Okinawa 沖縄 #2 Day 186 (28/05/22) 旧真和志村 (17) Tsubogawa Hamlet 壷川集落
旧真和志村 壷川集落 (つぼがわ)
- 軽便鉄道古波蔵駅跡
- 壷川東公園 (西)、軽便鉄道レール跡
- 壷川東公園 (東)、阿手川井 (アタカガー)、新川 (ミーガー)
- 赤畑 (アカバタキー、赤早田)
- 二区拝所
- 壷川観音
- 壷川神社 (御嶽)
- 下川の神 (シチャカーヌシン、川神)
- 壷川井 (ツボカワガー)
今日は梅雨の間の貴重な晴れ間となった。今後訪れる集落の情報収集のため、沖縄県立図書館に行く。自宅からは4km程なので、徒歩にて行く。先日巡った古波蔵の隣、那覇側にある途中にある壼川集落の文化財の残りを見ながらとなった。
旧真和志村 壷川集落 (つぼがわ)
この一帯は、戦前までは、国場地主の芋畑 (勝良又原) で、民家はなかったという。当時の明かの分布が判る地図を見ても、民家は少ない。軽便鉄道開通前には、与那原、佐敷方向行きの乗合馬車の発着地で、住民の多くは那覇系統で、漫湖内で漁撈を業とする者も多かった。
終戦直後、港湾作業隊に勤務していた壷川住民は本庁管内の壷川に住み、その他の壷川出身者は現在地へ割り当てられた。移動してきた当時は140世帯ぐらいだったが、そのうち元々の壺川の人は10数世帯しか残っていなかった。壷川も戦後は米軍の統制下で立ち入りが禁止されていた。開放されたのは1947年になってからだった。
壷川の人口の変遷を調べたのだが、見つけたデータは不可解なもので、何かの間違いではないかと思う。1960年以前は真和志誌、1960年から1996年までは那覇市統計書、1999年以降は那覇市ホームページで公開している物を使用している。壷川区は区割り変更が行われていない地区なので、行政区変更による増減では無いようだ。各行政区が発行している人口データには、明らかな誤記がある。多分職員がいわれるまま転記しているのだろうが、それが正しいのかは顕彰などはしていないように思われる。ほとんどが数字の羅列で、それだけでは全く意味をなさないのだが、マクロ的に傾向を見るには貴重なデータだが、多分行政でもそれほど活用していないのだろう。このデータでもわかるある程度の傾向は戦後、人口が急増している時期は、まだ那覇市で開放されていない地区の人や、港湾工事で多の人が移住してきたものと思われる。1960年から1996年までのデータが正しいのかは分からないが、正しいとすると、1960年に増加し、1980年代からは激減している。何らかの理由があるはずだが、それは見つからなかった。近年は世帯数も増加しておらず、人口は減少傾向にある。
他の地域との比較では、1944年のデータは間違いと思われる。他の地域より断トツとなっているが、壷川がこれ程人口の多い地区とは考えにくい。1970年代以降は人口はほとんど増えておらず、比較的人口の少ない地域となっている。
壷川の祭祀に関しての情報はほとんどなく、この地域でどのような祭祀が行われていたのかは不明。古波蔵に属していたので、楚辺ノロが祭祀を取り仕切っていたのだろう。壷川集落としてのまとまりがないので、現在では区として祭祀は行われておらず。住民が家、門中単位で行っているようだ。
壷川集落訪問ログ
軽便鉄道古波蔵駅跡
軽便鉄道はこの古波蔵駅で、北に向かう嘉手納線 (古波蔵 - 嘉手納 22.4km) と与那原線 (那覇 - 与那原 9.4km) • 糸満線 (国場 - 糸満 15.0km) に分岐する。下の写真にある道路がちょうど線路跡にあたる。このように、沖縄の各地への起点となった場所として、国場川沿岸に人が集まり、栄えていた。
壷川東公園 (西)、軽便鉄道レール跡
壼川地区の中に壷川東公園がある。この公園は壷川東公園は、壷川住宅地区改良事業の一環で造られている。公園は壷川東市営住宅地の中に二つあり、西側では造成の際に、軽便鉄道のレールが見つかっており、公園内に展示されて残されていた。ここは当時の那覇駅と壺川駅の間に位置している。 当時の軽便鉄道線路は古波蔵大通りから、一本内側に入った通りにあたりを走っていた。線路上には南大東島でさとうきび等を運搬するのに使われていたディーゼル機関車と蒸気機関車が一緒に展示されている。
壷川東公園 (東)、阿手川井 (アタカガー)、新川 (ミーガー)
東側にも公園がある。壷川東公園の東地域になり、ここには壷川東市営団地自治会が置かれている。壷川には区としての公民館は存在しない。地域内には戦前から壷川に住んでいた人は殆どおらず、こちらで言う寄留民 (移住者の事) が殆どだった。(以前、おじいに寄留民かと聞かれた事があった。その時は何を意味しているのかわらず、外人とでも思ったのかと感じたが、寄留民はよそものという意味で、その部落の外から移ってきた人のことと知った。) 戦後、仕事を求めて色々な地域から移住してきたこともあり、集落としてのまとまりはなかったことは想像できる。
