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たいしょーの朝鮮王朝史

中宗

2018.01.24 05:52

★朝鮮11代王

    中宗(チュンジョン)/李懌(イ ヨク)

      ↑

    晋城大君(チンソン テグン)

【←燕山君/仁宗→】

☆生没年

    1488年〜1544年

☆在位期間

    1506年〜1544年

☆宗室→家系図

【父】

【母】

【后】

【子】

▽章敬王后尹氏

▽文定王后尹氏

▽敬嬪朴氏

▽熙嬪洪氏

▽昌嬪安氏

▽淑儀洪氏

▽貴人韓氏

▽淑儀李氏

▽淑媛李氏

▽淑媛金氏

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★中宗反正、期せずして王座に就く

    中宗は先代の燕山君の時代の権力闘争の中、クーデター、中宗反正(チュンジョン パンチョン)によって王座に就きました。中宗反正を仕掛けた朴元宗(パク ウォンジョン)を中心とする勢力に担ぎ出され、王になりました。期せずして王となった彼は、「歴代で最も優柔不断な王」ともいわれています。

    中宗は、1488年、成宗と貞顕王后尹氏との間に生まれました。1506 年、19歳の時に朝鮮第11代王として即位します。その際、最初の后、端敬王后慎氏は、父方の叔母が燕山君の后であったことを理由に功臣たちから反対の声が上がり、中宗の反対にもかかわらず、廃位されてしまいました。慎氏を偲び楼閣に上っては彼女の実家を眺めていた中宗の心を慰めるため、慎氏の親族は家の裏山の岩に薄紅のチマを広げていたという話が伝えられています。

    即位当初は、朴元宗をはじめとするクーデ ターを推進した勲旧(フング)派勢力が政治の主導権を握っており、中宗は朝廷で権力を十分に発揮することができませんでした。ところ が、即位4年目の1510年に朴元宗が死去すると、勲旧派勢力が大きく後退し、宮廷のパワーバランスに変化が起きました。

    中宗は、士林派の中心人物である趙光祖(チョ グァンジョ)を登用し、要職に士林派を配置。趙光祖は儒教理念に立脚した政治を取り入れ、民間に儒教の教えを広める〝呂氏郷約(ヨシヒャンヤク)〟や新しい人材登用制度「賢良科(ヒョルリャンクァ)」を実施するなど、様々な改革に着手しました。しかし、士林派の勢力拡大を危倶する勲旧派の上疏を受け、1519年、中宗は趙光祖と士林派勢力を己卯士禍(キミョ サファ)で粛清。趙光祖の改革は、わずか4年で挫折に至りました。

【 超光祖と士林派、その改革と失脚 】
    中宗は、燕山君時代の悪夢を清算すべく、父親である成宗の儒教崇拝を推進します。そのため、燕山君時代に二度の士禍によって大きな打撃を受けましたが、士林派を登用し、勲旧派を牽制しながら治世を進めようと試みました。
    そこで彼が起用したのが、士林派の巨頭、趙光祖です。趙光祖は29歳になる1510年に司馬試(サマシ)に合格、成均館(ソンギュングァン)、司憲府(サホンブ)などのエリートコースを歩んだ後に異例の昇進を遂げ、司憲府の大司憲と王世子の輔養官を兼任するようになりました。

    趙光祖は中宗の信頼を受けていました。中宗は彼を先頭に立て、政治改革を行います。1519年、学科偏重だった科挙の欠点を指摘し、学間と徳を備えた人物の推薦と、国王の親試(チンシ)によって登用する〝賢良科(ヒョルリャンクァ)〟を新設。また、民間に儒教の性理学的道徳観を広めるため、宋の時代につくられた〝呂氏郷約(ヨシヒャンヤク)〟を普及させました。郷約とは、「徳業相いそしむ」「過失相規す」「礼俗相交わる」「患難相洫む」を徳目とする、地方の自治を定めた民間規約。儒者を地縁的な共同体の中心人物として儒学的道徳観を実践させ、地方における士林派の政治基盤を築いていきました。一方、勲旧派は、勢力を拡大する趙光祖に対し、警戒を強めるようになりました。

