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たいしょーの朝鮮王朝史

粛宗

2018.01.27 14:11

★朝鮮19代王

    粛宗(スクチョン)/李焞(イ スン)

【←顕宗/景宗→】

☆生没年

    1661年〜1720年

☆在位期間

    1674年〜1720年

☆宗室→家系図

【父】

【母】

【后】

【子】

▽仁敬王后金氏

▽大嬪/禧嬪張氏

▽淑嬪崔氏

▽䄙嬪朴氏

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★朋党政治の激化と分裂

    顕宗の一人息子である粛宗は、明聖王后を母に持ちます。名前は焞(スン)、字は明普(ミョンボ)。 1667年に7歳で王世子に冊封されました。1674年にわずか14歳で即位して、親政を行います。粛宗の治世は党派抗争が一番激しい時代でした。しかし、粛宗はその中で、朋党政治の限界を悟り、〝換局(ファングク)〟という手法で政局の転換を図って王権を強化していきました。党派間の対立をうまく利用したのです。

明陵


粛宗御題蚕織図


    しかし、一方で粛宗の私生活は仁顕王后と張禧嬪の間に起こった事件にみるように愛憎あいまみえる激しいものでした。それが、党争を激化させたのも事実です。また、その性格から感情の起伏が激しく、大臣の流刑や賜死をためらうことがなかったといわれています。

    粛宗の〝換局〟は3回にわたって行われました。最初は〝庚申(キョンシン)換局〟です。これは1680年に南人派が大量に追放された事件のことで、南人は顕宗の時代の1674年に、第二次礼訟論争に勝利して政権を握っていました。これに対し粛宗は、母である明聖王后の推薦で、彼女の従兄の金錫冑(キム ソクチュ)を要職に就けて牽制しました。しかし金錫冑の力では南人の力を抑えることができず、南人派の天下となったのです。そこに1680年、事件が起こります。許積(ホ ジョク)が帷幄を王への報告もないまま、勝手に持ち出して使っていたのが発覚しました。粛宗はこれを、王を軽んじる行動だと批判して、南人派が占めていた軍権を西人派へと渡してしまいます。これで、西人派が軍権を掌握しました。さらに〝三福(サンボク)の変〟が起こります。これによって南人はさらに窮地に追い込まれました。金錫冑にそそのかされた鄭元老(チョン ウォンロ)が、許積の庶子である許堅(ホ ギョン)が麟坪大君(インピョン テグン)の三人息子、福昌君(ポクチャングン)、福善君(ポクソングン)、福平君(ポクピョングン)とともに謀反を企てたと告発したのです。この事件で、南人派は追放され、朝廷は西人派が占めることになりました。

    先の〝庚申換局〟の時、南人派の弾圧に対する立場の違いで、西人派は二つの勢力に分かれます。こうして登場するのが老論(ノロン)派と少論(ソロン)派です。西人の元老グループ金益勲(キム イクン)は南人などに対する強力な弾圧を推進しました。これが老論です。一方、韓泰東(ハン テドン)など若手グループは かえって金益勲を弾劾しました。これが少論です。こうして朝廷は、老論、少論、南人、少北の四大朋党を形成することになります。そして政治の主導権は老論派が握ることになりました。


★側室を寵愛して正妃を廃位

    しかし1689年に老論、少論が粛宗の側室、張禧嬪の生んだ王子の世子冊封に反対したために、政権は南人派が握ることになります。これが〝己巳換局〟です。この時、少論派の重鎮である宋時烈(ソン シヨル)や金寿恒(キム スハン)が配流されて死去しました。そして、少論派の多くが政治の第一線から退くことになります。

【西人派を指導した宋時烈】
    朝鮮王朝を開いた太祖、李成桂が国の基本理念として取り入れたのは、中国の朱熹によって儒学が体系化された朱子学。朝鮮後期、その朱子学の大家としてあがめられたのが、宋時烈です。
    彼は朱子学の中でも李珥(イ イ)に始まる畿湖学派(西人)の系譜を継承します。彼に学間を教えた父・宋甲祚(ソン ガプチョ)の影響です。父は「孔子の後継者は朱熹。朱熹の後継者は栗谷(ユルゴク)=李珥だ。孔子を学ぶなら栗谷から学びなさい。」と彼に教え、李珥の後を継いだ金長生(キム ジャンセン)の門下に入りました。
    その後1633年、27歳で科挙に合格。1635年11月からは1年間、後に孝宗となる鳳林大君の教育係となり、鳳林大君が孝宗として即位してからは政治のご意見番として北伐を論議。その際、傍らに史官や承旨さえも寄せつけないほど、孝宗の厚い信頼を得ていました。
    そうして西人の指導者としての地位を固めていった彼ですが、その「朱子学を守る」という理念ゆえに、孝宗の死後は常に激しい政争の渦中に立つことになります。顕宗時代は、礼訟問題で党もろとも失脚。その次の粛宗時代には、再び礼訟問題を取り上げたために配流とされましたが、その後、復帰。それからは張禧嬪を後押しする南人派と激しく対立、粛宗の換局政治で復権と失脚を繰り返しました。あげくには同じ西人の若手グループとの方向性の違いから、党の分裂という事態まで招いてしまいます。
    宋時烈に対する評価は、丙子胡乱以降、清に対して朝鮮の自主性を宣言したという肯定的見方と、のちに朝鮮王朝の政治を腐敗に導く老論派を生み出したという否定的見方に分かれています。ですが、『朝鮮王朝実録』に3千回も名前が挙がり、〝宋子〟と〝子〟の称号が与えられた学者も彼一人です。そして何より、死薬を賜って非業の死を遂げたにもかかわらず、儒学の大家だけが祀られる文廟に、孔子とともに祀られていることが、彼の偉大さを証明しています。
宋時烈肖像画


