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「君の名は。」の「すきだ」で泣けた奴

2018.01.04 10:00

───かたわれ時(黄昏時)に、ようやく出会えた瀧と三葉。少し話をした後、瀧は油性ペンを取り出し、三葉の手に何かを書く。

「忘れないように名前を書いておこう」

三葉はペンを受け取り、瀧の手のひらに文字を書こうとするが、一画書いたところでかたわれ時が終わり、瀧の前から三葉は消えてしまう。しかし絶対に忘れやしないと、瀧は三葉の名前を連呼する。ところが次の瞬間、瀧は三葉の名前を忘れてしまったのだ。

それは三葉も同じだった。瀧の名前を心の中で連呼して山を駆け下りるが、転んだ三葉も不意に名前を忘れてしまう。

そうだ、確か名前を書いてくれたんだ、と手のひらを見ると、そこには「すきだ」の三文字があった───



……………ってちょっと待ったあああああああああああああああ!!!!!!


このシーンで「は?????」と思ったあなたは、ちゃんと物語が追えています。えらいえらい。


逆にここで泣けてしまった人。

あなたは自分が何に感動しているのかわかっていますか?????


私は、瀧くんが口噛み酒を飲んでタイムスリップしたところから、かたわれ時のシーンにかけて、ちょくちょく涙を流していましたが、「すきだ」を見た瞬間に一気に冷めました……………。


今までの涙返せ。


その理由を、これから説明していきたいと思います。


最近の映画やドラマがなんとなくつまらないと感じている人。

何でもかんでも泣けてしまう人。

映画やドラマ、舞台、小説、漫画などを鑑賞する上で知っておきたい「物語の構図」を理解して、ワンランク上の鑑識眼を身に付けてみませんか?

「良い物語」の「良さ」を知って、より深く作品を味わってみましょう。



■物語の基本構造

基本的にどんな物語でも、ひとつの共通した構造があります。

それは、


「誰が」「何を」「どうする」


という、物語の「目的」です。この目的をどう達成していくのか、というところを描くのが、物語の基本です。

この「誰が」に当たるのが、その物語における「主人公」になります。


そして、主人公が目的を達成していく上で、そこには必ず何らかの「障害」が発生します。そこに生まれてくるのが「ドラマ」なのです。

ここでいう「ドラマ」は、簡単に言うなら「感動するところ」「泣けるところ」です。

ここが面白い物語が、「良い物語」とも言えるでしょう。



ここで、「君の名は。」について見ていきましょう。


まず、本作においては、

「瀧が」「三葉(と糸守町の人)を」「彗星から救う」

というのが、この物語を動かす「目的」となっています。

ゆえに、本作における主人公は「瀧」です。


あるいは、真の目的は、

「瀧が」「三葉と」「会う」

ことだといえるかもしれません。


それなら、

「三葉が」「瀧と」「会う」

「二人が」「お互いに」「会う」

ではダメなのか? つまり、主人公は「三葉」や「二人」ではダメなのか?


もしこの物語の目的が「会う」だけならば、それでも成立したかもしれません。むしろ最初に達成しようとした目的はそれでしょう。

しかし、途中で「彗星から救う」という別の大きな目的が判明します。そしてこのことを最初に知り、救うための行動を起こしていくのは、三葉ではなく瀧の方です。ここで「瀧(主人公)→三葉(目的の対象)」という構図がハッキリし、瀧が主人公であるといえるでしょう。

(ちなみにデジタル放送の字幕を見ると、黄色=主人公になっているのは瀧のセリフです)


では、「彗星から救う」のと「会う」のとでは、どちらが主目的なのか?


これは、「会う」方だと思います。

「会う」という主目的を達成する上で生じた(判明した)障害が「彗星」であり、「三葉(と糸守町の人)を彗星から救う」という、「主目的のための目的」が発生したと言えるでしょう。


また、彗星の事件が解決した後も、「忘れる」という障害によって、二人は「会う」という目的をなかなか達成できなくなります。

そして映画は「会う」ところで終わるので、やはり最大の目的としては「会う」ことになるのでしょう。


このように、目的が複数重なることは珍しいことではありません。むしろそうした重なりが、物語に深みを与えていくことになります。

主目的のための小さな目的の集合体が、物語であるとも言えるでしょう。



■ドラマとは

「ドラマ」は、物語の目的を達成していく上で発生する「障害」によって生まれます。

その「障害」をいかに乗り越えていくのか、という「過程」の上に、「ドラマ」は生まれるのです。

その過程が大変であればあるど、目的を達成したときの感動は大きくなります。

逆に、どんなに大きな障害でも、それを乗り越えた過程が見えてこないと、感動には繋がりません。

つまり、「感動的な話」というのは、何らかの目的を達成する上での障害を乗り越える、「大変な過程」の話、とも言えるのです。



「君の名は。」におけるドラマを考えていきましょう。


本作の主目的は、「瀧が三葉に会う」ことです。その上で生じた障害が、「3年前に彗星が落ちて三葉は既に死んでいた」です。三葉の死を食い止めるために、瀧は口噛み酒を飲み、3年前の三葉と入れ替わります。


