Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 194 (05/07/22) 旧宜野湾間切 (7) Kiyuna Hamlet 喜友名

2022.07.06 05:14

旧宜野湾間切 喜友名 (きゆな、チュンナー)



6月の最終週に梅雨も明け、7月から遠出での集落巡り再開を予定していたが、台風4号之影響で、今日からやっと再開することになった。梅雨が明けたのは良いが、今日は気温も上がり暑い。今日も訪問先には、事前予約で鍵を借りて見学をするところが含まれているので、その時間に合わせて出発した。途中、暑さでばててしまい、少し気分が悪くなり、小休憩を二度ほど取り、約束の時間を30分過ぎて喜友名公民館に到着した。鍵を借りて、喜友名井 (チュンナーガ-) を巡り集落内を見ようと思った矢先、地図や資料が入ったスマートフォンの暴走が始まり、まったく操作できなくなってしまった。それと暑さにやられ、体調も本調子でない。写真は記録として残したいので、喜友名集落巡りは途中だが、帰宅するころにした。7月8日に再度、この地を訪れ、ネットワークにはつながってはいないのだが古いスマートフォンで地図、資料参照しながら写真撮影も完了し、このレポートに含めている。


旧宜野湾間切 喜友名 (きゆな、チュンナー)

喜友名は、1671年に浦添間切から分離され宜野湾間切に編成された。方言名ではチュンナーと呼ぶ。浦添間切時代には、謝名、仲西に次いで三番目に石高が多く重要な地域だった。尚寧王時代には謝名利山鄭迵の弟子であり、鄭迵の死後、琉球王統内の重臣となる蔡堅が喜友名親方として地頭職に就いていた。現在の場所に喜友名集落は琉球王国時代の地割制度で碁盤状に規則正しく区画整理された。この様な碁盤状集落は、尚貞王から尚穆王の時代の三司官だった蔡温 (具志頭親方) が富裕百姓の規制、貧窮士族や百姓の救済、薩摩への貢納確保などの対策として王国財政の増加を目的に1737年から1750年にかけて行われた元文検地による事業によるもの。肥沃な土地の集落は痩せた土地に移動して、碁盤目状の集落が形成されたのだ。そうするとこの喜友名集落もどこからか移住させられてできたと考えられる。浦添間切時代は喜友名グスク周辺が元の喜友名集落と考えられる。資料では喜友名の小字の山川原、下原、西原一帯に人々が住み着いていたことが遺跡発掘で明らかとなっているそうだ。基地内には幾つもの遺跡が発掘されている。

  • 山川原遺跡 - 喜友名城遺跡から一段下りた崖下、約3500~3000年前 貝塚時代前期
  • 山川原第二遺跡 - ヤマガーの東側、約2500~2000年前 貝塚時代中期
  • 山川原第三遺跡 - 山川原遺跡北側、約3000~2500年前 貝塚時代前期
  • 山川原第四遺跡 - ハウジング北西崖下、約2500~2000年前 貝塚時代中期
  • 山川原第五遺跡 - ヤファレーグーフーの高頂、約5000~20000年前、貝塚時代前期
  • 山川原第六遺跡 - 第五遺跡西側 アラジモー、800~500年前 グスク時代初め頃
  • 山川原第七遺跡 - ヤマガーモー、約800~500年前 グスク時代後半 
  • 西原遺跡 - 山川原遺跡の下側、約800~500年前 グスク時代
  • 下原遺跡 - 喜友名泉北側、約1500~800年前
  • 下原第二遺跡 - バシガーの周辺、約800~500年前 グスク時代

現在の集落内でも幾つもの遺跡が発掘されている。

  • 前原遺跡 - 集落西側、貝塚時代後期~グスク時代
  • ウフシー遺跡 - 集落南側、普天間飛行場を取り巻くフェンスの内側に比高四メートルの巨岩があり、その根本に人骨散乱する古墓がある。グスク時代
  • 東原ヌバタキ遺跡 - 集落南東縁 「ヌパタキ」、貝塚時代中期
  • アジミー洞窟遺跡 - 屋号前真志喜の南側、貝塚時代後期


喜友名は以前は今よりももっと広範囲に渡っていた。は1939年 (昭和14年) の行政区画変更により、仲原原 (ナカバル) にあったバサーサクヤードゥイが、神山の小字の大安武原とともに分離独立し「中原区」となり、また、小字湍原 (ヌーリバル ) と上原は「上原区」へ、小字上原の一部 が「赤道区」へとそれぞれ組み込まれている。

古くから喜友名部落に住んでいた門中は、北中城村仲順からの山城 (ヤマグスク)、読谷からの大嶺 (ウフンミ)、 宜野湾間切神山村の島袋加真戸の子孫の島 (シマ)、野嵩の新垣家からの別れの喜久本 (チクムトゥ)、読谷の山田ノロの分かれで喜友名の草分けの根屋とされる徳山 (トゥクヤマ)、北谷伊礼家の仲門 (ナカジョー)、又吉 (マテーシ)、北谷伝道の伊礼家の上門 (イージョー)、沖縄市胡屋からの島袋 (シマブク)、中城間切安仁屋ヌン殿内の分かれの川平 (カービラ)、松村 (マチムラ) の11門中で戦前では集落の170世帯のうち85%の145世帯を占めており、極めて門中中心の血縁集団の村だった。戦後、喜友名は米軍に接収されたが、集落の周囲には岩山 (シー) が点在し、北側は急峻な崖状になっていて、基地として不向きのためか、まもなく居住許可がおりて、住民は元の集落地域に帰り、居住を始めた。この様に集落は幸いにも接収からまぬがれたが、生活基盤であった農地は、キャンプ瑞慶覧と普天間基地に接収され、喜友名七泉を含む多くの文化財は基地内に存在し、西普天間住宅地区は返還されたが、まだまだ現在も返還されていない地域が大きい。接収されなかったかつての集落内には石獅子群や印部石などが残っている。

