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たいしょーの朝鮮王朝史

宣祖

2018.01.25 17:00

★朝鮮14代王

    宣祖(ソンジョ)/李鈞(イ ギュン)

      ↑

    河城君(ハソングン)

【←明宗/光海君→】

☆生没年

    1552年〜1608年

☆在位期間

    1567年〜1608年

☆宗室→家系図

【父】

【母】

【后】

【子】

▽仁穆王后金氏

▽恭嬪金氏/恭聖王后

▽仁嬪金氏

▽順嬪金氏

▽静嬪閔氏

▽貞嬪洪氏

▽温嬪韓氏

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★傍系血族による王位継承

    明宗は王位を継承する嫡子や嫡孫を一人も残さないまま、わずか34歳にして亡くなってしまいました。そのため、王位は中宗の八男・徳興君の三男、河城君が継ぎました。彼が第14代王の宣祖です。彼の即位により、後宮から生まれた庶子が王位を継ぐという事態になったために、王の権威は低下することと なります。

    明宗は生前から王孫たちを王宮で指導してきましたが、その中でも河城君を特に可愛いがり、始終王宮に呼んでいました。明宗が後継を決めずに亡くなったとき、仁順王后は明宗の遺命として河城君を養子に推挙して即位させました。即位したのは1567年です。

    彼が生まれたのは1552年。河東府大夫人の三男として生まれました。幼名は鈞(ギュン)でしたが、改名して昖(ヨン)となり河城君に封じられました。わずか16歳で王位に就いたために、即位当初は明宗の后であった仁順王后が垂簾聴政を行うことになります。しかし、宣祖が政事処理に慣れると、親政する能力があると判断され、17歳で自ら政事を行うようになりました。

宣祖御筆


    宣祖は勉強熱心で、毎日のように経筵に出て政治と経史を論じ、諸子百家の書物を読みあさりました。その結果、性理学的王道政治の信奉者となり、政界から勲旧、戚臣勢力を追い出して、士林の名士たちを大量に登用していきます。士林政治時代の開幕です。士林というのは、広い意味で文武両班とその一族、そして官途に就いていないソンビたちを含めた知識階級層の学士たちのことです。宣祖は、当時の性理学の巨頭とされていた李滉(イ ファン)と李珥(イ イ)を国師として手厚く待遇しました。

李滉像、李珥像


    宣祖は親政を始めると、科挙制度を改変します。そして賢良科(ヒョルランクァ)を再開しました。己卯士禍で災いを被った趙光祖(チョ グァンジョ)に領議政を追贈しました。以後、宣祖は無実の罪を着せられた士林たちの身分を回復していきます。その一方で、乙巳士禍を起こした尹任(ユン イム)や柳灌(ユ グァン)を殺害して、尹元衡(ユン ウォニョン)などの勲功も剥奪しました。これ以降、世の中は安定していきます。権勢を誇っていた外戚勢力は退けられ、政界は士林勢力が勢いを得ることになりました。文治の旗のもとで朝廷は平和を取り戻していったのです。


★分裂する士林派と朋党政治の始まり

    しかし、士林勢力が政権を掌握すると、今度は内部分裂が起こるようになります。文名の高いソンビ、金孝元(キム ヒョウォン)と明宗の后であった仁順王后の弟、沈義謙(シム ウィギョム)との対立で分党の危機に直面しました。結局、士林勢力は東人(トンイン)と西人(ソイン)の二つに分裂して党派争いを続けるようになります。これが長い朋党政治の始まりです。

    東人の中心は主理哲学的道学を唱える曹植(チョ シク)と李滉の弟子たちからなる嶺南学派。一方の西人は、主気哲学を主張する李珥と成渾(ソン ホン)に追従する畿湖学派の人たちが中心でした。

    これらの分党状況は朝廷内の混乱を引き起こしました。李珥は仲裁役を任されるものの、解決の糸口が見つからぬまま没してしまいます。その中で、世子冊封問題で西人が失脚すると、東人の勢いが強くなっていきました。

    この世子問題は、宣祖の后である懿仁王后に息子が生まれなかったため、後宮出から決めなければいけませんでした。左議政だった西人の巨頭、鄭澈(チョン チョル)は東人の領議政、李山海(イ サネ)の計略にかかり、光海君を世子として冊封すべきだと発言して宣祖の怒りを買い失脚してしまいました。

    この事件で西人勢力は後退してしまい、政権を握った東人は失脚した西人の粛清を始めます。しかし、この粛清に関して死刑を求める過激派と、配流すべしとする穏健派に分かれてしまい、東人は、過激派の北人(プギン)と穏健派の南人(ナミン)の二派に分裂することになりました。分党を繰り返す中で朝廷の政治状況は不安定となり、国力は次第に弱体化し ていきました。


★辺境異民族の侵略と倭乱

    政治が不安定になるにしたがい、辺境では異民族による侵略が盛んになりました。1583年と1587年の二度にわたり、朝鮮に帰化していた女真族の尼蕩介(ニ タンゲ)が主導して反乱が起こります。一時的に慶源府が陥落して府内の管轄権が敵の手に渡ると、朝廷は彼らの巣窟を討伐していきました。