そして彗星が落ちる直前、かたわれ時に二人は「会う」ことに成功します。目的を達成した場面なので、ここは一つの大きな感動シーンです。


ところがその直後、二人はお互いの名前や、果ては存在自体を忘れてしまいます。つまり、「彗星が落ちた後で再び会う」という次の目的が出来たところで、それを阻む障害が発生するのです。


この後、「彗星から救う」という目的もなんとか達成されますが、同時に生じた「忘れる」という巨大な障害のために、救ったことに対する感動は薄れています。

しかし、彗星から救うことは主目的ではないので、ここに大きな感動がなくても問題はありません。


「何かを探している」ようなモヤモヤした感覚を抱いたまま5年が過ぎ、やがて二人は東京の街角で再会します。主目的を再び達成した、最後の大きな感動シーンです。


もちろん、人によって感動するところは違うでしょう。観た人の背負っている人生によって、感動するところや、感動のしかたは変わるのです。

先述での「感動シーン」は、物語の構造上仕掛けられた「ドラマ」というふうに捉えてください。つまり、大きな障害を乗り越えた「結果」のシーンということです。

もちろん、過程があってこそのドラマですから、その過程で泣けるのも当然アリです。



■「すきだ」で冷めたワケ

さて、ここからが本題です。

先ほど、感動するところは人によって違うと言いましたが、この「すきだ」は果たして感動に値するシーンなのでしょうか。


このシーン、一見すると「瀧が三葉に想いを伝える」という目的を達成した感動的なところです。

しかし思い出してください。

瀧が三葉に好意を寄せ、思 い 悩 ん で い る 描写があったでしょうか?


私は、「感動的な話」すなわちドラマというのは、「何らかの目的を達成する上での障害を乗り越える、『大変な過程』の話」だと言いました。


「目的」「障害」「過程」


この三つがドラマには必要不可欠なのです。


こと恋愛においては、思い悩む「過程」というのが外せません。葛藤ともいうでしょう。

よくあるのは、「手を繋ぎたい、でも繋げない」「告白したい、でも振られたらどうしよう」「自分の気持ちに気付いてほしい、でも振り向いてくれない」などなど。

「○○したい、でも△△」みたいなものを葛藤といいます。恋愛においては、○○の部分が恋愛に起因するものになるわけです。


ところが、瀧にはそのような様子が全く見られませんでした。それどころか、 誰 が 見 て も 明 ら か に「三葉のことが好き」ということがわかる描写が一切ありませんでした。

つまり、「過程」どころか「目的(好きだから告白したい)」さえ描かれていなかったのです。


そんな中突然現れた「すきだ」の三文字。物語の中の情報だけ追っていけば、

「瀧が三葉を好き」ということは、ここで初めて判明するのです。

初めて判明した事実に対して感動しろというのは、どう考えても無理があります。だって感動は、「過程」を経て生まれるものなのですから。


「すきだ」で泣けた人。

特に違和感のなかった人。

すなわち

「瀧が三葉を好き」という風に思っていた人。


それはただの思い込みです。


「高校生の男女が主人公だからこれは恋愛があるんだ」

という、勝手な決め付けに過ぎません。


恋をしている描写が一切無かったこの物語は、恋愛ドラマですらないのです。



ただし、ここで勘違いしてもらいたくないのは、「瀧が三葉を好き」になること自体には、何も問題はないということです。むしろ、あれだけ特殊な体験をしたのであれば、恋をするのも無理はないと思います。

問題は、

「誰が見てもそれとわかる描写が無かった内容で感動させようとしたこと」

なのです。


これは、書き手による描写の放棄です。


では、どうすれば良かったのでしょうか。


考えられる解決策は二つです。


①瀧が三葉を好きだとわかる描写を入れる

②瀧が三葉を好きだということを、「すきだ」を含めて一切描かない。


どちらにも良い点悪い点があります。


①の場合、「すきだ」でドラマが成立するので、感動シーンを増やすことができます。恋愛というのは人々の共感を得やすいので、感動を誘うのには大変有効です。

ただし、瀧が恋をしている描写を入れると、その他の描写が濁る可能性があります。特に本作は、一般的な物語に比べると、「目的」の判明までに時間をかけているので、描写の濁りは作品の面白さそのものを損ないかねません。


