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先斗町通(旧名:『新河原町通』)

2017.11.09 06:02

先斗町というまちは、1610年~14年に角倉了以によって高瀬川が鴨川右岸(河原の西縁)に開削されたことによって木屋町(木ヤ丁)通が出来上がり、そこから鴨川に向けて東側に新地造成されたことによって出来上がります。そして、現先斗町通(当時は新河原町通)ができ、そこからさらに東側に鴨川に向けて新地造成されて現在のような土地になりましたので、江戸初期には新地として栄え始めていたとおもわれます(京都市歴史的風致維持向上計画に記載されていることと違うことを言って恐縮ですが)。

その名残かどうかはわかりませんが、現在でも、通りの西側側溝(通りとの境界線)はきちんと整地されたなごりか、案外直線的なのですが、通り東側側溝(境界線)は、西側境界線に対してかなりがたがたしていたり、湾曲していたりします。

推測ですが、通り東側区域は、高瀬川・木屋町の整地に対し、鴨川の蛇行にあわせて町割りがされたことにより、このようなでこぼこが発生したのだと思われます。

写真にみていただけますように、上田梅さんから南の山とみさんではいちど東に後退し、湾曲し始めます。おなじくもみはさんあたりから大當両さんあたりの部分も同様です。グーグルアースででもみていただければ今でもそうなのすが、その後退湾曲開始箇所は、たいがい鴨川がぐっと南西流化する箇所です。つまり、南北に直線的な先斗町通ですが、京都の鴨川というおおきな自然の中に自然な形で形成されていったことがよくわかります。

ちなみに京都市歴史的風致維持向上計画では、1670年の寛文の新堤築堤に伴い先斗町という新地が形成されたとされていますが、そうであるとすると、鴨川護岸形成後に宅地化されたということになり、鴨川の自然の流れをこのように繁栄したような通り形状とはならなかったのではないでしょうか?(あくまで推測ですが)。