三春城
1. 城のデータ
[所在地] 福島県田村郡三春町大町
[築城年] 1504年
[築城者] 田村義顕
[遺 構] 曲輪、土塁、石垣、堀切、藩校門など
[別 称] 舞鶴城
[形 状] 平山城
[登城年] 2014年5月3日
(※トップ写真:三春城・明徳館表門)
2. 城の歴史
三春城は1504年に田村義顕によってそれまでの居城であった守山城から築かれた城である。義顕の孫・清顕の時代には一人娘の愛姫を伊達政宗に嫁がせて、伊達氏の力を背景に独立を何とか保っている。しかし、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置により田村氏は所領没収となってしまう。
1591年、会津に蒲生氏郷が入ると黒川城(会津若松城)の支城となり、その後、上杉氏、蒲生氏、加藤氏、松平氏と入れ替わり、1644年秋田俊季が5万5000石で三春藩主となり、以後秋田氏十一代に渡って三春を統治することになる。
3. 城の見どころ
三春城は阿武隈山地の西側丘陵地に位置し、「大志田山」と呼ばれる城山に建っている。標高407mの頂上部に本丸を中心に据え、二の丸、三の丸、そして北側の曲輪群で構成されていた。二の丸は本丸の西側、三の丸は東側に配置されており、いずれも独立した曲輪となっている。歴代藩主が城郭の改修を都度施しているが、全体的な縄張は、田村氏時代からの中世城郭の色合いが濃く残されており、それでいて蒲生氏時代の石垣なども残っており、なかなか見ごたえのある城郭である。
山あい部に位置する三春町の中心から城山を登っていくことになる。まず、山麓部にある現在の三春小学校の付近はかつての藩主の屋敷があったといわれているところであり、校内には「明徳館」と呼ばれる三春藩の藩校の正門が現存している。秋田氏7代目の藩主によって、藩士の子弟教育を目的に開校された藩校であり、薬医門形式のかなり重厚なつくりの門だ。もともと門があった位置からは移動して保存されているそうだ。
なだらかな登城道を登っていくと、かなり急勾配の切岸が見えてくる。特に本丸下の切岸は角度も勾配も実にきつく、天然の地形をうまく利用していることがわかるだろう。
(下写真:本丸下の切岸)
また、本丸にたどり着くルートは2通りあり、表ルートは曲がりくねった道で、なおかつ数ヵ所の城門跡を突破するようになっている。また、途中で敵の斜面移動を阻むための竪堀が見られる。中世城郭の名残なので、ぜひ確認しておきたい。
(下写真:竪堀)
裏ルートは搦手門、裏門跡を抜けて本丸にたどり着く。一番の見どころポイントは本丸表門跡手前に残る石垣であり、これは蒲生氏時代の石垣と推定されており、実に荒々しい石材が使われた典型的な野面積だ。
(下写真:本丸石垣)
(下写真:本丸表門跡)
本丸は二段に分かれており、西側がかつての二の丸で、その西端には三春城のシンボルであった三重櫓があったとされる。少し周囲より高くなっているのが三重櫓が建っていた場所であったと思われる。本丸の東側は一段高くなっており、江戸時代は御殿があったとされている。残念ながら建造物は何も残っていないのだが、本丸東側の斜面にはわずかに石垣が残っている。注意して見ないと見落としてしまうような遺構だが、斜面の上部を固めていた鉢巻石垣の一種であったと思われる。
(下写真:本丸東側石垣)
4. 城のポイント
①陸奥田村地方を治めた城
②本丸付近に残る石垣、切岸、竪堀など
③三春小学校内に移築された藩校明徳館の表門