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EMET

聖霊降臨

2022.06.03 20:00

2022年6月4日 C年 聖霊降臨祭

第1朗読 使徒言行録 2章1~11節

第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章8~17節

福音朗読 ヨハネによる福音書 14章15~16、23b~26節

 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
 「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

 私たちキリスト者は、「信仰」という言葉を、よく使います。実際、私たちが信仰を持つことと、キリスト者であることは不可分です。しかし、信仰が神への長い道のりであり、そこには様々な段階や過程、動きや変化があることを見落とすと、私たちは、形式主義に陥って信仰を硬直化させてしまうか、あるいは、停滞した信仰に価値を見出せなくなり、次第にそこから離れるようになってしまうでしょう。いずれにしても、歩みを止めた信仰は、本来の輝きを失っていきます。一方で、信仰の道を前進するとき、私たちは必ず「分からない」という事態に直面します。信仰とは、人間をはるかに越える神への道だからです。

 事実、福音書には、イエスの教えが何のことか分からずに、不安、恐怖、疑いを抱く十二人の弟子たちの姿が、そこかしこに描かれています。しかも彼らの無理解は、最後の晩餐の場面で、いよいよ際立ちます。ペトロは、弟子たちの足を洗って、互いに仕え合うよう模範を示したイエスの思いを受け取れませんでした。トマスは、イエスご自身が父への道であることが分かりませんでした。フィリポは、御父の姿の完全な現れであるイエスを見た者は、すでに御父を見たということが分かりませんでした。最後の晩餐でのイエスの言葉は、まさに弟子たちへの遺言です。その大事な言葉の数々を、彼らは、見事なまでに受けとめられなかったのです。

 しかし彼らは、何度理解できない事態に直面しても、イエスとともにとどまることを選びました。以前イエスが、ご自身の血と肉は真の食べ物であり飲み物だと述べると、多くの弟子たちはつまずいてイエスのもとを離れ去りましたが、ペトロは十二人を代表して、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」(ヨハ6・69)と信仰を告白しました。この晩餐の席でも、彼らは理解を越えるイエスの言葉に戸惑いながら、イエスとの愛の交わりにとどまりました。ただ一人、神の御子の栄光が照らす晩餐の広間から、夜の闇へと出て行ったユダを除いて。

 広間に残った弟子たちに、そして彼らを通じて私たちにも、イエスは「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハ13・34)と新しい愛の掟を授けました。さらにイエスは、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」とも述べて、ご自身への愛のために、新しい掟を守るように要求されました。

 しかしイエスは、彼らが自分たちの力でそれを果たせないことを、十分ご存じでした。何しろこの後、弟子たちは十字架を前に離散しますし、イエスに信仰を告白し、死ぬまでついていくと宣言したペトロは、イエスを知らないと言います。さらに弟子たちは、復活のイエスと出会っても、すぐには分からないということさえ体験します。つまり、彼らの不信仰、頑なさ、傲慢は、受難と復活によって打ち砕かれる必要があったのです。それを予め見越していたイエスは、教えを受けながら分からず、信じると言いながら疑い、愛することさえ貫けない弟子たちに、聖霊の派遣を約束し、種火となる希望を残してくださいました。これは、先に弟子たちを愛するイエスの執り成しによる賜物というよりほか、ありません。

 そしていよいよ、約束された聖霊が弟子たちのもとに降ると、その弁護者は彼らの中に住み、その弱さを包み、ご自身が御父と御子を愛するその愛で、弟子たちに愛の交わりに招き入れました。弟子たちは、その働きに助けられて、イエスに授けられた愛の掟を守る者にされ、福音を告げ知らせるべく派遣されていきました。彼らが使徒としての使命を果たすようになったのは、聖霊の息吹を受けたことによるのであって、それまでには、長い道のりを歩まなければなりませんでした。また使徒たちは、聖霊を受けたからと言って、すべてを見通せるようになったのではありません。むしろ彼らは、いつも聖霊に導きを願いながら、その時々でどこに向かうべきか、何をすべきかを、祈りのうちに共同体とともに見出していったのです。私たちはそのことを、使徒言行録や使徒たちの書簡を通して知っています。

 教会の礎となった使徒たちがそのように歩んだのですから、彼らから信仰を受け継いだ私たちも、同じように長い信仰の道を進まなければなりません。実際、私たち自身も、イエスに出会ってからも、しばしばイエスの言うことが分からず、恐れ、戸惑います。また私たちは、愛したいと望みながら、十字架に打ちひしがれ、復活のイエスと出会った仲間の証言を信じられないという体験をするでしょう。ですから、復活のイエスの「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハ20・27)というトマスへの言葉は、私たち自身への招きでもあります。そのとき私たちは、トマスとともに「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハ20・28)と信仰を告白できるでしょうか。

