【ト-2】泥の河(私的埋蔵文化財)
ルールを曲げても「と」の二本目として「泥の河」を取り上げずにはいられないと思ったのは、パンフレットのモノクロ写真の数々だ。
これは私の子ども時代だ。こんなランニングを着て半ズボンで、何も考えずに校庭周辺をうろうろしていた。昭和30年前後、子どもなりにクラスメートたちの家庭事情がぼんやり分かったりした。朝鮮人差別や部落差別、豊かになっていく一部の人から取り残されている貧乏差別も職業差別も身近なところに山ほどあった。我家(三軒長屋だった)の小学校区には、赤線があって、昭和32年に売春防止法が施行されるまで、子どもの目には不思議なタブーゾーンだった。うっすらと様子の違う気配は感じるのだが、誰かに聞いてはいけない雰囲気も受け止めていたので、なんだかよく分からないで過ごしていた。
「泥の河」もそんな貧困の売春船周辺に子どもが生きている世界の映画だった。昭和30年代になって、徐々に変化していく日本社会だが、今の人たちにこの映画世界はどんな風に映るのだろう。想像もつかない古い話なのかもしれない。
中国、台湾、東南アジアの国々を旅して、既視感のある風景の連続に、あちこちで懐かしさを感じた。その独特の空気が、ちょうどあの頃の私達の育った世界の匂いだった。
記憶に焼き付いた故郷の風景は、滋賀県・大津市の米軍キャンプである。ずっと後、沖縄を訪れた時、基地のフェンスが懐かしい風景として映ったことから、自分の大津時代を思い出した。MP(ミリタリー・ポリス)が街にいて、ジープに乗った進駐軍が町の広い地域を占拠していた。年に一度の米軍キャンプ(フェンスの中)でのフェスティヴァルで無料の変な味のもの(後で分かったことだが、多分コカ・コーラ)を飲んだり、ボーリングというよく分からない大きな施設で背の高い外人が、ゴロゴロ音をさせて玉を転がしていたのを覚えている。日本にボーリングが普及するのはずっと後のことだ。
緑の芝生の皇子山ハイツに並んだ住居も、近くの店のショウウインドーの虎と竜の刺繍ジャンバーも、他では目にしない不思議さより、そういうものだと受け入れて眺めていた。
やがて米軍基地は廃止になり、そこに市営球場や陸上グラウンド、市庁舎などが立ち並ぶことになった。昭和30年代はそんな時代だった。そして今では、「懐かしいなぁ・・・」と呟いてみても、「知りません」、「まだ生まれていません」と言われるばかりになった。