ライデンとシーボルト
1978年の日本が梅雨の季節に、オランダはアムステルダムから車で一時間くらいの学園都市ライデンに仕事絡みで訪れたことがある。この「ライデン国立大学」は王族の子弟も通学する由緒正しきキャンパスである。その片隅にフォン・シーボルトの胸像がひっそりと佇んでいる。
江戸の末期、シーボルトは長崎に有名な私塾「鳴滝塾」を開いた。そこに全国から西洋医学もしくは蘭学者を学び体験若者たちが集まり、その人たちが日本を近代化するエンジンになっていった。
実を言えば、彼はドイツ人の医者であり博物学者ではあるが、一介の町医者になることに飽き足らず、オランダに職を求めた。国策会社の「東インド会社」(インドネシアのバタビアが本社)に雇用され、長崎出島の「オランダ商館」のお付きの医者として来日した。しかし、彼の裏のミッションはオランダ国家のために日本をスパイするという契約であったらしい。
とにかく、当時の日本はオランダ以外には国を閉ざしていたので、オランダが握る日本関連の情報は貴重であったので、このライデンがヨーロッパにおけるジャパノロジィ(日本学)のメッカとなっていた。その最大の貢献者がシーボルトであったので、彼の胸像があってもおかしくはない。
そのほんのささやかで小さな胸像は新緑のモミジの葉を天蓋にして、人目を忍ぶような風情で佇んでいた。「アレッ」と思ったら、やはり日本からの「イロハモミジ」だと案内してくれた人が言っていた。そしてその足元には大株の「アジサイ」が咲いていた。〝日本のアジサイなのかな?〟と思ったらやはり、そうであった。彼がそのアジサイにつけた学名は「ハイドランジア・オタクサ」。長崎出島での〝現地妻〟の名が「お滝さん」(楠本滝…シーボルトとの娘は〝オランダおいね〟ことイネ)だったので、それに因んだのだという。
シーボルトはスパイ本来の業務である日本の沿岸の地図とか江戸城の見取図の持ち出しなど以外に、博物学者の好奇心なのか、ハタマタ、一発あててやろうの射幸心なのか、日本から1,000種に及ぶ植物を“密輸”している。オランダはその頃からすでに世界の「ボタニカル(植物)・センター」であった。一個の球根で家屋敷田畑よりも高いチューリップが取引されていたのは、シーボルトが「ジパング」に来る前のことなのだから、その投機心があって不思議ではない。
多分、シーボルトが持ち帰ったアジサイが品種改良されて「ハイドランジア(西洋アジサイ)」になり、ヨーロッパの人々にも愛された。彼の儲けはどれほどであったかは知らない。アジサイ→「ハイドランジア」以外でも、日本固有の花で西欧にデビューしていったものは、やはり、派手めなものが多い。クルメツツジ→「アゼリア」、ツバキ→「カメリア」、テッポウユリ→「リリー」……これらもシーボルトが持ち込んだような気がしている。
最終的には、江戸城の見取り図を盗んだ科により、シーボルトは五年の在日で国外追放になった。しかし、その間インドネシアのバタビア(ジャカルタ)に運んだ品々が船三艘分というのだから、いかにクソ真面目にスパイをしていたかということだ。それらの品々は、つまりはこのライデンにある「日本センター」に収納された。
その「日本センター」にも案内されて、彼が持ち出したものを観た。大名駕篭、仏像、針のツボの人体モデル、木の桶……なんとも妙な組み合わせの展示。さらに「国立民族博物館」の屋根裏部屋まで案内されて、夥しい江戸時代の日本のコレクションを見せられて、タイムカプセルを開けたかのようだった。
きちんとは保管されているが、分類できる人間がこのライデンにはいない。その管理責任者からとなんとかキュレーターを派遣してもらえないかという要請があった。それらの情報を東京に持ち帰り、様々な経過と紆余曲折を経て、「長崎オランダ村」(1983年)への設立へと繋がっていった。