この公園はここに造られた団地の公園で、こには井戸跡が二つ残り、その井戸跡を利用して公園の水路になっている。一つは阿手川井 (アタカガー) と呼ばれた井戸。
もう一つは、新井 (ミーガー) で、アタカガーより新しい井戸の様だ。
住宅の中に香炉が置かれた井戸があった。井戸は住宅建設時に造られたか、改修されたのかわからないが、この時期には既に水道は整備されていたはずだ。それでも、香炉を置いている事から、住民の水に対しての信仰が伺える。
壷川東市営団地や壷川東公園は北側背後が険しい丘陵地にあっている。この丘陵斜面には多くの墓群 (フサチ古墓群) や洞窟が残っており、沖縄戦当時は避難壕や数ヵ所の墓を横穴でつないだ日本軍の構築壕として使われていたそうだ。
二区拝所
この丘陵斜面を楚部方面に登って行った所に拝所があった。壷川二区の拝所だそうだ。壷川は戦後にできた地域で、各地から移り住んだ寄留人の地域だった。血縁関係で繋がった門中集落では無い。そのようなコミュニティの結束を図るために造られた拝所ではないかと思われる。
赤畑 (アカバタキー、赤早田)
今は埋め立てられて、姿を消してしまったのだが、この付近は、かつては、漫湖に突き出ていた小丘があり、赤畑 (アカバタキー、赤早田) と呼ばれていた。この付近は赤畑原といい、真和志村字壺川 (現那覇市壺川)の小字地名であった。丘 (ムイ) の上には松が生えており、 奥武山、ガーナー森とともに漫湖の景観に趣を与えていた。丘の中腹は墓が点在し、平地は、対岸の小禄村の人々が耕す藺草の畑だった。沖縄戦後、 急激な人口増加に対応するため、1957年 (昭和32年) 真和志市は琉球政府に対し赤畑から南東側に広がる兼久原地先一帯 (現古蔵中学校に至る国道507号線より漫湖側) 約55,000 坪余の埋立申請を行った。 真和志市との合併 (1957年) により、那覇市は1959年 (昭和34年) 埋立を行い、工場用地・宅地として、区画整理したが、 現在、工業用地のほとんどが漫湖公園となっている。
壼川観音
この壼川地区に関しての資料はなく、情報もごく僅かだった。この様な場合は、とにかくできる限り路地を歩き回る。そうすると、時に、拝所や文化財が見つかる事がある。今回は、壼川観音という拝所を見つけた。インターネットで調べてみて、情報は皆無だった。立派な祠に幾つもの香炉や井戸を形式保存した拝所もある。集合拝所の様だ。であれば、この地域に住んでいた部落の人々が造り管理しているはずだ。公民館があれば、聞いてみるのだが… 二つの祠は「寺」 と「宮」と書かれており、寺の祠の中には金萬の神、火龍の神、風龍の神、水龍の神が祀られている。やはり気になる拝所だ。
壼川神社 (御嶽)
ここは壼川ではなく泉崎地区になるのだが、壼川と泉崎の拝所 (ウタキ) と書かれている。祠の中の霊石には「恵比須大明神 金比羅大明神 大国大明神」とあるので、沖縄の神を祀った御嶽というよりは、本土の神社の神が祀られているので、本土から国家神道の影響が強い時期に造られたのだろうか。
下川の神 (シチャカーヌシン、川神)
先程の壼川神社にこの拝所への道順があったので訪れた。川神と書かれていたが、Google Map では下川の神 (シチャカーヌシン) と表示されていた。この隣が井戸だったので、その川の神を祀っていたのだろう。この拝所も泉崎地区にある。壼川、泉崎の集落住民だけでなく、与儀の人たちも、5月ウマチー、ウガンブトゥチ、6月ウマチー、初ウガミで拝んでいる。拝所の周りには、かつて拝みの対象となっていたのだろう、石柱が6柱置かれている。そのうちの一つには、「中の祝女御世 真呉勢阿母司 申のみふし女世」と刻まれているが、詳細はわからなかった。
壺川井 (ツボカワガー)
壷川地区の文化財はわかる限りでは、全部見終わり、図書館に行き、調べ物をする。沖縄の天気はあてにできないので、長居はせず、帰宅となった。
参考文献
- 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
- 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
- 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
- 歴史散歩マップシリーズ 真和志まーい (1989 那覇市教育委員会文化課)