喜友名は戦前は甘蔗 (サトウキビ) 生産中心の準農業集落で宜野湾村の中でも一戸あたりの耕作地も最も広く有数の農村だったが、農地が接収されたことで、生活基盤は変化して、米軍基地での軍労役、ハウスメイド、子守り、庭作業や基地軍人家族を対象にした洗濯サー (ランドリー) などで生計を立てる様になって行った。また、シー (岩山) を整地して軍人家族向けの外人住宅が多く造られた。資料にその外人向け住宅の分布図があるが、想像していた以上に多いのはちょっとした驚きだ。

喜友名の人口は1880年 (明治13年) には734人、1903年 (明治36年) は786人 (185戸) で微増している。1925年 (大正14年) には1009人 (217戸) と大幅に増加している。その後、厳しい経済状況下で、移民や出稼ぎが増え1937年には減少している。その後も、移民などで、1944年 (昭和19年) には767人と減少、さらに翌年は627人に減少している。1950年代を通しておよそ800人前後で推移している。1960年代になると、外人向け貸し住宅の建設が始まり、喜友名集落の家屋の数が倍加する勢いで、人口も年々増加していった。その傾向は本土復帰後も続き、1975年には2000人を超えた。その後、住宅地と適している土地は飽和状態となり、人口は横這いで2000年代前半までは2000人台で推移している。そして、土地有効活用として集合住宅やマンションが建設された事で2004年には人口3000人を超えている。キャンプ瑞慶覧や普天間飛行場の返還後は、更なる増加が期待されているが、返還時期は合意はあるものの、米軍が要求する諸条件があり不透明だ。

喜友名人口は戦後数年までは宜野湾市の中では多いグループだったが、増加率は最も低く、人口ランクは下がる一方で現在は最も人口の少ない地域となっている。喜友名の三分の二が現在でも米軍基地となっており、住宅地として開発できる土地に限界があることが大きな理由となっている。基地返還で、新たな街が建設される予定で、今後はそれに期待できる。

喜友名誌 ちゅんなー (2015 喜友名区自治会) に記載のある、集落の祭祀は以下の通りだが、この内、現在でも続けられているものがどれだけあるのかは不明だった。

琉球王統時代から明治にかけて、村の祭祀は宜野湾ノロによって執り行われていた。


伊佐交差点の場所にここから中城への地域の紹介板が置かれている。

公民館の前にも喜友名集落の文化財案内が置かれていた。これで紹介されていたものはほとんど見学ができた。現場まで行ったが見つけられなかったもの、立ち入りができなかったものもある。


喜友名集落訪問ログ



印部石 - ワたけたう原 (未訪問)

きょうも、何度も通ったパイプライン通りで向かう。

まずは伊佐交差点近くにある1737-50年に行われた乾隆検地で設置された印部石 (ハル石) が残っている場所に向かう。宜野湾市には26の印部石が見つかっている。当時のまま残っているのはこの場所だけだ。現場に残されているのはパイプライン沿いの丘の上にあるというので探すが、結局は見つからなかった。近所の人に聞いても知らないとのことで、残念。インターネットでここを訪れた人の写真が掲載されていた。案内板まで置かれているので、博物館か公民館で聞けば場所がわかるかもしれない。喜友名集落が蔡温の農地改革によって喜友名グスク周辺から現在地に移動したのだが、その農地改革を行うにあたって、近代的な三角測量を用いて実施されたのが、1737~50年の乾隆 (元文) 検地で、この場所に測量の図根点として設置された印部石 (ハル石) が残っている。「ワたけたう原」と彫られている。

先日、宜野湾博物館を訪れた際に、入り口付近にキャンプ瑞慶覧内にあった西普天間住宅地開発の際に発見された「あ 山川原」の印部石が復元されていた。

博物館内にも発見された印部石が展示され、説明板が置かれていた。


屋良按司朝久之墓

見つからなかったのだが、印部石 - ワたけたう原からパイプライン通りを進み、喜友名集落に入るところに墓があった。屋良按司朝久之墓と屋良親雲上朝方之墓とある。

屋良按司朝久とは第二尚氏王族で、第二尚氏三代尚真王の四男の尚龍徳 越来王子朝福の孫にあたる人物。越来王子朝福は向氏嘉味田御殿の祖に当たり、その息子 向恭安 越来按司朝村の次男が屋良按司朝久で向氏嘉味田御殿から分家し屋良家の祖となっている。これには少しいきさつがあって、兄の向成名 朝重は島添大里王子朝長 (尚寧王の従兄弟) の娘 (勢能君) へ婿入りし、島添大里間切総地頭を継承していた。このことで、朝久は父親の跡目 向氏嘉味田御殿を継いで、越来間切総地頭を継いでいた。後に、兄の朝重が離婚して実父の跡目に戻り、1645年 (順治2年) に、喜屋武間切の総地頭に転任している。朝久は兄に跡目を譲り、屋良按司となり、分家の屋良家を興すことになった。隣の墓は朝久の孫の屋良親雲上朝方で石嶺ノ屋良家の祖に当たる。墓は元々は首里にあったのだが、近年に子孫 (屋良家、仲地家、新田家など) により、この地に移されたもの。この屋良家が喜友名とどのようなつながりがあったのかは分からなかった。喜友名の有力門中を調べたが、この屋良家との関係を示すものは見つからなかった。朝久の三男である向思泰 屋良按司朝林は近くの北谷に左遷されたというのでその子孫がこの辺りにいたのかもしれない。今後、チャタンも巡る予定なのでその際に何かわかるかもしれない。ちなみに、本土復帰の際に沖縄県知事をしていた屋良朝苗はこの屋良家の子孫になる。