②の場合、「瀧が三葉を好き」という事実そのものの判断を、観客に委ねることができます。見る側も想像力を掻き立てられ、作品を長く味わうことができます。

ただし、「すきだ」に変わる言葉を考えるのが難しくなります。あそこで本当に名前を書いてしまったら、その後の「再会したいのに思い出せない」というドラマが成立しないので、それは物語の魅力を大きく損なうことになります。よって名前は書けません。

かといって、あの短時間で書けることとなると、その内容はかなり限られてきます。しかもそれを見て、感動が誘えないといけません。これはかなり難しい問題です。


私だったらこうします。


まず①の場合。口噛み酒を飲むシーンを利用します。

監督も意識したそうですが、口噛み酒を飲むことは、「間接キス」を連想させます。

もし本当に瀧が三葉を好きならば、彼はそのことを意識せざるを得ないでしょう。しかも奥寺さん絡みの話からわかるように、彼は恋に奥手です。三葉を助けるためとはいえ、口噛み酒を飲むことに何らかの葛藤は生じるはずでしょう。

(実際の映画では、瀧はおそらく三葉を助けたい一心で飲んだため、三葉が『あれを飲んだの!?』と恥ずかしがったとき、瀧はきょとんとしていました。何が恥ずかしいのかわかっていなかったのです)


あとは、奥寺さんとのデートも描写のポイントになったでしょう。映画ではかなり緊張していた様子だったので、あの時点では奥寺さんのことが好きだったのではないかと思われます。もし三葉に気持ちが移り始めていたのであれば、もう少し違う反応になるはずでしょう。


②の場合。名前を書くシーンを少し変えます。

<ペンを取り出す→「名前を書こう」と言う→瀧が一画書いたところで三葉が消える>

そうすれば、のちに三葉が手のひらを見たときに、瀧の書いた一本線が目に映ります。しかし、その一本線だけでは何と書こうとしたのかわかるはずもなく、「名前が思い出せない」ということの悲しさがより一層際立つでしょう。そしてこのときの悲しさが、ラストの再会をより感動的なものにするはずです。

観客にも、「何と書こうとしたのか」という想像を膨らませることになるので、作品に奥行きを与えてくれます。



■観客に委ねていいコト・ダメなこと

観客に判断を委ねるという手法は、昔からよく使われているものです。ただし、やり方を間違えると、それはただの「描写の放棄」になってしまいます。


基本的に委ねていいのはこの二つです。

①物語の目的やドラマとは関係のないこと

②材料を十分に与えたこと


①は、「君の名は。」で言うと、「宮水家の歴史」とか、「友人の気持ち」とか………この映画はそういう要素の塊でしょう。実際、ちょっと調べれば多くの人が様々な考察をしています。

しかし、いずれも「物語の目的」や「ドラマ」そのものには関係がなく、話の筋を追っていく上では必要のない情報です。これらは物語の世界観に奥行きを与えるための要素なので、初見で観ている間に理解ができなくても問題はありません。何度も反芻して考察を深め、味わうものです。


②は、「入れ替わっている間に何をしていたのか」とか「どうして糸守町の人たちの避難が間に合ったのか」あたりでしょうか。周りの人の証言や状況などから、描写されていないことを推察させるものです。

ものによっては、物語の結論そのものを観客に委ねることもあります。

ただし、そのためには十分な材料を物語内で与える必要があります。「伏線」とも言うでしょう。その材料が不十分だと、それは「描写の放棄」になるのです。

「すきだ」がダメな理由は、「瀧が三葉を好き」ということを、材料を与えないまま観客の判断に委ねていたからです。


ちなみに、「どうして糸守町の人たちの避難が間に合ったのか」というところについては、少し材料不足だったように思えます。

まず、学校で3人で作戦会議をしたとき、もうちょっとだけ初見でもわかりやすく作戦を説明して欲しかったなということです。無線マニアならすぐ理解できたでしょうが、普通の人はいきなり専門っぽいことを言われても、作戦の概要を理解できません。後の作戦実行のシーンまで疑問を引きずることになるので、もう少しだけ親切な説明が欲しかったです。


