愛のポーズ
愛の反対は無関心である
嫌いなものは非難するが、
本当にどうでもよくなったり愛想がつきると
嫌いだとすら思わなくなる。
これはよく言われている事である。
しかし、
愛の逆は無関心ということは納得しやすいのに
無関心の逆は愛であると言われると
いまひとつピンと来ず
実践できないのはなぜなのだろうか。
これは、
何に対してどのように関心を持てばいいかわからないからだと思う。
人によって価値観もことなれば、喜びもちがう
何をもって愛していると言い
どのようにすれば
大切に思っていることを
相手に感じて貰えるのだろうか。
ここでよく奉仕の実践や
ボランティアでもしてれば。
みたいな回答を聞くのだけれど
すこし雑な答えだなと思う。
それは結局
行為でしかなくて
肝心な心の作法、
愛情の注ぎ方みたいな方法は
表記されていないのだ。
僕みたいに
愛情をかけてもらったはずなのに
その感覚が薄い人や
そもそもこの大切にするというのが
普通にできない人はどうすればいいのだろうか。
ここで先日
子どもの質問コーナーで
「人はしんだらどこへ行くのか」にという質問への
答えがヒントになった。
それは
「自分とは何か。顔も体も変わる。変わるものは君ではない。
心も変わる。君はどこにいるのか。どこにもいない。じゃあ何が死ぬのか。
誰も死なない。どこにもいかない」というものだったのだが
確かに僕らは体や顔や
動くものを生物と捉えて
それを貴方としていて、
肉体に話しかけて、
言葉を交わしているのだが、
この話を当てはめると
僕たちは
「あなた」に話しかけるすらできていないのではないか。
壮大な勘違いが起こっているかもしれない。
つまり、存在を見ることができない。
といってもいい。
だからここで同じく目に見えない
こころや意識をツールとして使うのだと思う。
五感で捉えきれない
あなたを愛するには
見えないあなたを感じようとしたり
出来るかどうかわからないけど
やってみようとする姿勢から
愛が始まるのではないか。
この相手を探そうとする行為が愛で
全く行わないことが無関心である。とすると
まったく相手に意識を傾けない状態なのだから
「確かに無関心だ。」と納得できた。
実際に先ほどの方法を実践してみて発見したのだが
正しく行えば
愛は終わらないという
性質があるのかもしれない。
あなたの見える肉体に
思いをはせる場合、
愛情を言葉で伝えれば、
反応がかえってくるし
喜んでいる様がわかるから
愛が届いた気分になる。
ここで肉体ではなくて
見えないあなたに対して
愛を注ごうと思えばどうなるだろうか。
イメージやこころで大切に思うだけなので
これが届くかどうかはわからない。
反応もかえってこない。
届いているかもしれないが
確かめようがない。
いままで僕は
周りにいる愛情深い人が、
「なぜ滾々(こんこん)と人を思い続けることができるのだろうか」と
疑問だったのだが
彼らは無意識に見えない部分に愛を注いでいたからかもしれない。と思った。
僕、個人の体感としては
届かないからこそ
愛が尽きないのかもしれない。
とにかく不思議な感覚なのだが
やめようという気分にならないのだ。
ここで気づいたのだが
人は目に見える形で愛して
それを目に見える形で失敗するからこそ
「自身に愛がない」と思い込むのではないか。
あるいは、
目に見える形にするからこそ
愛がすり減り、新しく愛を捻出することができないのではないだろうか。
もしくは、愛というのは、
相手に届いたと自分が思った瞬間に
失われてしまうのかもしれない。
うまく言い表せないが、これに近しいことが起きている気がする。
ここで僕がいままで
愛だ思いやりだと思っていたことは
限定的な偽物だったのではないかという気持ちになってきた。
先程の方法を実践しても
感想は人それぞれだろうが、
すくなくとも
「自分は愛のない人間だ」とか
「愛されていないから人を愛することができないのだ」
「薄情なやつだ」という答えにはならないと思う。
人を愛することを
出来なくてはいけないという
愛とセットになっていた緊張や
愛されたいという欲求から
自由になれる。
愛とは自然に
見えないあなたを発見しようとするだけで
沸き上がってくるし、
本当はこの姿勢。
心の中で
愛するポーズをとるだけで
無限に発することができるのではないかと思っていて
現在、検証中である。
しかし、
この作業は非常に素晴らしくて
すごく気楽でかつ終わりがないものなのだから、
僕らはただ作業の中で
見えないあなたを発見しようとするだけでいい。
全く失望がなく
ただ、愛だけがあるのである。
もちろん
すべて見えない形で愛することを実行はできないけど
見える形と見えない形の両方から人を愛することは出来そうな気がしている。