旧トゥルミチ跡

パイプライン通り (写真上) は戦後、米軍が那覇港から普天間基地まで燃料輸送の為にパイプラインを設置していた道だった。屋良按司朝久之墓の側に急な細い坂道がある。トゥルミチという (写真下)。戦前はサトウキビを運ぶトロッコの線路が敷設されていた。かなり急勾配だ。このトゥルミチは大山駅まで伸びていた。大山からこの喜友名へは登坂で所々、急な坂にもなっており、しばしばトロッコの転倒事故が起こっていたそうだ。


喜友名七井泉

喜友名には主要な井泉は瑞慶覧キャンプ内にあり、この地域は返還され開放されたのだが施錠されており、通常は訪問は出来ない。公民館で鍵を借りて、まずこの地域にある井泉から巡る。この喜友名井は市指定文化財となっている。喜友名集落の水源は喜友名泉のウフガー、カーグクァ以外にも五つあり、合わせて七井泉と呼ばれている。全ては基地内にあるので見学はできない。村で拝んでいた井泉は七つあり、ウフガー、カーグゥー、ヒージャーガー、ミーガー、バシガー、ヤマガーにグスクのカーになる。喜友名七井の湧水は豊富で、大山と同様に井戸の下方にはターブックヮが広がり田芋生産が行われていたが、七井と同様にこのターブックヮも米軍基地として接収されてしまった。集落内の水は乏しく、集落が高台にあり、井戸はかなり深くまで掘らないと水脈に行きつかず、経済的に井戸を掘るには無理があった。その為、殆どの家庭が数百メートルから1キロ離れた喜友名井までは一日二回は水を汲みにいかなければならなかった。この水汲みは重労働で喜友名へ嫁には行きたくないという始末だったそうだ。何故、こんな不便なところに住んだのかを明確に説明している資料は見当たらなかったが、現在の土地には琉球王統時代に祭温による土地政策で移住させられたと思える。


喜友名井 (チュンナーガー: ウフガー、カーグゥー)

喜友名集落から約120mの石畳の急な下り坂のカービラを降りた所に喜友名井がある。井戸はキャンプ瑞慶覧内の西普天間住宅地域にあったが、返還されたている。公民館で訪問者リストに名、住所、電話番号を記載し、喜友名井への入り口の鍵を貸してもらう。一週間に一組程が訪れている。公民館のおじいと話すと、返還されて、公園になる予定だが、現在と同じようにフェンスで囲み鍵をかける予定だという。地元ではこの井泉はずっとこのままで守って行きたいので、解放して荒らされのは避けたい意向があるそうだ。色々と話をすると、このおじいの喜友名井泉への想いが大きい事が分かった。

入り口に着くと、道路沿いにモニュメントが置かれていた。石碑、樋川、水溜が造られている。この場所は種子取毛 (タントゥイモー) と呼ばれて所で、西原製糖所 (イリバルサーターヤー) があった。

ここから喜友名井泉へのゲートに降りる。上の道路からはまだ返還されていないキャンプ瑞慶覧が見える。

ゲートを開けて喜友名井への坂道を降りていく。この坂道はカービラと呼ばれ、井泉と集落を結ぶ石畳道だった。このカービラは県道81号線 (ぎのわんヒルズ通り) で分断され集落側は石畳道は消滅している。カービラのある場所は40度の傾斜の急な長い坂道なので、その途中にウィユクイビラ (上憩場、前當山 (メートーヤマ) 前の石獅子あたり) とナカユクイビラ (中憩場)、シチャユクイビラ (下憩場) の三ヶ所の休み場があった。

喜友名井 (チュンナーガー) は大井 (ウフガー) と井小 (カーグクァ) の二つで構成されている。この井泉は喜友名集落の重要な飲料水や生活用水だったが、伊佐浜が基地に接収された時にこの喜友名井も基地として接収されることになった。これは喜友名集落の水源を絶たれる事で死活問題だった。住民は琉球政府と掛け合い、紆余曲折の末に、この喜友名井にポンプを設置して、水タンクまで汲み上げる補助金を調達し、住民の寄付と合わせて、1957年 (昭和32年) に簡易水道が敷設され、集落内23ヶ所に共同水栓を設置した。喜友名井は国指定有形文化財となっている。坂道を広場になり、その下に二つの井泉があった。綺麗に整備されている。大山集落訪問時の米軍基地からの消火剤流出で、ほとんどの井泉からPFOSが検出されているが、この喜友名井からもPFOSが検出されている。公民館の女性事務員と話すと、住民はこの井泉には特別な想いが強く、喜友名のアイデンティーともいえる。昔はこの井泉の水によって生かされてきたという意識が強く、その大切な井泉を米軍に汚染されたことに対しての怒りはおさまっていないようだった。現在でも飲料としての利用はできないが、家庭用水や産業用水として利用することも検討されているそうだ。

ウフガーはイキガガー (男性用井泉) とも、農作業の後、男達が水浴びをし、連れていた馬も水浴させ洗ったのでウマアミシガー (馬浴び井) ともいう。この井泉では、初水 (ハチミジ) としてハチウビー、産水を汲み思い撫で (ウビナディ)、水撫で (ミジナディ) に使われ、また死水 (シニミジ) としてアミチョージ (湯灌) としても利用されていたので産井 (ウブガー) とも呼ばれた。各々の行事の水を汲む樋川口は決まっており死水は向かって左側、産水は右側の口からだった。

