諏訪原城
1. 城のデータ
[所在地] 静岡県島田市菊川
[築城年] 1573年
[築城者] 武田勝頼
[遺 構] 土塁、堀、馬出など
[別 称] 牧野城、牧野原城、扇城
[形 状] 山城
[登城年] 2017年12月30日
(※トップ写真:諏訪原城・二の曲輪北馬出の復元門)
2. 城の歴史
遠江攻略を目指す武田勝頼は、1573年に高天神城攻めの拠点として、馬場信春に命じて大井川西岸の牧ノ原台地上に築城させた。1575年の長篠の戦いにおいて武田軍が敗北を喫すると、徳川家康は諏訪原城を取り囲み猛攻を仕掛けて落城させる。その後、家康は大改修を実施し、駿河侵攻の拠点とした。
1582年に武田氏が滅亡すると、諏訪原城の存在意義が薄れ、1590年に廃城となった。その後、城跡は荒れた状態となっていたが、明治初年に徳川最後の将軍である徳川慶喜が駿府に移った際、従ってきた旧幕臣が開墾を行い、一帯を茶畑にしている。
3. 城の見どころ
諏訪原城は、大井川を背後に控える台地先端に2つの巨大な空堀を配置し、その内側に本曲輪、外側に二の曲輪を置く「後ろ堅固の城」である。攻撃のために備えられた三日月堀と曲輪がセットになった丸馬出を多用した武田氏築城術典型の城とされてきた。近年発掘調査により徳川氏によって改修された可能性が大きいことがわかっており、また、城跡の整備も同時に進んでいる。
最寄り駅はJR金谷駅である。ここから城がある高台に上がっていくことになる。まずは駐車場がある城の南西側から行くと良い。駐車場の北側は徳川時代に拡張された大手曲輪があり、南端と北端にはそれぞれ大手南外堀、大手北外堀が残されている。大手曲輪は茶畑となっているが、その一角に「武田方当城主今福浄閑斎戦死墓塚」の石碑がたつ。武田氏家臣で諏訪原城主であった今福浄閑は、徳川軍の攻撃を受けてこの地で戦死している。
(下写真:大手曲輪にたつ今福浄閑斎戦死墓塚)
大手曲輪の東側が外堀を挟んでニの曲輪である。その二の曲輪へ至る土橋の前面には、三日月堀を巡らせた2か所の巨大な丸馬出があり、長さ約100m、幅約20m、深さ約9mの規模を誇る。馬出というよりも一つの曲輪と言った方がよいだろう。二の曲輪の北側前面が二の曲輪中馬出、二の曲輪南側前面が二の曲輪大手馬出である。二の曲輪大手馬出は現在諏訪神社が鎮座しており、樹木が繁茂しているのに対して、二の曲輪中馬出は、よく整備されているのでそのスケール、形状がわかりやすい。
(下写真:二の曲輪中馬出)
二の曲輪中馬出からは細長い土橋が北に延びており、小規模な馬出が設けられている(二の曲輪北馬出)。さらなる馬出の強化を目的に築かれた「重ね馬出」である。この二の曲輪北馬出には、発掘調査で確認された門の礎石から、平成28年に薬医門形式の門が復元されている。
一方、二の曲輪外側の外堀の総延長は約400mで、堀幅は約15~25m、深さ約7~8mと戦国時代の山城にしては圧倒的な規模である。二の曲輪は城内で最大の曲輪であり、北側と南側を仕切る土塁が設けられている。
(下写真:外堀)
二の曲輪から東側に向かうと、本曲輪を取り囲む内堀が見られる。長さは約250mで、堀幅、深さは外堀と同規模である。内堀の堀底にはカンカン井戸と呼ばれる井戸があり、本曲輪南側は水の手曲輪と呼ばれていたことから、城内の飲料水を確保する重要な場所であったことがわかる。本曲輪は東西で土塁により2つに分けられており、東側の方が低くなっている。本曲輪からは大井川、遠くに富士山を望むことができる。
(下写真:内堀)
二の曲輪の南側には、3つの小規模な馬出(南馬出・東馬出・東内馬出)が配置され、相互補完的な機能を持ち、それぞれが連絡することで、重ね馬出を構成していた。このように、複数の馬出が重ねあうことで防備を強化しているのが諏訪原城の最大の特徴である。
(下写真:二の曲輪東馬出)
4. 城のポイント
①東遠江支配の拠点 ⇒武田勝頼が遠江攻略の拠点として築いた城
②巨大な馬出と空堀 ⇒城内に6つの馬出と三日月堀で防備を強化
③復元された二の曲輪北馬出の門