もう一つは、「彗星が割れてから落ちてくるまでに、避難が間に合うほどの時間があるように見えなかった」という点です。

というのも、彗星が割れて降ってくるシーンは、前にも一度見ています。そのときにかかった落下の時間を基準に見ているので、二度目のときはもう間に合わないと思えてしまうのです。

おそらく、「三葉(本人)が父親のところに行」ったシーンから、「彗星が落ち」たシーンの間には、避難が間に合う程の時間があったのでしょう。しかし、父親のところに行った時点での彗星の様子を見ると、一度目の落下のシーン的に、時間が無いように見えてしまいました。だからこそ「?」が浮かびやすいのだと思います。

一応彗星の落下は、この物語を動かす大きな事件でもあるので、その結果の描写としては、やや不親切だった印象があります。



目的の達成やドラマといった、物語の根幹に関わることについては、決して観客を置いてけぼりにしてはいけません。一旦置いていかれると、その後の話が入ってこなくなり、観客の心が離れてしまいます。これは物語を書く上で必ず避けなければいけないことです。

物語の中で描かず、観客の中に材料を求めていないか。物語を書くときは、十分に注意しましょう。



■「君の名は。」の味わい

色々悪いことは言いましたが、基本的には面白い映画です。本当に、「すきだ」のところさえちゃんとしていれば、良いドラマだったと思います。


映像や音楽、演技など、魅力は多々ありますが、脚本的な面でいうと、この映画の面白さは、特に前半部分にあると思います。


普通、物語は目的が序盤ですぐにわかります。たとえば「シン・ゴジラ」だったら、「日本政府(矢口)がゴジラをどうにかする」という目的が、かなり最初の方でわかります。


ところが「君の名は。」は、「瀧が三葉(と糸守町の人)を救う」という目的が、かなり後になって判明します。むしろ、その目的を推理していくことに、この映画の面白さがあると言えるでしょう。


周りの人やものについても、深く考察したくなるような材料が沢山散りばめられています。世界観の奥行きがとても深い作品なのです。だからこそ、この映画はリピーターを増やし、大変なロングランとなったのでしょう。



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「すきだ」さえ無ければなぁ……………。

いや、恋愛の描写というものに対して、もっと慎重であってくれたらなあ……………。


恋愛というのは共感を得やすく、「目的」「障害」「過程」が描きやすいので、ドラマを生む上でよく使われます。

しかし、だからこそ丁寧に描かなければならないのです。

「先輩が好き→告白した→即OK!→一生ラブラブ♡」

なんて話は全く面白くありません。もはやただのノロケです。

「先輩が好き→でも自分のことなんか眼中にない→どうすれば振り向いてもらえる?→嫌われちゃったらどうしよう!」

といった、障害や葛藤なしに、面白い恋愛ドラマは生まれないのです。


それができないのなら、初めから恋愛を絡めて描くべきではありません。



ただし、唯一 瀧と三葉の恋愛要素を考えてもいい部分があります。

それは、「三葉は瀧のことを好きなのか」ということです。

なぜ三葉方面からは考えていいのかというと、三葉は主人公ではないからです。三葉が瀧を好きか否かは、話の目的には関係がありません。しかも、三葉の気持ちについては、作中で具体的な結論を出していないので、ここは想像して楽しんでも構わないのです。


ていうか瀧側もそうすべきだった。



■まとめ

長くなりましたが、私が冷めた理由はお分かりいただけたでしょうか?

ざっくりまとめると、


・物語の基本構造は

 「誰が」「何を」「どうする」

・ドラマ(感動するところ)は

 「障害」を乗り越える「過程」にある

・瀧が三葉を好きな描写が一切無かったことが問題(好きであること自体は問題じゃない)

・材料(伏線)を観客の中に求めてはいけない


こんな感じでしょうか。


こういった物語の構造などを踏まえて鑑賞すると、話の見え方が変わってくると思います。

書く人も、見る人も、「なんとなく」ではない、本物の感動を与え、味わうことができるようになると、世界が少し豊かになるかもしれません。




最後までお読みいただき、ありがとうございました。


【追記】

「三葉の手に触れて、瀧は急に気持ちが溢れてきてあの言葉を書いた」? 笑わせるな。

だとしたら、その手に触れたときの瀧の表情を印象的に描写しないとそれは伝わらないと思います。私の記憶では、特にそういった心の動きもなく書いていたように見えました。


だって奥寺さんとのデートであんな調子だった瀧が、クールにそんなことできるわけないじゃん。仮に女慣れした人でも、「急に気持ちが溢れてき」たのなら、絶対に何かしら顔に出るはず。


これは、ただの言い訳です。ぼくは認めない。