もう一つの井泉はカーグヮで、イナグガー (女性用井泉) とも呼ばれ、女性達が洗濯用 (洗濯シードゥクュル) として使い、社交場でもあった。ウフガーには三つの樋口があり、向かって左からウフシングチ、ナカシングチ、シングチグヮと名付けられている。この三つの樋口の上の房には香炉が置かれている。東側壁には石台があり、野菜などを洗い、台には窪みがあり、女性が髪を洗うのにも使われていた。また、東側の石壁際にはクチャグヮーという女の人が脱衣するための三角形の二坪ほどの空間もある。いつしか、このカーグクヮがウフガーと呼ばれるようになり、元々のウフガーはウマアミシガーが訛りマーミシガーと呼ばれた。

二つの井泉からはかつての田畑への用水路が設けられ、今でも澄み切った湧水が勢いよく流れ出している。

ここにアヒルがいる。少し前からここに来ているそうだ。公民館で出会ったおじいがこの井泉を掃除の際に面倒を見ているそうだ。小屋の前には餌まで用意している。おじいがこのアヒルを可愛がっているのは村では評判になっている。お腹が大きくなっているのでここで卵を産んで、ひよこを育てるのかも知れない。

この喜友名井の奥の森には幾つかの井泉がある。喜友名七井と呼ばれ、喜友名井の二つと喜友名グスクにあった井泉以外の四つがあるのだが、これらの井泉の情報はあまりなく、インターネットでもこれらの井泉を訪問した記事はなかった。公民館のおじいにこれらの井泉へは行けるかと聞くと、二重フェンスの間の水路を渡って行けばあると教えてくれた。喜友名フェンスからの出口を探すが、なかなか見つからない。何度かフェンス沿いを登り降りをして、フェンス仕切りが狭くなっている所に行くと、果たしてそこが外への出口だった。米軍が付けたのだろう大きな鍵があったが、鍵はかかっておらず、外に出る事が出来た。外側フェンスの向こうはまだキャンプ瑞慶覧で、その敷地内フェンス沿いに水路が通り水が流れている。このフェンス沿いに残りの井泉があるのだろう。


アカンナー

集落北側にあるイキガガー、イナグガーのすぐ下流にアカンナーという井泉があったそうだ。この井泉は拝所ではなく村の防火用水として使われていた。深さは膝くらいで、主に男の子が水遊びして、大人や女子はほとんど立ち入ることはなかった。土手を挟んでアカンナーの反対側にはチュンナーガーから流れる水路があり、アカンナー付近は緩やかな滝のようなっており、チチウトゥシと呼んでいた。このチチウトゥシはクチャ (粘土) が取れたので、女の人たちはそこへ来て洗髪用の粉として採っていた。このアカンナーは拝井でないからか、表示板は見つからず。資料に当時のスケッチがあった。

内側フェンス沿いに細い水路 (写真上) があり、スケッチにも描かれている。この水路を超えた所も川の様になっており、多分このあたりにあったのだと思う。


ミーガーとヒージャー

集落から新城方面に向けて、アカンナーの東側にミーガーとヒージャーガーがあった。そこにはミーガーマーチと呼ばれた樹齢三百年はあろうかと思われる、大きなヒラマーチャー (平松) があり、その木陰が野良仕事の休憩場所で、夜はモーアシビーの場でもあったそうだ。ヒラマーチャーの真下にヒージャーガーがあり、そこから右側の傾斜を下ったところにミーガーがあった。ミーガーはシングチが一つで、 周囲の壁面は石積みで、井泉の底は石が敷かれていて中に入っても濁ることはなかったという。支流は苗代に引かれ、周囲には田芋 (ターンム) が植えられていた。ミーガーは女の子の水浴をするところだった。

フェンス沿いを進むと森の中への道と思われる入り口らしきものがあり、そこを進むと井泉らしきものが現れたミーガーと書かれた表示柱があった。この後にも何本ものミーガーと記された柱があった。ヒージャーガーと書かれた柱は見当たらなかった。どうもミーガーとヒージャーガーはまとめてミーガーと言っていたのかもしれない。二つのミーガーの位置を見ると、こちらがヒージャーガーと思われる。

ヒージャガーから更に奥に行った所にもミーガーの表示があり、石積みの井泉があり湧水が吹き出している。


バシガー

ミーガーから更に東側へ約200m程離れたところにはバシガーがある。バシガーはミーガーより水量は少ないが大干ばつの時でも水が枯れることはなく、どんな大雨の時でも水が濁るということはなかったという。チュンナー ガーやミーガーが大雨で濁ったときは、少々遠くてもバ シガーで水汲みをしたという。この井泉には伝承が残っている。喜友名グスクに関係するウナダルヌメー (位の高い女性) が水浴びをしたという話や、喜友名グスクの妃 (ウナジャラ) が芭蕉衣で織った着衣をここで洗ったことからこの名称がついたともいう。芭蕉はバサーというのでバサーカーからバシガーに転訛したと考えられている。またここには鯉の養殖場があったそうだ。バシガー上手には、「ききとも奈原」の刻名が彫られた印部石も見つかっている。井泉は綺麗に石積みが残っている。湧水は枯れてしまったのだろう、水は出ていなかった。


ヤマガー

チュンナーグスクの側から急傾斜の里道 (グスクンダ) を降り切ったところ、新城方面に集落からは最も遠い所にはヤマガーという自然の湧水があった。集落からは遠いので、住民の生活用水としては使われていなかった。ヤマガーの傍にもヤマガーマーチ (松) と呼ばれた大きなヒラマーチャー (平松) があったそうだ。戦後は屋号 西玉那覇の鯉の養殖場があった。ヤマガーの脇にはフニクンジャー石が置かれていたそうだ。この石は船を繋ぐ為と伝わっている事や、この地をジンナトので昔はこの辺りは海岸だったのだろう。資料に昔のヤマガーの写真があったので、これを頼りに探す。