    原因の発端となった張禧嬪は、南人派とつながりの深い通訳官の家系の出身でした。幼い時に宮女となった彼女は、その美貌から粛宗の目にとまり寵愛されます。しかしその頃に〝庚申換局〟が起こり、南人派が追放され、彼女は後ろ盾を失ったうえ、粛宗の母で ある明聖王后の命令によって宮殿から追い出されてしまいました。しかし、明聖王后が死去すると宮女に復帰して、粛宗から寵愛されることになります。その後、淑媛に昇格し、王子の昀を生みます。そして昀が元子に定められると、昭儀から禧嬪に昇格します。翌年、昀が世子に冊封されると、張禧嬪は子どものいない仁顕王后を廃位に追い込みました。そして、張禧嬪ほ中人の身分から王妃へと上りつめたのです。こうして南人派と張禧嬪が結託して、仁顕王后と彼女を支持する西人派を追い落としました。この仁顕王后廃妃事件を〝己巳換局〟と呼び、勢力交代の象徴 的な事件となりました。

大嬪(張禧嬪)墓


★仁顕王后の復位と淑嬪崔氏の反撃

    1694年、〝甲戌換局〟が起こります。これは仁顕王后の復位運動に関連して南人派が追放され、西人派の少論派が政権を握った事件です。

    この事件は、少論派の仁顕王后の復位運動が発端でした。少論派は南人派と張禧嬪への信頼を失わせるために、当時粛宗が寵愛していた淑嬪雀氏と手を組みました。彼女は王妃、張禧嬪が淑嬪崔氏を妬んでいると告げ口します。粛宗はこの言葉を鵜呑みにして王后から禧嬪に格下げしました。

    この事件で、仁顕王后は復位して王妃に返り咲き、再び少論派が重用されるようになります。

    ところが、1701年に仁顕王后が病死してしまいます。その原因が、張禧嬪が神堂を造って巫女を呼び、仁顕王后の死を呪組し祈ったというのです。この報告を淑嬪雀氏から聞いた粛宗は、張禧嬪に賜死の刑を下しました。これを〝巫蠱(ムゴ)の獄〟といいます。少論派は、張禧嬪の生んだ世子に悪影響を及ぼすとしてこれに反対したため粛宗によって除去され、老論派が実権を握りました。

通明殿…仁顕王后が寝所にしていた


    これ以降、世子(後の景宗)と淑嬪雀氏の生んだ王子(後の英祖)とをめぐる王位継承問題で、老論と少論が激しく対立していきます。

    粛宗は王妃や後宮たちの愛憎を利用しながら、自在に換局政治を行い、王権を強化していきました。そして46年近い統治を終え、60歳で死去しました。


【 貨幣の鋳造事業と軍制改革 】
    粛宗は民生問題に取り組み、民の暮らしを安定させる政策に力を注ぎます。この時代は16世紀末の壬辰・丁酉倭乱や、17世紀初めの丁卯・丙子胡乱による社会の混乱がほぼ収拾し、社会体制全般の整備が進みました。一つは、国家財政を安定させるために、農民が所有する土地の規模に応じて米や布を上納させる納税制度を整理しました。これを大同法といい、慶尚道と黄海道まで施行してその適用範囲を全国に拡大、光海君以来続いた歳入の一元化計画を完成させました。次に、光海君の時に始まった量田事業を引き続き進めていきます。江原道と忠清道、全羅道、慶尚道まで実施して、一部の地域を除いて量田事業を事実上終了させました。
    さらに、儒教で低く見られている商業を活性化させるために本格的な遺幣改鋳事業を行いました。銅銭〝常平通宝(サンピョントンポ)〟の鋳造に力を入れていましたが、これは度重なる戦乱の影響で鋳造が中断されていたため、全国に普及させるために恒常的な鋳造のための体制を整えさせたものです。これによって朝鮮王朝の社会を安定させ、経済の発展に大きな影響を与えることになりました。
    また、粛宗は国防にも力を入れていました。外敵の侵略を防ぐために開城北側の大興山城、平安南道西南端の黄龍山城など辺境地域に城を築き、大々的な都城の修理工事を行っていきました。そして孝宗時代から論議を重ねていた〝訓練別隊(フルリョンビョルテ)〟と〝精抄庁(チョンチョチョン)〟を統合して都を警戒する〝禁衛営(クミヨン)〟という軍隊を新設し、五軍営体制を確立して、軍制改編を終了しました。こうした姿勢が、異民族の侵略を未然に防ぐこととなりました。さらに民衆の負担を減らすために、兵役義務を見直します。それまで良丁(ヨンジョン)の一人あたり の軍布負担が一疋から四疋までと、大きな開きがあったのを二疋に均一化しました。
    また、外交では江戸幕府との交流を積極的に推進しました。粛宗の時は、3 度にわたって、江戸幕府に向けて朝鮮通信使が往還し、人員も従来よりも多くなりました。これに儒学者が随行したため、日本と朝鮮の間で活発な文化交流が行われました。
常平通宝
朝鮮国信使絵巻