 それをするためには、私たちの心の内に潜む不信仰やエゴイズムを認めて、それを御子に明け渡す必要があるでしょう。すでに御子は、弱い私たちのために十字架に上げられ、復活によって罪を打ち砕いてくださり、今や御父のみ旨のすべてを成し遂げて、天に昇られています。その救いの業に信頼して私たち自身を開くなら、御子は私たちにも、必ず聖霊を派遣してくださいます。御父と御子の霊である聖霊は、私たちのもとに来て、私たちの魂の深みに浸透し、そこに住んでくださいます。この方は、私たちが自力では信じ切ることも、希望を保つことも、愛し抜くこともできないことを知り抜いて、そんな私たちの側に立ち、声にならない叫びを代弁し、私たちに信じ、希望し、愛する力を授けてくださいます。さらに愛の炎である方は、私たちをその火で浄め、ご自身に似た者へと変容させてくださいます。

 そのようにして私たちは聖霊の働きによって、父と子と聖霊の愛の交わりのうちにとどまることになりますが、それは歩みを止めることを意味しません。父と子と聖霊の愛は、止まることを知らないダイナミックな愛だからです。三位一体の神は、私たちをはるかに越える方でありながら、私たち一人ひとりの名前を呼び、ご自身のもとに引き寄せてくださる方です。しかし、私たち人間にその愛を極めることはできませんから、その深奥に分け入る歩みに終わりはありません。

 同時にその愛は、イエスが教えられた隣人への愛に、私たちを駆り立てます。すべての人を救うために御父から遣わされた御子は、私たちに愛の掟を授けられました。御父と御子の霊である聖霊は、その掟を私たちが果たすように私たちを浄め、いのちの息吹をおくって、神の愛を必要とする人々のもとへ、私たちを送り出します。そして私たちは、どこに派遣されているのか、その先で何を求められているのかを祈りのうちに探し求め、私たちに対する神の望みを共同体とともに見出していくのです。

 そのような聖霊の息吹を受けた私たちが、どうして歩みを止めてよいでしょうか。もちろん、人間としての弱さや限界はいつまでも残りますし、私たちはしばしば過ちを犯します。この世界の先行きは相変わらず不透明で、私たちが神のみ旨をすぐに見出せるわけではありません。しかし、私たちに先行する神の恵みが、私たちの信仰を新たな段階へ引き上げ、私たちにご自身への堅固な希望を抱かせ、三位一体の愛の交わりへと、私たちと隣人を導いてくださいます。ですから、人間の力では「分からない」という現実は、聖霊の風をはらんで前進する信仰に生きるとき、問題ではなくなるのです。

 弱い私たちをご自身に似た者に変えながら、三位一体の神と隣人を愛する力を授けてくださる聖霊に、私たちがひたすら信頼することができますように。聖霊の息吹をうけて、私たちが信仰の道をともに歩み続け、人々に神の愛を証しするべく、派遣されていくことができますように。

(by F.N.K)


 私たちEMETは、聖霊の一陣の風を感じて、2020年9月に教話を配信する活動を始め、Newsletterの配信がすぐその後に続きました。それは、新型コロナウィルス感染症が拡大する中、ミサに与れないでいた方々、あるべき教会共同体の姿を模索する方々、霊的な飢え渇きを覚えていた方々に、み言葉の黙想を助ける話をお送りしたいと思ってのことでした。

 それがどのように受け取られるのか、見通しがあった訳ではありませんでしたが、誠に幸いなことに、私たちが発信した教話が喜んで受け取られ、その輪が次第に広がる様子を私たちは目撃することができ、途中、読者が増えたことを受けて、PDFファイルの配布から現在のブログ形式に移行しました。その間、読者の皆さまからは、多くの、驚くべき反響を寄せていただきました。確かに言葉を紡いだのは私たちでしたが、それを通して神のみ言葉が働いてくださったのでなければ、そのようなことはあり得なかったでしょう。それは、福音の種を蒔くとはこのようなことかと、私たちに実感させる出来事で、私たちはそこから、新たにみ言葉に向き合う活力を受け取ることができました。

 しかし、状況が移り変わる中で、私たちはこの活動をどうしていくべきか、互いに考え、対話し、ともに祈る中で、私たちをこの活動へと送り出したのと同じ聖霊の風が、今、私たちを新たな場所へ送り出そうとしていると、確信するに至りました。つきましては、すでにお知らせ致しましたとおり、今回をもって、教話とNewsletterの配信を休止することに致します。

 このささやかな営みを応援してくださった皆さまには、感謝の念に堪えません。この活動が、皆さまの霊的生活の一助になったのでしたら、スタッフ一同、大変嬉しく思います。しかし、それを導いてくださったのは聖霊の息吹です。読者の皆さまとスタッフとの区別なく、私たちは皆、キリストにおける兄弟姉妹です。その私たちが、思いのままに吹く聖霊の風に促されて、新たな使命に目覚め、新しい一歩を踏み出すことができますように。私たち皆の上に、父と子と聖霊の祝福が豊かにありますように。

EMET一同