景宗
★朝鮮20代王
景宗(キョンジョン)/李昀(イ ユン)
☆生没年
1688年〜1724年
☆在位期間
1720年〜1724年
☆宗室→家系図
【父】
【母】
【后】
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★母親の死と多難な即位
景宗は、粛宗の長男として生まれ、母は張禧嬪。名前は昀(ギュン)。字は輝瑞(フィソ)。1689年に元子として定められた後、1690年に世子に冊封されました。
景宗は、「悲運の王」と言われていますが、それは権力欲の強い張禧嬪を母に持ったためでした。彼女が、側室の立場でありながら正室を追い出して、王妃の座を奪ったからです。しかし、それは息子を王位に就けるために発した行動でした。〝巫蠱(ムゴ)の獄〟で母の死を目撃した景宗は、ショックで病気がちになり、その後にニ人の王妃を迎えるも、子どもはできませんでした。
これは、一説によると張禧嬪のせいだといわれています。彼女は賜薬を受け取る前、最後にひと目息子に会いたいと粛宗に申し出ました。最初、粛宗は断ったものの、情にほだされて面会を許可。景宗を呼び寄せた張禧嬪は、息子のそばに駆け寄って、抱きしめるかと思いきや、下焦(ヘソ下)を鷲掴みにして引っ張ってしまいました。驚いた景宗はその場で気絶。その後、病に伏せるようになり、道のりは厳しくなりました。粛宗は淑嬪崔氏(スクピン チェ氏)の生んだ延礽君(ヨニングン)を可愛がっていたため、景宗はいつ王世子を廃されるかわからない状況でした。そのうえ、張禧嬪を利用していた南人政権が追放されて、西人派の少論が老論に主導権を渡すことになると、景宗はその地位をおびやかされることとなります。
懿陵
★世子をめぐり老論派と少論派が対立
1716年に、粛宗は少論派を退けて老論派を重用する〝丙申処分〟。そして1717年に、世子が病弱であるという理由から、当時の左議政で老論派のリーダーでもあった李頤命(イ イミョン)に、延礽君を後継に定め、世子代理聴
政させることを命じました。
それに対し、少論派は「世子を交代させようとしている」と激しく抵抗。以降、延礽君を支持する老論派と景宗を支持する少論派の党争が激化していきます。
1720年、両派間の論乱の中で、景宗は第20代王として即位しました。相変わらず政権を握っていた老論派は、すぐさま景宗の健康上の理由から後継者問題を申し立てました。いざとなった場合に備えて、延礽君を世弟に封じて王位を盤石にしようとしたためです。景 宗は、延礽君を世弟に冊封しようとしましたが、少論派に反対されて撤回します。その後、何度も少論派からの反対を受け、朝廷は混乱しました。ですが景宗は仁元大妃(イヌォン テビ)の後押しもあり、結局、延礽君の世弟冊封を強行しました。
また、老論派は、延礽君に代理聴政を行わせるべきだと主張しましたが、少論派は王権を保護するという名分を掲げて激しく反発。一時、景宗は病気の悪化により世弟聴政を受け入れたものの、少論派の反発で取り下げました。この後も、景宗は世弟聴政の受け入れと取り下げを繰り返し、老論、少論両派の党争は激しくなりました。
★少論派の政権掌握と景宗の症状悪化
1721年、景宗支持の立場をとっていた少論派は、ここで政権を奪おうと、世弟代理聴政を主張した老論派の執義の趙聖復(チョ ソンボク)と、金昌集(キム チャンジプ)、李健命(イ ゴンミョン)、李頤命、趙泰采(チョ テチェ)の四大臣を「王朝交代を企んだ謀反者」として攻撃しました。これがきっかけで老論派の権力基盤が崩れ、少論派政権となる〝換局〟が行われました。その結果、四大臣は免職とな り、地方に配流されました。
朝廷を掌握した少論派は、老論派勢力の大々的な粛清を始めます。これが、南人派の睦虎龍(モク ホリョン)の告発に始まる〝壬寅獄事(イミン オクサ)〟です。睦虎龍は、粛宗の治世当時まだ世子だった景宗を弑逆しようとの謀議があったと、陰謀の事実を明らかにしました。そこには、老論派の四大臣の息子や甥、追従者たちが加坦していました。この事件は老論派に大打撃を与え、老論四大臣は、再び漢城に護送されて自決させられました。また、死刑となった者が約20名、拷間で打たれて死んだ者が約30名、その他、身内だ という理由で次々と逮捕者が出ました。一方で、権力を握った少論派は、尹宣挙(ユン ソンゴ)と尹拯(ユン ジュン)らが復官しました。こうした獄事が辛丑の年(1721年)と壬寅の年(1722年)に相次いで起こったため、これを〝辛壬士禍〟ともいいます。
その後、1724年に景宗に病状悪化により死去。第21代王、英祖の即位によって再び老論派が復権し、少論派の政権独占は短期間で終わりました。
4年余の在位の末に世を去った景宗は、老論派と少論派の激しい政権争いの中、大きな業績を残すことはありませんでした。しかし、在位中に西洋の消火器にならって水銃器を製作させたり、少論派の南九萬(ナン グマン)が著した詩文集〝薬泉集(ヤクチョンジプ)〟を刊行しました。
南九萬