森の中を散策しヤマガーの表示柱があるのだが、何本もあり、どれがヤマガーなのかははっきりしないが、どうもこれがヤマガー跡の様な気がする。

ただ、井泉の前にあったフニクンジャー石は見当たらなかった。ここは標高50mの場所になる。ここまで海岸線がきていたと伝わっているのだが、琉球王統時代は国道58号線が海岸線だったので、ここが海岸だったとすると、琉球王統時代から随分と時代を遡った頃だろう。ただの伝説なのかも知れない。


下原井 (シンバルガー)

喜友名七井では無いのだが、ヤマガーの更に奥にはシンバルガーとユタカヌイズミという二つの井泉があると書かれていた。折角、ここまで来たのだからと、この井泉を探す。シンバルガーの表示が見つかった。ただ、どれが下原井なのかははっきりしない。水が流れている場所があり、そに脇に水槽があった。これではないかと思う。下原は喜友名と新城にまたがる地域で、多分新城の域内に当たると思う。かつての新城の集落はこの辺りにあったとされている。


野国小ヌ前ヌ井 (ノグニグヮヌメーヌカー)

下原井 (シンバルガー) の近くにも「ノグニ」と書かれた表示柱があった。これは野国小ヌ前ヌ井 (ノグニグヮヌメーヌカー) の事で、この場所にも井泉があったのだ。ただ草がぎっしりと生えて中に入るのは躊躇われた。


古水田跡

散策していると、所々に草が少なく中に入れる場所がある。この様な所を見つけると、どうしても入りたくなる。ここを入ると水が流れている場所に出た。表示板があった。古水田跡とある。戦前はこの一帯は水田や田芋畑だった。

別の道を進むと崖に出て、崖上に岩がある。物見台の様にも見える。ここからは海岸方向が見渡せる。麓には大きな池も見える。

この先にも、まだ幾つかの井泉があるようなのだが、これより先は、遺跡調査が終わった地区で整地工事が行われているので、これ以上先に進むのは断念した。


遺跡発掘場所

喜友名七井はキャンプ瑞慶覧内の西普天間住宅地域 (ハウジングエリア) では米軍兵士家族の住宅地だった。跡地は琉球大学医学部、附属病院、集合住宅、歴史公園となる予定で。工事前に発掘調査が行われている。工事現場で発掘作業をしている人とも話をした。至る所に遺跡があるそうだ。今は喜友名七井の上の地域を発掘しているそうだ。米軍基地だったので、この様な斜面は昔のままで開発されていないので、井泉の石積みも残っている。発掘調査が終わると、跡地計画に沿って工事が始まり、遺跡は消滅してしまう。遺跡はこの時期にしか見れない。作業員の多くは、何故ここに部外者が入って来ているのかと、怪訝な顔で見ている。確かに正規ルートでは部外者立ち入り禁止なのだが、喜友名井からの裏ルートで来たので発掘場所にも来てしまった。今発掘しているのは昔の幹線道路だった宿道だそうだ。

住居跡のようなものもある。現在の喜友名集落は琉球王統時代に移住させられたと考えられ、この辺りは耕作地で民家はなかった。それ以前は喜友名グスク付近に集落があったという。この場所は喜友名グスクを北側斜面なのでこの辺りにかつての喜友名集落があったのかも知れない。発掘調査が終われば、見学会が行われて、学術調査報告書が出されるので、それで確認できるだろう。


西普天間住宅地域跡地開発地

2015年 (平成27年) に返還されたこの西普天間住宅地域跡地開発の完成はまだまだ先 (2027年を予定) だが、現在の開発計画は下図の通りだが、発掘調査状況や地主会との話し合いで、変わる可能性がある。

2016年中から2017年末には住宅地だった場所の発掘調査が行われている。旧住宅地にはいくつもの遺跡が発見されている。現在は工事が進み整地も終わり建物が立ち始めていた。

今日散策した涌井群は丘陵斜面にあったことから米軍基地時代にも手が加えられておらず、そのまま残っている。現在の発掘調査はこの地域に移っていた。

喜友名は宜野湾では一番人口に少ない地域になっている。地域の三分のニが基地になっている。西普天間住宅地域を皮切りに、今後、普天間基地、キャンプ瑞慶覧が返還されれば、将来の発展が期待できるだろう。ただ、返還には米軍から諸条件がつけられており、中には米軍の都合次第のものもあり、いつ返還されるかは不透明だ


喜友名グスク (きゆな、チュンナーグスク)

キャンプ瑞慶覧内西普天間住宅地区 (返還され) にあるグスクなのだが、かつては北側断崖沿いの丘陵に野面積みの城壁を巡らし、二か所の城門が残っていたそうだが、現在では、基地造成、県道の道路拡張工事に伴いその大半が削り取られ破壊されてしまい遺構は残っていないと考えられている。基地内なので調査が出来ず、遺構の有無は分からない。基地返還後、何か見つかるかも知れない。喜友名グスクはグスク時代の初期に築かれたと推測され、伝承では、隣り合う北谷グスク (イチグスク) との戦いなどを経て衰えたとあり、この二つのグスクの間にある水田からは大量の弓矢が出てきたとの伝承も残っている。それ以降は主に祭祀の場としての役割に変化したと考えられている。

琉球国由来記によるとグスク内には

  • 城内西ノヤラズ嶽 (神名: イシナカゴマシラゴノ御イベ) 城内にあったガントゥ小ではないかと推測されている。
  • 喜友名城之殿
  • 喜友名城火神 (公民館側に移設されている)

があり、宜野湾巫女 (ノロ) が祭祀を管轄していたと記されている。これ以外にも、火の神、水の神、グスク東端にあった岩山には東リ世今帰仁へのお通し (ウトゥーシ、遥拝所)、ガントゥ小の前にはグスクヌカー (水は枯れていた)、按司墓もあったそうだ。グスク内にあった23の香炉は全てお宮に移設合祀されている。このうち12基の香炉は刻字されており、香炉が寄進された年月日が記されている。乾隆39年 (1774年)、乾隆59年 (1791年)、喜慶9年 (1804年)、喜慶19年 (1814年) が判読できており、第二尚氏王朝の第14代尚穆王 (在位 1752年 - 1794年) から第17代尚灝王 (在位 1804年 - 1834年) にあたる。

