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たいしょーの朝鮮王朝史

明宗

2018.01.24 19:31

★朝鮮13代王

    明宗(ミョンジョン)/李峘(イ ファン)

      ↑

    慶原大君(キョンウォン テグン)

【←仁宗/宣祖→】

☆生没年

    1534年〜1567年

☆在位期間

    1545年〜1567年

☆宗室→家系図

【父】

【母】

【后】

【異母兄】

【子】

▽仁順王后沈氏

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★幼くして即位、実権は実母に

    仁宗が若くして亡くなると、異母弟の慶原大君が即位して第13代の王となります。彼が明宗です。母は中宗の二番目の継妃、文定王后で、中宗との間に多くの娘をもうけましたが、長らく息子に恵まれず、王妃となって17年目にやっと生まれたのが明宗でした。

    明宗は名を峘(ファン)、字を対陽(テヤン)といい、生まれるとすぐに慶源君に冊封され、1544年に異母兄の仁宗が即位すると、慶源大君に冊封されました。仁宗に跡継ぎとなる子どもがいなかったためです。しかし、仁宗が即位してわずか8カ月で病に倒れて亡くなってしまったために、翌年、王位に就きました。

    明宗はわずか12歳で即位したので、8年間、母の文定王后が垂簾聴政を行いました。朝鮮王朝の歴史の中で三度目の垂簾聴政です。文定王后は垂簾聴政を通して政治を思い通りに動かし、私腹を肥やしていきました。さらに、政敵を陥れるためには手段を選びませんでした。そのため文定王后が宮中を取り仕切ると、彼女の実弟である尹元衡(ユン ウォニョン)一派が優勢になります。尹元衡は1537年に金安老(キム アルロ)が失脚してから登用された人物です。

    当時の宮中の政治状況は、外戚勢力が情勢を大きく動かしていました。仁宗を支持する尹任(ユン イム)一派の大尹(テユン)派と、明宗を支持する尹元衡一派の小尹(ソユン)派の二大派閥が王位継承権をめぐって争っていたのです。

    尹任は中宗時代に章敬王后(チャンギョン ワンフ)の兄として重用され、仁宗の即位当時は士林勢力を背景に優勢でしたが、明宗が即位 すると事態は逆転します。尹元衡一派は尹任勢力を一掃しようと計画しました。これが世にいう〝乙巳士禍(ウルサ サファ)〟です。


★外戚勢力の横暴に悩まされる

    明宗が即位した1545年に発生した〝乙巳士禍〟の事件の経過はこうです。尹元衡は、尹任が中宗の八男、鳳城君(ポンソングン)に王位を継がせようとしたという無実の罪を着せました。そして仁宗が死去したときに、尹任が成宗の三男、桂城君(ケソングン)を擁立しようとしたという噂を広めました。こうした噂を口実に、尹元衡は文定王后に処罰を強く求めました。そして、大尹の有力者である尹任、柳灌(ユ グァン)、柳仁淑(ユ インスク)などに自決させ、彼らとその家族、そして士林勢力を配流しました。

    尹元衡はさらに、障害となる政敵を追い落とすために〝良才駅壁書事件〟を引き起こします。これは漢城郊外の良才(ヤンジェ)駅で文定王后や小尹派を批判する壁書が見つかった事件です。この事件で尹任と姻戚関係にあっ た李若水(イ ヤクス)と宋麟寿(ソン インス)らに賜薬が下され、士林勢力20人余りが配流されました。こうして尹元衡は政治的に操作された様々な事件をでっち上げて、政敵を粛清していったのです。また尹元衡は自分の愛妾である鄭蘭貞(チョン ナンジョン)を宮中に送り込み、鳳城君が反逆に関係したとして彼を自決に追い込みました。

    こうして政敵を除去し、尹元衡一派が朝廷を独占するようになりました。いわゆる「外戚専横時代」であり、明宗は彼らの横暴に悩まされ続けることになります。彼は涙の日々を送ったことから「涙の王」と呼ばれました。 


★文定王后の支配下で苦心する日々

    明宗が親政を執った後も、尹元衡の横暴は止まりませんでした。愛妾の鄭蘭貞と共謀して自らの正妻を毒殺し、奴婢出身の彼女を貞敬夫人(チョンギョン プイン)にしました。彼女は尹元衡の権威を振りかざしてほしいままに巨富を蓄え、多くの民衆に恨まれました。

    明宗はこの深刻な事態に対して、尹元衡に対抗する勢力をつくろうとしました。その中心人物が李樑(イ リャン)です。しかし、彼も明宗の后である仁順王后の外戚であったため、勢力を伸ばし政治の独占を始めてしまいました。

    このような不正腐敗がはびこる政治の根本の原因は文定王后にありました。彼女はことあるごとに権力を振りかざして王を困らせ、実弟である尹元衡の権力独占を許しました。そして儒教社会にもかかわらず、仏教を手厚く保護して社会を混乱させました。 

    こうした状況では、社会が安定するわけがありません。1555年には乙卯倭変(ウルミ ウェビョン)が起こります。これは、船70隻余りを率いて倭冠が押し寄せてきた事件です。一時期は全羅道の一部を占領される事態となりましたが、軍によって退けることができました。ですが、民衆は多大な被害を被ったため、中宗時代に臨時で設けていた備辺司(ピビョンサ)を常設して侵略に備えることになります。

    また、1559年には義賊として名をとどろかせた林巨正(イム コッチョン)が反乱を起こしています。彼は倭冠による侵略と、虐政と収奪に苦しむ民衆を救うために各地で官庁を襲撃しました。政府は林巨正を捕らえるために出動しましたが、なかなか捕縛できませんでした。反乱を起こして3年目にようやく逮捕された林巨正は、それから15日後に処刑されました。

林巨正像


    文定王后が亡くなると、尹元衡も追放されたため社会も一定の安定と秩序を取り戻しました。しかし、あまりに国政に悩まされたためか、明宗は文定王后の死後わずか2年でこの世を去りました。34歳でした。彼は後継者を 一人も残さなかったために王位は中宗の九男、徳興君の息子、河城君(ハソングン)が継ぐことになります。