しく、定宗は即位後、開京に都を戻していました。しかし、ここでもまた第二次王子の乱が起こり、太宗は再度、都を漢城に移すことになります。


★国防と税制重視

    定宗代から引き続き行われた私兵解体は、軍事を中央で管理することによって国防強化に繋がりました。国防とともに税制や奴婢制度を整備し、国家の基盤を安定させた太宗は、教育や外交にも精力的に取り組みます。科挙や官吏の登用には実力主義を取り入れました。他方で嫡出子と非嫡出子を厳密に区別し、非嫡出子の官職登用を制限しました。

    科挙制度を拡充させる一方、太宗は崇儒抑仏政策を推進して仏教に圧力を加え、寺や僧侶の数を制限しました。

    外交面では、明との関係を正常化させるため、礼を尽くす立場をとります。明の皇帝、永楽帝は太宗のこの態度に喜び、直ちに誥命と印信を朝鮮に送りました。こうして太宗は朝鮮国王として認められていきます。

    王権を強めて国家を安定させるという太宗の理想は着々と実現されていきましたが、その過程で多くの血が流されることになります。太宗はかねてから、外戚が勢力を持って朝廷を牛耳れば、王権は弱体化すると考えていました。理想の国家建設のために、外戚排除は不可欠であり、この信念のもと最も大きな犠牲を強いられたのは元敬王后の実家、閔氏一族でした。

    1406年、病の太宗は世子、譲寧大君に譲位すると言い出します。しかし、これは太宗による芝居でした。太宗は譲位を喜んだ閔一族を逆心だとして捕え、配流地で自害させました。

    1418年、太宗は世子、譲寧大君を廃し、三男の忠寧大君を世子の座に就けました。

【禅位(生前譲位)騒動】
    譲寧大君は1394年に元敬王后閔氏との間に生まれた長男で、それまでに3人の息子を亡くしていた太宗は、大事をとって譲寧大君を閔氏の実家で育てさせました。
    1404年、10歳で世子に冊封されると譲寧大君の周囲には閔氏一族が多く出入りするようになります。この頃から譲寧大君には奇行が目立ち始め、学問には興味を示さず、遊び呆けるようになっていきました。
    世子がこのまま王位を継げば、閔氏一族が王宮で権力を握ることになります。これを嫌った太宗は、この時を皮切りに4度、禅位を口にします。禅位を歓迎した閔氏一族を逆心を抱いたとして、排除するためです。結局、閔氏一族は兄から弟たちまでことごとく死に追いやられました。
    こうして外戚の最大勢力を排除した太宗は、譲寧大君を廃し、忠寧大君を世子に冊封します。学問を好み、聡明でまさしく王の器ともいえる忠寧大君が王位を継いだのは、冊封からわずか2ヶ月後のことでした。

★抑仏政策

    朝鮮王朝は、建国時から崇儒抑仏を理念としましたが、太祖は度重なるクーデターのせいで心身がすっかり衰え、晩年は仏教を心の拠りどころとしていました。

    太宗は即位後まもなく仏教への弾圧を推進しようとしましたが、父親を気遣い実行しませんでした。しかし、1405年に父が信頼を寄せていた無学大師(ムハク テサ)が死去すると状況は変わります。翌1406年、太宗は全国の寺院の数を242まで減らし、寺院の奴婢や土地を10分の1にまで減らしました。太祖は驚きましたが致し方ありませんでした。

    こうして進められた抑仏政策は世宗代にも引き継がれましたが、7代王・世祖の代に入ると一転します。忠義を尊ぶ儒学者との間に距離を置いていた世祖は、仏教を保護することで王権を正当化しようとしました。しかしその後は再び抑仏に拍車がかかり、衰退の一途を辿ることになります。


★貨幣制度の改革

    一方、国家の安定は中央集権にかかっているとする太宗はそのための体制つぐりを始めます。その中で行われた貨幣制度の改革は大きな労力を要しました。貨幣の流通は高麗時代にも何度か試みられましたが、いずれも定着するまでには至りませんでした。朝鮮王朝でも建国時から貨幣制度の導入が議論されていましたが、断行には至っていませんでした。

    1401年、太宗は楮で造った紙幣、楮貨(チョファ)の導入を宣言します。楮貨は同年に設置された司贍署(ソサムソ)で印刷されましたが、人々はその価値を疑問視していました。太宗は諦めずに引き続き貨幣導入に力を注ぐものの、人々は相変わらず紙幣の使用を拒み続けました。

    こうして10年以上を費やした貨幣の導入は、結局失敗に終わってしまいました。1423年、世宗代に入ってからも銅貨や朝鮮通宝(チョソントンボ)が造られましたが、これらも一般には流通しませんでした。