髙蔵寺地区の人たちは、自分たちで区画整理を達成した
「泉北コミュニティ」最新号、「泉北ニュータウン むかし物語(7)」(郷土史家 檜本多加三)より
地域に取り残される髙蔵寺地区 ~自分たちで区画整理 ~
泉北ニュータウンに新しい町がどんどん誕生し、都市ガスと下水道が当たり前の町が広がり始めました。しかし、造成区域に入らなかった地域(旧村地域と呼んだりします)には、平成に入ってやっと下水道が完成し、都市ガスはまだ来ていないところが多いのです。
現在、高倉台の一画に、旧村らしい雰囲気の住宅と田畑まで存在するのを皆さんはご存じでしょうか。泉北ニュータウンでは、できる限り立ち退きをないようにしようとの方針で、高蔵寺宝績院と高蔵寺町の区域はそのまま残されることになりました。
昭和40年から41年ごろ、高蔵寺町では「周囲の住宅が高級住宅で都市ガスや下水道が当たり前なのに、我々の所だけが取り残された旧村落の姿では寂しい」ということになりました。府企業局と相談の上、土地区画整理をしようということになったものの、当初は流言などもあって役員総辞職などが起こりました。
しかし造成工事が周囲で始まる中で、「このまま地域が取り残されていいのか」との声が高まり、昭和45年6月に高蔵寺土地区画整理組合が発足。起伏ある山間部の集落だが住宅はできる限りそのままに残して造成し直し、道路などを整備する内容でした。逆に言うと、地域は整備される代わりに、各自の土地が縮小されるうえ、事業費がどうなるのかといった不安もいっぱいありました。
こんな不安を56軒の組合構成員は抱えながら日々を過ごし、約8年後の昭和53年に完成。のちに組合の解散や記念碑建立、記念誌発行にこぎつけた。
高倉台の一画にあり、ニュータウン化した場所に見えながら、旧高蔵寺町の人たちは、自分たちの土地を自分たちの手で区画整理を造成し直した。(「泉北コミュニティ」2017年12月14日号)
老朽化したマンションの建て替え(に必要な、区分所有者の合意形成)が大変難しいことは、よく知られている。
他方で、地方自治体や国に対して、さまざまな思いを抱き、また実際に、具体的な不満や希望を口にする人は多い。
だったら、自分たちでやったらええやん、って思う。「このまち」も「この地方」も「この国」も全部、自分たちのものなのだ。誰か他の人のものじゃない(国際的に、日本はアメリカの属国としてしか見られていないとしても、直接の持ち主が私たちであることに違いはない)。
今の時代であっても、流言、役員総辞職、財産の縮小、事業費その他の不安といった問題は、何ら変わらず起きてくる。人と、人の世とはそういうものだと、私たちは歴史を通して学んだはずだ。そして、それを乗り越えるのは、人の意思と、希望と、信頼だということも。