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たいしょーの朝鮮王朝史

顕宗

2018.01.27 09:09

★朝鮮18代王

    顕宗(ヒョンジョン)/李棩(イ ヨン)

【←孝宗/粛宗→】

☆生没年

    1641年〜1674年

☆在位期間

    1659年〜1674年

☆宗室→家系図

【父】

【母】

【后】

【子】

▽明聖王后金氏

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★安定した治世

    顕宗は孝宗の長男で、仁宣王后を母に持ちます。孝宗が人質として滞在していた1641年に清で生まれました。1649年に王世孫として冊封され、孝宗が即位後の1651年に世子として冊封されます。そして1659年に孝宗が死去すると、朝鮮第18代王に即位しました。

    顕宗の治政の15年間は、外国からの侵略がなく、内政も安定していたため、比較的に平和な時代でした。軍事面では、先代の孝宗時代から進められてきた北伐計画が中止され、その代わりに軍備増強のための訓練別隊が創 設されました。民間経済も、光海君以来続けられてきた〝大同法〟を全羅道全域に拡大施行しました。文化面では、印刷事業育成のため金属活字10万余字が鋳造されました。また、天文観測法と暦法研究のための渾天儀を再び製作させました。

    こうした安定した社会の中で、礼節がより重んじられるようになり、同姓通婚が禁止されます。そして私的な情が介入するのを避けるため、親族同士で同じ部署で働いたり、訴訟を受け持ったり、試験官を引き受けたりすることを禁止する〝相避法〟を制定しました。

崇陵


★朋党政治を代表する政治論争事件

    顕宗の在位中に起きた大きな事件に礼訟問題があります。即位してまもなく、孝宗やその王妃の死に対して、近親者の服喪期間をどうするかが政治問題になりました。

    この頃の朝廷は、西人勢力と南人勢力に分かれていました。西人勢力は、宋時烈(ソン シヨル)を中心とした〝仁祖反正〟で政権を握った者が、畿湖学派の主気論を主張しました。一方で、南人勢力は仁祖の中立政策で起用された許穆(ホ モク)や尹善道(ユン ソンド)らが、嶺南学派の主理論を主張していました。二つの対立する学間が、顕宗の時代に本格的な政治論争を繰り広げます。

    まず、孝宗が崩御した時、仁祖の継妃、慈懿大妃(荘烈王后)の服喪期間が問題となります。西人派は、孝宗は仁祖の次男なので、一年喪である〝朞年喪〟でよいとし、南人派は、孝宗は王位を継承したのだから長男としての敬意が払われるべきであるとし、長男と同様の三年喪にするべきだと主張しました。

    もし、孝宗が長男であったなら問題にならなかったことです。しかし、孝宗が次男であり、しかも、仁祖の長男、昭顕世子の喪の時に慈懿大妃が長男に行う礼の三年喪で服していたため、矛盾が生じたのです。

    この西人派と南人派の服喪論争は極端な対立を生み、政争へと拡大します。結局、西人派の主張する〝朞年喪〟が採択され、南人派の勢力は大きく削がれてしまいました。しかも、この決定に南人派の反発が大きくなったため、顕宗はこの問題を再び取り上げた者は厳罰に処すとの布告を出しました。これにより、礼訟問題はいったん沈静化するかに見えました。


★再燃する服喪問題 

    ですが、この服喪問題は1674年に再び再燃します。孝宗の王妃、仁宣王后が死去したためです。ここで孝宗の王妃を仁祖の長男の妻と同待遇で扱う場合には一年喪の〝朞年喪〟、次男の妻として扱う場合には9ヶ月の〝大功喪〟となります。

    西人派は、第一回目の礼訟問題と同じく孝宗を次男と見なして服喪期間を9ヶ月とする「大功説」を唱えまひた。それに対して南人派は再び、孝宗を長男と見なし、長男の嫁と扱うべきとして「朞年説」を唱えました。顕宗はこの時、義父の金佑明(キム ウミョン)と王妃の従兄の金錫胄(キム ソクチュ)の意見を尊重して南人派の「朞年説」を採用しました。一次礼訟の時に西人派として宋時烈の意見に同調していた金佑明と金錫胄は、西人派から政権の主導権を奪うために南人派と手を組んだのです。つまり、西人派が内部分裂し て一部が南人派と手を組んだということです。

    そのため第二次礼訟問題で南人派の力は大きくなり、西人派は失脚します。ところが顕宗が亡くなると、西人派の宋時烈は再び礼論を持ち出して、自分の従来の説が正しかったと主張し、弾劾されて配流されてしまいました。これ以降、西人派は政界から退けられ、南人派が朝廷を支配するようになります。


★政争にまで発展した服喪問題

    顕宗の時代を通じて起こった礼訟間題は、一見単純な王室の典礼問題にみえますが、その根は深いところにありました。

    朝鮮王朝では、礼を最高の徳と見なす儒学の一派である性理学が重んじられていました。つまり、王室に関する問題は、それぞれ異なった見解を持つ西人派と南人派の、政治主導権を懸けた理念闘争でもあり、孝宗の王位継承に関する正統性を間う問題でもありました。したがって、この問題は当時のソンビ(官位のない知識人)たちにとって命懸けの重要事案でした。

    仁祖が長男の昭顕世子の死後、元孫である慶善君(キョンソングン)に継がせず、次男の鳳林大君を後継者に指名したことは、王室の宗法に背く行為でした。

    このように、礼訟問題は学間と思想を媒介にした一大政争でした。顕宗は在位中、西人と南人の極端な政治論争に悩まされながら、34歳の若さでこの世を去りました。