守山城
1. 城のデータ
[所在地] 福島県郡山市田村町守山
[築城年] 不明
[築城者] 田村氏
[遺 構] 土塁、石垣、堀
[別 称] なし
[形 状] 平山城
[登城年] 2014年5月4日
(※トップ写真:守山城・二の丸石垣)
2. 城の歴史
守山城は南北朝時代に田村地域を治めていた南朝方の田村氏の拠点であったが、田村義顕は居城を三春城に移している。1591年に蒲生氏郷の領地となると、守山城は会津若松城の支城となり、家臣の田丸具直が城主となり、この時改修を施したという。
1598年に上杉景勝が会津に入ると、家臣の須田長義、本庄繁長、竹俣利綱が城主となり、関ヶ原の戦いを経て1600年に再び蒲生氏(蒲生秀行)の領地に変わると、家臣の蒲生郷成が入っている。しかしながら、1615年の一国一城令により、守山城は廃城となったと考えられている。
3. 城の見どころ
守山城は黒石川東岸の河岸段丘上に位置する平山城である。段丘の最高所にあたる部分(現在は城山八幡宮の境内)に本丸を置き、一段下がって二の丸、三の丸(現在は守山小学校の敷地内)、出丸を設けた輪郭式の縄張であったという。
城の遺構は何といっても、二の丸に現存する堀と石垣だろう。二の丸と三の丸の間にあたる部分であり、幅25mの堀と、長さ70mにわたって高さ6mもの石垣が積まれている。石垣は草木で覆われてしまってはいるものの、一直線に伸びた塁線と高石垣は実に圧倒的だ。江戸時代の早い時期に廃城となっている割に良好な保存状態である。この遺構は蒲生氏時代の石垣とされており、大小の自然石を積み上げた典型的な野面積である。
(下写真:二の丸石垣)
あと、本丸跡の切岸もよく残っている。現在は城山八幡神社の境内となっているが、二の丸跡側から見るとなるほど本丸は一段高い曲輪となっていたことがわかる。現在は木々で覆われてしまっているが、城が機能していた時代、本丸は周囲の状況を遠望するのに最適だったのではないかと思われる。
(下写真:二の丸跡から本丸跡を見る)
(下写真:本丸土塁)
(下写真:本丸跡にたつ城山八幡宮)
また、守山小学校の北側、道路に面する部分が現状も切岸状になっており、これも三の丸の当時の遺構なのかもしれないが、守山城の詳細な城図面を持っていないのでよくわからなかった。
江戸時代には、水戸徳川家の分家・松平氏が守山2万石を治めていた。守山城の西側に陣屋を築き、陣屋を拠点として代々松平氏が守山を領して明治に至っている。しかし、この守山陣屋の遺構は現在何も残っていないとのことである。守山松平氏は代々江戸定府で、守山には代官が駐在し統治していたという。
4. 城のポイント
①蒲生氏が築いた城郭
②蒲生氏時代に築かれた二の丸石垣と堀
③現在城山八幡神社となっている本丸跡の切岸