発掘調査ではグスク時代から、近世、近代、現代までの長い時期にわたっての遺跡が発掘されている。遺構としては、集石遺構、溝状遺構、ウヮーフール (豚便所) 跡、ピット群、サーターヤー跡、集石土坑が発掘され、出土品には染付、褐釉陶器、本土産磁器、三彩、瑠璃釉、黒釉陶器、東南アジア陶器、本土産陶磁器、南島須恵器、沖縄産施釉陶器、沖縄産無釉陶器、土器、陶質土器、瓦質土器、石器、石鏃、骨製品、円盤状製品、金属製品、銭貨、玉名などがある。 


喜友名貝塚跡

喜友名グスク跡のちょうど前を走る国道58号の宜野湾北中城線道路改築事業により、緊急発掘調査が1996年 (平成8年) から1997年 (平成9年) にかけて、喜友名グスク、喜友名貝塚でおこなわれた。この場所の喜友名貝塚は縄文時代の遺跡で、竪穴式住居跡が見つかり、青磁が出土している。


仏穴 (フトゥキアブ 未訪問)

喜友名グスク跡の東100m程のところ、かつてのキャンプ瑞慶覧内には洞穴の拝所があり、仏穴 (フトゥキアブ) と呼ばれ、普天満宮のガマに通じていると言われている。仏様を祀っていたという。拝所の脇には女性の下半身をかたどった石像と寝そべった石像があったそうだ。戦時中は避難壕として使われていた。この拝所も移設されている。沖縄戦ではこの洞窟に約500人が避難していた。米軍に発見され、呼びかけに応じなかった女性数名が撃たれて犠牲になっている。また、日本軍と共に南に移動した人達も犠牲者になっている。現在西普天間住宅地跡は工事中で、仏穴の見学には宜野湾市の許可が必要という事で、工事入り口で断られてしまった。先ほどの喜友名七井を歩いた時にここまで足を運べばよかったと後悔。


喜友名七井見学が終わり、二時半ごろに鍵を公民館に返しに行った、たまたまおじいもいた。七井に行ったかと聞かれたので、色々と感想を伝えると、公民館の女性は、そこまで行ってたので随分と時間がかかったのねと言いながら、公民館の戸を閉め帰り支度をし始めた。どうも、鍵が返ってくるまで待てくれていたようだ。約三時間の喜友名七井散策だった。この後、集落内の文化財巡りに入ったのだが、冒頭で記したようにスマートフォン暴走のアクシデントで途中でき棄権し帰宅することになる。



村屋跡 (喜友名公民館)

かつての村屋は現在の公民館の四つ角のはす向かい (写真中右下) にあった。当初は茅葺 (1935年 昭和10年当時 スケッチ 左上) だったようで、1940年 (昭和15年) 頃には赤瓦屋根 (スケッチ 中上) に吹き替えられていた。戦争で焼失したが、戦後住民が帰還後、茅葺の村屋 (1955年 昭和30年当時 スケッチ 右上) が建てられた。1958年 (昭和33年) にはコンクリート製の公民館 (写真左下) に建て替えた。

昭和44年にかつての村屋から道を挟んだ現在地に移されている。現在の公民館は1978年に建て替えられたもの。


地頭火ヌ神

喜友名集落の草分けの根屋とされる徳山門中の神屋にあった火の神を、戦後公民館裏に移設している。喜友名集落の守り神となっており、6月15日のウマチーでは徳山の神屋の香炉とこの火の神を村祭祀として拝んでいる。香炉は1997年 (平成9年) にお宮合祀拝所の無縁墓に移設されている。


中道 (ナカミチ)

公民館の前の道が集落を真ん中東西に走る中道だった。この道では戦前昭和14年迄は、6月15日のウマチーで綱引きが行われ、ちょうど、公民館前の交差点を境に西の前村渠 (メンダカリ) と東の後村渠 (クシンダカリ) でカヌチで綱を結び綱引きが行われた。この綱引きには前哨戦があり、6月10日には青年綱 (ニーセジナ) または新米綱 (ミーメーンナ) が行われ、15日本番の大綱 (ウーンナ) を盛り上げていた。


喜友名の石獅子群

喜友名には、集落や屋敷内に厄や忌み嫌われるものを追い払う反し (ケーシ) の役割を担った七体の石獅子が、かつての喜友名集落を取り囲むように配置されている。更に明治以降に一つ追加され、合計で8体が残っている。この石獅子群は喜友名観光の目玉になっている。今までに多くの集落で石獅子を見てきたが、これ程多くの石獅子が残っているのは珍しい。今までで最も多い石獅子がある集落だ。(沖縄の集落では最多の石獅子数だそうだ) まずは、この石獅子群を見ていく。


ヒージャーグーフー

喜友名集落の最西端にヒージャーグーフーがある。ケラマゲージとも呼ばれている。この石獅子だけがシーサーではなくこう呼ばれている。グーフーは「高まり」とか「たんこぶ」という意味だそうだ。昔はちょっとした築山の上 (写真右下) にあったからだろうか?この直ぐ東に仲本ヌ石獅子がある。かつては隣の伊佐の一部だったのだが、明治の土地改正の頃に喜友名に編入され、喜友名集落境界線が西に拡張したため、新たな反し (ケーシ) としてこの西南西方向前原ヌ大石 (メーバルヌウフシー) に向けてヒージャーグーフーが置かれる様になった。


