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粋なカエサル

好きな笑い ―江戸の狂歌(太田南畝)―

2018.01.01 23:40

 寛延2年(1749年)生まれの太田南畝は、江戸の狂歌流行の基礎を作った天明期を代表する文人。特に気に入っている彼の作品をいくつか。まずは、酒徒としても名高い粋人南畝(蜀山人)ならではの作から。

   「朝もよし昼もなおよし晩もよし その合々にチョイチョイとよし」

 酒好きならうれしくなる。次は、四方赤良(よものあから)の戯名で作った歌。

   「わが禁酒破れ衣となりにけり さしてもらおうついでもらおう」

   「世の中は色と酒とが敵なり どふぞ敵にめぐりあいたい」  

 ウーン。このどこか突き抜けたドライな茶化し。たまらないね。彼は、王朝歌人の和歌の替歌(パロディー)も数多く作っている。  

   「世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし」(『古今集』在原業平)

   → 「世の中にたえて女のなかりせば をとこの心はのどけからまし」  

   「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」(『千載集』藤原俊成)

   → 「ひとつとりふたつとりてはやいてくふ 鶉なくなる深草のさと」  

 ふっと肩の力をぬいてくれるような、後味のすっきりしたカラッとした笑い。遠くばかり、先のことばかり気にしていた心を身近な世界、今の時間に立ち帰らせてくれるような笑い。五感を静かに目覚めさせるような笑い。こんな笑いが好きだ。あまりに心にゆとりがないと笑えないかもしれないが、シャレ好きの江戸っ子たちはこういう笑いが大好きだったようだ。  

 ところで、太田南畝。本職はというと、幕府の御家人。勘定所勤務として支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚。そんな彼が、山手連と称された狂歌師グループを率い、そこで武士や町人たちの身分を越えた交流が生まれ、さまざまな絵画や文芸が花開いた。武士と町人だけじゃない、上方と江戸、地方と江戸、さまざまな異文化がせめぎあい、磨き合って江戸の文化は生まれ、発展したのだ。今の我々は、江戸以上に異文化に対して寛容だろうか。多様性の共存なくして文化の発展はあり得ないと思うのだが。

 ところで、太田南畝は隠居もせずに75歳まで働き続け、登城の途中で転倒し、それが元で死去。彼の辞世の歌。

   「今までは人のことだと思ふたに 俺が死ぬとはこいつはたまらん」

こんなふうに軽やかに人生を終わりたいものだ。

(大田南畝肖像画)

(北尾政演『吾妻狂歌文庫』)若かりし南畝の肖像

 百人一首のパロディのような仕立。北尾政演(まさのぶ)は山東京伝の浮世絵師として の名

    「あなうなぎいづくの山のいもとせをさかれて後に身をこがすとは」

 恋仲の二人が仲を裂かれて身を焦がす思いを、ウナギが背割きにされて炭火で焦がされるのに託して詠んでいる。うなぎは、 元は山芋だったという伝承がありそれを踏まえている。