    趙光祖はそんな中、中宗反正の功臣が103人とは数が多すぎると批判。勲旧派の反対にも関わらず、76名の勲爵を削奪します。それを機に勲旧派の南袞(ナム ゴン)、沈貞(シム ジョン)、洪景舟(ホン ギュンジュ)らが〝趙光祖らが王を騙し国政を乱しているため、彼らの罪を明らかにして正すべきだ〟と王に訴えました。あまりに急進的で、性理学的規範を押しつける趙光祖の主張に嫌気がさしていた中宗は、勲旧派の訴えを受け入れ、1519年、70名を超える士林派を粛清しました。趙光祖は流刑に処された後、毒薬を飲まされ39歳で世を去りました。これが〝己卯士禍(キミョ サファ)〟です。

    趙光祖の改革の試みは4年で終わりを告げましたが、後に宣祖の時代に士林派が政治の中枢を掌握するようになると趙光祖の実践は再評価され、後世に大きな教訓と影響を残しました。

趙光祖碑


    その後も宮廷内は不安定な状態が続きます。1524年には、「己卯士禍」以後の政局をリードしてきた金安老(キム アルロ)が免職され、3年後には彼の息子が復讐を図る事件、〝灼鼠(チャクソ)の変〟が発生。その後、金安老が1531年に再び政権を握るようになると、それに対抗する中宗の外戚との勢力争いが激化しました。この功臣勢力と戚臣勢力の対立構造は、後世まで続くこととなります。

    中宗の時代には趙光祖を通じた改革のほか、技術振興政策が積極的に進められました。印刷技術の発達を背景に銅活字を鋳造し、様々な書籍を編纂。度量衡の統一を図ったり、明に技術者を派遣して煉金術を習得させたりするなど、幅広い分野で新しい技術を取り入れました。しかし、そうした試みも、政治の混乱の影響で大きな成果を残すことはできませんでした。

    中宗の治世は38年2ヶ月。1544年11月14日、仁宗に王位を譲った翌日、中宗は57歳で世を去りました。

中宗王陵(靖陵)
【 三浦倭乱 】
不安定な中宗政権は国防政策の混乱につながり、1510年には朝鮮に居住していた倭人(日本人)の反乱、〝三浦倭乱(サムポ ウェラン)〟が起きます。
    三浦とは、倭人の往来と居住を認めた釜山浦(プサン ポ)、薺浦(チェ ボ)、塩浦(エン ポ)のこと。もともと朝鮮半島と西日本の沿岸地域は密接な交流があり、大名や商人による交易が盛んに行われていました。日本からは硫黄・銅・絹織物、朝鮮からは大蔵経・穀物が輸出されました。日本からの渡航者が増大し長期滞在者が増え、世宗時代の1436年、朝鮮王朝は三浦に倭人の居住を認めました。在住倭人は恒居倭人(ハンゴ ウェイン)と呼ばれました。
    ところが、恒居倭人は60戸までと定められていたにも関わらず、実際には制限数を大幅に超える数の倭人が商取引を行い、中には禁制品を扱う密貿易も絶えませんでした。朝鮮王朝は1494年、私貿易を禁止します。それによって生活が困窮した対馬島民が恒居倭人と結び密貿易に走ると、さらに統制を強めました。
    ついに1510年、貿易統制に不満を持った三浦の恒居倭人が、対馬宗氏の支援を受けて暴動を起こします。倭人は釜山浦、薺浦を一時陥落させ慶尚道に大きな被害を与えましたが、朝鮮軍の反撃を受け、日本側の敗北に終わりました。
    結果、朝鮮王朝は日本との通交を断ち、宗氏発行の渡航証を持つ船も渡航不可となりました。その後、1512年、日本の足利幕府の要請により壬申条約が結ばれて通交は再開されましたが、対馬からの歳遣船と歳賜米豆の半減、交易は薺浦のみにすること、倭人の三浦居住禁止など、条約には日本側に厳しい条件が盛り込まれました。
    それにもかかわらず、倭人は暴動を繰り返し、16世紀半ば、倭人の往来は完全に禁止されました。
倭館絵図