    さらに豊臣秀吉による〝壬辰倭乱(イムジン ウェラン)〟が起こり、首都漢城が陥落したため、国内は大混乱に陥り宣祖は一時的に明との国境、義州まで避難しました。壬辰・丁酉倭乱(チョンユ ウェラン)=文禄・慶長の役が終結すると、宣祖は戦乱による被害を復旧することに力を注ぎました。その後、徳川家康との間で国交を回復。1607年には、徳川幕府に初めて通信使を送っています。

釜山鎮殉節図…秀吉軍との攻防


東莱府殉節図…秀吉軍との攻防


李忠元(イ チュンウォン)…壬辰倭乱の際、宣祖を護衛した功により扈聖功臣として肖像画を授かった。


【秀吉の朝鮮出兵、壬辰・丁酉倭乱】
    1592年から1598年にわたり、豊臣秀吉の軍隊が朝鮮王朝を二度侵略した事件を〝壬辰倭乱・丁酉倭乱〟といいます。日本で一般的には〝文禄の役・慶長の役〟と呼ばれ、中国では〝朝鮮の役〟と呼ばれています。
    朝鮮は200年間、大規模な戦争がなく、政府は朝鮮全域の軍備を怠っており、対応が遅れてしまいました。
    1589年、日本を統一して関白となった豊臣秀吉は、「大陸征服」という号令のもと、対馬の宗氏を通じて日本と朝鮮が互いに力を合わせて明を討つから協力するようにと使者を送ってきました。朝鮮側は回答を保留。日本側が何度も通信使を送るように要求したため、朝鮮側は日本の実情を探るために、通信正使に黄允吉(ファン ユンギル)、副使に金誠一(キム ソンイル)を任命して派遣しました。しかし、翌年に帰国した二人の報告は相反したものでした。黄允吉は日本が戦争準備状態であると述べ、金誠一は日本は軍備を進めているように見えず、戦争に備えることは国を混乱させるだけだと述べました。これが西人と東人の対立に発展し、結局、東人が優勢になり金誠一の意見が採用されたのです。
    ですが、金誠一の報告に反して、1592年4月に日本は20余万ともいわれる兵力で大規模な侵略を進めてきました。同年4月13日小西行長の軍勢が釜山浦に押し寄せて陥落。わずか20日前後で首都漢城を明け渡すことになりました。そのため、宣祖は明との国境近くまで避難することになります。
    6月以降は平壌が陥落し、平安道の一部を除いた全地域が秀吉軍に侵略されてしまいました。
    しかし、李舜臣(イ スンシン)の率いる水軍の活躍で海戦に勝利し、陸上では明からの援 軍で秀吉軍を撃退し、情勢が逆転したため、和議が進むことになりました。
    いったんは漢城を奪回したために、2〜3年は小康状態となったものの、明と日本との和議が決裂すると、1597年に再び15万の秀吉軍が攻めてきました。これが〝丁酉倭乱〟です。一方で、明の援軍が鴨緑江を越えてきた ために、朝鮮半島は織烈な戦場となりました。秀吉軍の勢いはすさまじく、一時は王が避難しなければならないという意見も出たほどでした。しかし、豊臣秀吉の病死によってほどなく秀吉軍が撤退。6年7カ月にわたる戦争に幕を下ろしました。
    秀吉の没後、日本では徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利を収めます。朝鮮王朝との国交回復を目指した家康は、朝鮮から遣わされた松雲大師らと和解に向け会見。宣祖は講和条件を満たしたとし、1607年には日本との国交が回復、朝鮮通信使が復活しました。

    宣祖が55歳になった時、仁穆王后との間にようやく嫡子、永昌大君が生まれました。宣祖はすでに世子に冊封されていた光海君を廃そうとしましたが、度重なる凶作や党争の心痛で引歳で急死。よって彼の計画は実行されず、第15代王、光海君が誕生しました。


【〝軍神〟として崇められた李舜臣 】
     李舜臣は文班の出身にもかかわらず武科の試験を受けて、46歳で全羅左道水軍節度使となり、全羅左水使に就任します。秀吉軍の侵入に備えて戦船を建造し、軍備の拡充をする一方で軍糧確保のために蟹島に屯田を設置することを政府に要請しました。
    しかし、1592年4月に壬辰倭乱が起こると、慶尚道の水軍は壊滅。李舜臣は、残った戦船3隻と小型船2隻を全羅道の水軍に加えて、玉浦で秀吉軍と戦いました。この戦いで李舜臣は敵の艦隊26隻を撃破、翌日に赤珍浦で再び13隻を撃破。秀吉軍の本拠地である釜山浦を攻略して制海権を掌握しました。
    1597年講和会議が決裂すると、再び秀吉軍が侵略してきます。李舜臣は水軍を率いて秀吉の水軍を撃破。しかし、1598年11月の戦いの際に秀吉軍の流れ弾に当たって戦没しました。 
李舜臣像