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春まだ遠い水戸へ

2017.03.01 02:30

 皆様お元気ですか?早いものでもう3月。1月に水戸へ行って参りました。早咲きの梅が咲いていましたが、このレターがお手元に届く時には、見事に盛りを迎えているでしょうね。


 東京西川の専門店の組織に、埼玉・千葉・茨城・栃木・群馬各県の専門店で組織した、関東地区部会と言う会があります。

 その中で皆のお兄さん役で非常に信頼も厚い、水戸の久野ふとん店さんがその会長をされていましたが、西川創業451年目を迎えた本年は次世代へ引き継ぎの為、その職を辞されます。いつもは東京の西川本社で会議をするのですが、次の役員を決める会議を「貴史君、俺最後だから水戸に皆さんをご招待して会議したらどうだろう?」と声を掛けて頂き、まだ寒い水戸に行ってまいりました。

 上野駅から約1時間10分、水戸駅に着くと早速、助さん格さんを従えた水戸黄門像が出迎えてくれます。小さい頃はよくお祖父ちゃんと、水戸黄門を観ていたので、中でも東野英治郎さんの 水戸黄門がかなり印象にあり「んー、誰だろう?」と像の顔を見上げますが、誰に似ているか判りませんでした。

 水戸と言えば、水戸黄門があまりにも有名ですが、その城下町として発展した大きな街で、古い商家や史跡も多く残ります。城下町として整備されたと思う街並みが現代にも続いており、ゆっくり時間をかけて見たくなります。前回水戸を訪れた時は、偕楽園や水戸黄門をお祀りする常磐神社を巡りましたが、弘道館には行けませんでした。

 午後からの会議の前に、今回は足利学校等と共に、日本遺産に認定された、弘道館をどうしても見学したくて、早速ホテルに荷物を預けて、弘道館へ向かいます。会議がメインか、弘道館がメインか分からないくらいです。

「もしかして、お堀の上かな?」だろうと思われる小高い地形に、キレイな邸宅が立ち並び、武家屋敷さながらの門構えや白壁の塀を備えた小学校も、「あぁ、やはり水戸家の城址だからだな」と、景観が損なわれないように街づくりをされているのが分かります。

 すると古めかしく品のある門が現れ、中に入ると大きな表玄関が目に入ります。弘道館は水戸藩の藩校で、最後の将軍・徳川 慶喜公の父君で第九代藩主徳川 斉昭公が開設いたしました。

 文館や武館、医学館や天文台、孔子廟等が建設され、馬場や砲術場等々が整備され、日本一の規模の総合教育施設として開校いたします。弘道館は藩士やその子弟が学び、文武の多彩な科目が教えられていたそうです。明治元年、藩内で起きた弘道館戦争により、弘道館の多くの建物が消失し、更に明治5年、政府が国民のすべてが就学すべきことが定められた学制を発布すると、弘道館は閉鎖されました。

 館内を進むと「おーっ、さすが水戸!」と、【攘夷】と書かれた大きな掛軸が掛けられた来館者の控えの間や、藩主が臨席して文武の試験が行われた正庁や、徳川慶喜公が大政奉還後の明治元年、厳しい謹慎生活を送ったと言う至善堂など、見るもの全て興味が湧きます。畳の縁も三つ葉葵の紋が織られ、踏まないように気をつけるほどです。

 「あっ、立派な長持が!」葵紋が二つ蒔絵された長持ちがあります。歴史的な場所に行くと、長持に出会う事が多く、昨年は京都で桂 小五郎が隠れた長持に出会いましたが今回は慶喜公が大政奉還後、謹慎した際に使用した長持に出会いました。

 展示室も見応えがあり「力強くて、男らしい字だな!」と吉田 松陰が水戸に遊学した際に友人に当てた詩は強い精神力が伺え、まるで文字が生命力があふれ、生きている様です。また、黄門様(光圀公)から編纂が始まり、明治時代に完成した大日本史が展示され、本当に満足でした。

 展示物を見ながら「明治維新への行動をした人達や、幕府の人々は、現代がこんなに変わると思っていたのかな?」などと考えていました。

 日本の長い歴史の中で、150年前と言うと、「ついこの前、大変な時代の変化があったんだ!」と、幕末は遠い昔の事ではないのですね。

 一張一弛(いっちょういっし)。時には厳格に、時には寛容に生きましょうという儒学の思想だそうです。水戸を代表する言葉ですが、弘道館を開館した斉昭公は、この一張一弛の考えにより、同時に梅の名所でもある偕楽園を開園します。

 弘道館は厳格に学問や武道に励むところ、それに対して偕楽園は領民までも、皆が楽しむ場所として、一対の施設として造られました。

「あっ、いけない。俺は一弛ばかりかも知れない・・・」と、観光気分も抜けないまま、一張の会議に望むのでした。