駄々をこねねばならぬ。
駄々をこねよう。と昨日は心の底から誓った。
もうすぐで、32歳にもなってしまうのに深く思ったのだ。
駄々をこねねばならぬ。
声に出すと思いっきり
噛んでしまいそうだが、
積極的にこねようと、思った。
思い返せば、
駄々をこねたのは何年ぶりだったろうか。
(いや、思い返さずとも、小さい駄々はけっこうこねている。)
昨日も、暗に年末なのだから早く起きてきてはどうか?と母の提案に
眠いから無理!だって寝てたいんだもん!と全力で言い放っていた。
(そもそもバイトの時間的に昼夜逆転してる僕の生活リズムを年末年始とか、親族が帰ってきてるからとかいう理由で、変えよ。というのが無理な話だ。)
いや、言いたいことは、
そうでなくて、
本気で駄々をこねた経験ってない気がするんですよね。
思い返してみても、
小学生まで遡れるのではないだろうか。
駄々をこねるとは
「じぶんの思い通りにいかないことに、癇癪をおこす」とあるのだが、
大人になると、思い通りにならない事もだいたいわかるし、
思い通りにならなくても、
仕方ないかぁと受け入れてしまうのだとおもう。
いや、でも、だからこそ
積極的駄々は、必要で、
大人になったから
聞き分けがよくなる。とか、
分別をつけなくてもいいのだと思う。
嫌なものは嫌だし、
やりたいことはやりたいし、
自分が犠牲になってしまうのはまっぴら御免だと思う。
昨日闇が深めの記事を書いたが
この理由は
面白い人に会っていない。
からだと思う。
そのせいでストレスが溜まっているのだ。
僕みたいな紙メンタルなやつが、
一番清くなれる瞬間は
面白い人、あるいは美しさを捨てなかった人に会えた時だ。
平たく言えば、同類に会えた時かもしれない。
普通に過ごしていると、
昨日みたいな人にしか会わないので、
簡単に、世界の終わりだ。
と思ってしまうのだが、
決してそうではない。
バグみたいな、エラーの副産物的
面白い人がいる。
そういう人が、輝いているのを見ると、たまらなく元気になる。
だけれども、
僕が住んでるのは田舎で、
しがないバイトの癖に一月は連休もないので、
そういう人に会いに行っても、
すぐとんぼ返りだ。
東京まで行くならお金もかかる。
じっくりと時間を共に出来ないし、
「あぁ、まだ留まっていたいのに」と、思いながら帰らねばならぬのだ。
こんなに辛いことはない。
ここで、
なら仕方ない。
まじめに二月まで待つか。と、
ゆっくりと会って行けばいいか。と、
昨日
大人な対応をしようとした瞬間に
大人でいることに対して
心が決壊した。
本気でジタバタして、
奇声を発しながら
全力で駄々をこねた。
(31歳と11ヶ月22日のいい大人が)
こうやってやはり
やりたい事はやりたいと主張せねばならぬのだと、思う。
休みがない。とか、
時間がない。とか、
お金がない。とか、
ないないないない。
ではいけないのだ。
一種の負けなのだ。
やりたい事は、
どんな事情であれやりたいのだ。
駄々をこねたところで、
僕にはいま、
それをサポートしてくれる存在もいなければ、
仕事を休んでいいよ(たかだかバイトなのだが)と言ってくれる人もいないわけだ。
でも、
この事情があるからって
そんな理不尽なことを受け入れてはいけない。
そんなものに自分が合わせる義理もないし、表面的には大人な対応するけども、家に帰ったら、見えない所で全力で駄々をこねようと思う。
これこそが力(パワー)なのではないか。と思った。
子ども力なのだと思う。
あのスーパーや、おもちゃ売り場でたまに見る生命の爆発みたいなエネルギーを僕らはどこかで捨てたり抑えたり、矯正しているのだが、
大人になってからも、
むしろその純度に磨きをかけ
積極的に世に放ち、
この無力な僕のわがままを徹底して
押し通そうと思った。
ここで、別に欲しいおもちゃが欲しいわけではなく、
「人に会いたい」という美しい願いに対して、
大人ぶることの方が、
どちらかといえば純度を下げている。
と言ってもいい気がする。
そんな賢くも、
物分かりよくなる必要もなく、
欲しいものは欲しいと
しっかり主張しようと思った。