仲元 (ナカムトゥ) 前の石獅子

かつての集落最西端だった我如古 屋号仲元の角に石獅子がある。1960年代には仲元家後方のガジュマルの木の中にあったのを移している。昔の南南東方向を向いていたのだ、今は南を向いている。


前當山 (メートーヤマ) 前の石獅子

かつては喜友名泉からカービラの坂道を登った上腰憩坂 (ウィユクイビラ) に置かれていた。この道は集落を前村渠 (メンダカリ) と後村渠 (クシンダカリ) に分けていた。この石獅子は長い間行方不明だったが、道路工事の際に見つかり、現在は少し移動させて置かれている。


新トゥルミチ

前當山 (メートーヤマ) 前の石獅子があるカービラからもトロッコ道だったトゥルミチ跡がある。こちらは新トゥルミチというので先ほどの旧トゥルミチより後に造られたのだろう。この道もトロッコ道としては急な坂道になっている。


前ン当 (メントー) 前の石獅子

集落西側外れの路地の奥に石獅子がある。前ン当の屋敷角に南の宜野湾村方面を向いて置かれている。この先は普天間飛行場のフェンスだ。この石獅子が昔は東側に向いていたそうだ。


前真志喜 (メーマシチ) 前の石獅子

昔はこの前の道が宜野湾、神山へ通じており、この石獅子は元々は南方向の神山への反し (ケーシ) としてあったのが、前真志喜 (メーマシチ) の庭に移動している。道の向こうは普天間飛行場になる。


蔵根小 (クラニーグヮー) 前の石獅子

この石獅子だけ集落内にある。この場所に有力者の屋敷があったので特別に置かれたという。現在は駐車場敷地内にある。この場所は大通りからみると突き当りになり、石巌当の代わりに置かれているのかも知れない。元々は南南東を向いていたが今は南に向いている。


伊礼小 (イリーグワー) 前の石獅子

集落の東側外れにあり、石獅子の前は新城への道があり、この石獅子は東の新城方面を向いています。


徳伊礼小 (トゥクイリグヮー) 前の石獅子

横幅1m、高さ80cm以上の大きな石獅子だが、置かれている場所が何度も変わってい るそうだ。始めはもっと集落の内側 (現中道寺前) 付近に北北東に向けてあったのだが、集落の家々が、畑地だった東の方へ増えるにつれ移動して徳伊礼小の西側に置かれ、更に別の場所のブロック塀に移動したが、石獅子正面の民家から向きの変更を求められて、現在位置に移動したという。現在は東に向いている。中道寺はかなり集落内側に入った所にあるので、集落が随分と拡張していったことが判る。



次は集落の御願の場所を見ていく


喜友名のお宮 (合祀所 ゴーシショ)

かつて走っていたパイプライン通り沿いに広場がある。広場には鳥居があり、それをくぐると広場の向こうに祠が建っている。以前は並んで二つ建っていたのだが今はひとつだけになっていた。鳥居から向かって右側の現在残っている祠内は右からノロ、東門、正門、北門、海、泉の拝所ごとに6つに仕切られており喜友名グスクに存在していた香炉が合祀され、それぞれに23の霊石と香炉が置かれている。なくなってしまった左側の祠には、仏穴 (フトゥキアブ) にあった二つの香炉 (男神・女神・泉神) が昭和34年に移設されていた。喜友名グスクは米軍基地 (キャンプ瑞慶覧) として接収され、1955年 (昭和30年) にはグスクにあった拝所の撤収を命令され、当時の宜野湾村長や喜友名区長等が拝所は基地の土地使用からの除外を陳情するが拒否され、やむを得ず、この場所に移したという。

以前あった移設された仏穴 (フトゥキアブ) の写真 (写真上) がある。現在は無くなった場所にひき臼が置かれていた。公民館でこの祠が無くなった経緯を聞くと、西普天間住宅地が返還されたので、もとあった仏穴 (フトゥキアブ) に戻したそうだ。


龕屋跡 (ガンヤー)

これもなくなったしまったいるのだが、慰霊碑に向かって右側にはコンクリートの箱の様なものがあり、これは喜友名の龕屋だった。昔は県道を挟んだ北側のキャンプ瑞慶覧内にあった。木製だったのを1940年 (昭和15年) の紀元2600年記念事業で蒲鉾状にコンクリート製に建て替えられた。建てられて当時は太陽の絵が描かれていたが、死人が多く出て、この太陽の絵が原因というので消されたそうだ。戦後、ここに移されコンクリートで建てられていたそうだ。写真右が以前あった龕屋。龕は朱塗りの輿で赤馬 (アカンマー) とも呼ばれていた。この喜友名村の龕は、大山村と共同で所有していた。龕屋にあった龕は破損が著しく一部分しか残っておらず、宜野湾博物館で保管しているそうだ。(写真右)


無縁墓

慰霊碑に向かって左側にコンクリ―ト造りの建物がある。無縁墓で喜友名集落で縁者がなくなくなった人の遺骨を納めた納骨堂となっている。現在は道具倉庫として使っているそうだ。


合戦庭 (カッシンナー)

ここの広場は合戦庭 (カッシンナー) と呼ばれ闘牛場 (ウシナー) があった場所。喜友名では多くの家で農耕用や食肉用の牛が飼われていた。170-180頭程いたそうだ。余裕のある家では闘牛も飼われ、喜友名では闘牛が盛んだった。以前は5月から9月まで毎月一回、合計で五回この場所で闘牛大会 (マルオーラセ) が行われていたそうだ。更に戦前では5月に年一回の全土から集まり闘牛が開催される合戦 (カッシン) が大盛況だったという。


友魂の塔

闘牛場だった合戦庭 (カッシンナー) には慰霊の碑の友魂の塔が置かれている。以前は無縁仏の納骨堂の反対側にあった (写真右下) のだが、今は反対側に新しく建て替えられている。

第ニ次世界大戦で命を落とした98柱 (県調査では187名が犠牲になったとされている) が慰霊されている。当時の喜友名人口が767人なので、12.5%~24%が犠牲になった勘定だ。この友魂之塔は1959年 (昭和34年) に建立されている。宜野湾むらの中では比較的犠牲者が抑えられた地域になる。喜友名集落には1944年 (昭和19年) 8月には集落に日本軍石部隊約150人が駐留していたが、米軍が北谷へ上陸の前に嘉数高地、前田高地に退き守りを固めていた。その為、米軍が喜友名に侵攻してきた4月2日には日本兵はおらず、フトゥキアブ (約500人)、メーバルガマ (約200人)、ジシチャブー (約150人) などの避難壕で捕虜となり、そこにいた住民の犠牲は無かった。これ以降に起きた住民の悲劇は避難壕にいた住民の投降が日本兵により妨げられていた事から考えると、この日本兵の住民への圧力の有無が明暗を分けている。

戦後、捕虜となった喜友名住民は捕虜収容所に送られ、更に野嵩収容所生活を経て、捕虜となってから2年半後の昭和47年10月頃に喜友名集落への帰還が許され、翌年2月頃には全住民の帰還が完了した。



これで主要な拝所がらみの文化財はほとんど巡り終わったので、集落内で歴史が感じられるスポットを巡っていく。



パイプラインとその標識

戦後米軍は普天間基地へ燃料を送るために、那覇軍港から普天間基地までパイプラインと呼ばれる油送管を敷設していた。その道路がパイプライン通りで、今日も、おもろまちからはそのパイプライン通りを走ってきている。喜友名には伊佐交差点の少し手前から、現在の県道81号線と平行して伸びていた。下の写真にパイプライン通りと県道81号線が写っている。

このパイプライン通りには、当時米軍が設置した標識が残っていた。

この標識を過ぎるとパイプライン通りは南に曲がり、普天間飛行場に向かう。この道沿いにも米軍の残した標識があった。"Unautorized Vehiecles Keep Out" と書かれている。


マジムンドーヤマ

喜友名集落の東側にマジムンドーヤマと呼ばれたところがある。林とその下の窪地を言いたいを指していたのだが、林の斜面には多くの人骨があったという。武士のオバケ (マジムン) が出るといわれていた。また、ここには強盗がいたという言い伝えもある。集落の人たちにはできれば通りたくない場所だったそうだ。 この周辺には多くの墓が見られた。


ウフブタ

先に載せた二つ目のパイプライン標識はシオン幼稚園敷地内にあるのだが、そこにはもう一つ史跡がある。敷地内に大岩がありウフブタとよばれて拝所となっている。以前はシーミー (清明祭) の際にこのウフブタを拝む人がいたという。村でもこの拝所についての詳細は分からないそうだ。


水タンク跡

マジムンドーヤマの南の丘の斜面は墓がいっぱい並んでいたが、その間に水タンクが残っている。雑木林に覆われて全景は見えないのだが、かなり大きな水タンクだ。


徳山門中屋敷跡

喜友名集落の草分け門中で根屋 (ニーヤ) と考えられている。この屋敷内にあった神屋に置かれていた火ヌ神が先ほど訪れた公民館の裏にあった地頭火ヌ神として移設されている。これ以外の喜友名集落の旧家も見たのだが、神アシャギン様な独立した建物の神屋はなかった。これは沖縄南部の集落とは大きく異なる。この集落住民と話すと、近年は門中内のつながりを鬱陶と思う家が増えており、門中墓に入るより、個別の墓を建てるケースが増えているそうだ。宜野湾市は都会化が進んでいることもあり、住民のほとんどは他地域から転入してきた寄留民になっており、昔からの門中文化が薄らいでいるのだろう。


慰安所跡

沖縄戦前にはこの喜友名集落には日本兵が駐屯していた。徳山門中屋敷の近くには慰安所が置かれていたとある。現在は駐車場になっている。ここに慰安所があったと書かれている資料は一つだけあった。それによると1944年 (昭和19年) 8月頃には喜友名部落に150人規模の石部隊が駐屯し、割り当てられた民家に寝泊まりし、空家には慰安所もあって、そこには辻の女性がたくさんいた。それ以外の資料では嘉数あったとかかれていた。公式に残っている慰安所以上に書く集落にもあったのだろう。宜野湾市では、目撃証言などから、嘉数、喜友名、真志喜、宜野湾、神山に慰安所があったとされている。


東島袋家の庭園

旧家の島袋 (シマブク) の四代目の次男が腹 (分家) として家を興したと伝わる東島袋家の敷地内には琉球王国 時代からの庭園が残されている。この東島袋家は喜友名井の新造、修復に係わったとされている。庭は民家の中にあるので、外から写真を撮らせてもらった。


訪問初日は軽い熱中症とスマートフォン不具合で途中棄権で帰路に着いたが、途中、足も軽くではあるがつっている。何回か気分が悪くなり、軽い熱中症の症状が出ている。木陰で休みながら、結局自宅に帰ったのは夜7時過ぎとなった。熱中症対策は取っているのつもりだが、ほとんどの時間は炎天下で外にいるので仕方がないのかもしれない。まだ夏は始まったばかり、先はながい。無理をしない範囲でぼちぼちやっていくしかない。


参考文献

  • 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
  • ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
  • 宜野湾 戦後のはじまり (2009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
  • 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
  • ぎのわんの地名 (2012 宜野湾市教育委員会文化課)
  • 喜友名誌 ちゅんなー (2015 喜友名区自治会)
  • 西普天間住宅地区返還跡地内埋蔵文化財発掘調査概報 (2020 宜野湾市教育委員会)
  • 喜友名貝塚・喜友名グスク (1999 沖縄県教育委員会)