姉さん
私が姉さんと呼ぶ女は
本物の女だ
煙のような身の揺らがせ方が男を黙らせる
醸し出す雰囲気が男を捉える
煙のようだから
名残がねえ
消えてなくなるように映るんだろうな
煙の様だから男は掴みてえって縋る
男はいつの時代であったとしても
掴まれることを好まず
掴めないものを好む
煙何ていうものは
男にとってはかっこうの獲物だ
獲物であっても 無限に掴めねえ
架空の生きたものを追う姿ときたら
どっちが煙なのか分からねえ
滑稽だな
姉さんは私よりも六つ上だ
私がここへ来て大姉へ頭を下げた時
私に目をかけてくれたのが姉さんだ
ここへ来た時
私の年かさは他の娘より上だったが
箍の外れ方に大差違いはなかった
幼かろうが年上だろうが
此処へ来るものは
皆同じ反応をする
どうにか抑えつけていた恐怖は
安堵の中
同じように暴れ出す
生きるために賭けた自分は
安堵の中
現れるようになってんだ
私がここの門を潜った時も
尊子の見せた姿と全く同じだった
「皆同じだ」
そう後に姉さんが言っていた
今の私にはその意味が分かる
門を潜った娘は皆同じ‘道’を通るのだ
冷たい廊下に出た時
火が付いたように私は暴れ出した
何故暴れたのか私には分からなかった
意思とは裏腹に
体が勝手に暴れ出す
生体反応の様に動き出す
姉さんは
私が尊子にしたことと同じようにした
私の体を壁へ押さえつけた
自然に捲れた左手の袖からは 白く細い腕が現れた
その力は
その腕からは想像がつかない
私は驚きと何が起きたのか分からず
叫ぶために吸い込んだ空気は肺へ送られ
黙ることを 強いられた
姉さんは
私に顔を近づけた
鼻先が触れるくらい近づいた
そして
「今は泣くな」
そう無いような声で言った
無いものが私を
さらに
黙らせる
姉さんと私の呼吸音だけが
空間を占領した
「私はあんたを悪い様にはしねえ
約束する」
そう囁いた
私はその気迫に頷いていた
心の何処かで
この女が嘘は
言っていないことが 分かったんだ
私の落ち着きを確認したら
姉さんの抑え込んでいた腕の力が緩んだ
私は涙を落とす間もなかった
やると決めたならやる
踏み入れたなら 泣き言は吐くな
冷静さを取り戻した中
此処へ至る道中 繰り返した言葉も
同時に
取り戻し始めた
あの
私が戻ってくる
創った私が私に重なる
今は
目の前に居る
この女の発した言葉だけを
信頼することにする
交わる視線に
無言の駆け引きが結ばれていた
契りだ
この女は私に
‘悪い様にはしねえ’
そう言った
だから私も誓う
その言葉に
私の出来る限りの信頼を差し出してやる
言葉に偽りがないのであるならば
私もあんたさんが思う様に
あんたさんにとっての悪い様にはしねえ
この身をあんたに 預けてやる
見えない信頼に基づく契りだ
そこに言葉なんてない
そこに言葉にする感情もない
在るのは両者に対する
寡黙の信頼だった
私は姉さんの後ろをついて歩いて行った
大きなふすまの前へ連れて行くと
私の方へ顔だけを向けた 視線は合わない
合わせようと
敢えて しねえ
「無駄は言うな
愛想は振りまく必要もねえ
ただすぐ名乗れ」
冬の隙間風の様な言葉を私に吹きかけた
「始まりが肝心だ」
私は頷いた
それを見計らって
姉さんは扉を開けた
そこに広がっていたのは
見た事のない世界だった
何十もの女が居る
女の持つ独特の匂いが鼻を劈く
一斉に向けられる視線と
真っ赤な紅が浮かび上がって
私の目に飛び込んでくる
一瞬ひるんじまった
「名乗れ」
姉さんは小さく言った
その言葉は
ひるむな
そう伝えている様だった
「久子と申します
今日から宜しくお願い致します」
私は跪き頭を床に付け挨拶をした
「宜しくね」
「新人さん」
声が聞こえてくる
「邪魔くせえ」
「下品な娘」
横槍の様に 赤い紅の本音も聞こえてくる
姉さんは私の横に付いてくれていた
「まだだ 上げんじゃねえ」
小さく教えてくれた
私はずっと頭を下げていた
「あげな」
姉さんの声で頭を上げた
私は辺りを見渡した
女達は既に自分らの事を始め
私の存在を誰も気に留めていない
大きく息を吸った
一人女が近寄ってきた
「久子ちゃんっていうのね 宜しくね」
そう言うと笑みを見せた
「この娘は雪子 せつこという 雪子は優しいから 大丈夫だ」
姉さんがそう言うと
「いやあね 姉さん 優しいだなんて」
雪子は恥ずかしそうに笑った
右手で口元を隠しながら笑った
「久ちゃん
ここはね 姉さんが居てるから
他の所よりよっぽどいい」
雪子はあからさまに耳打ちした
「他の所なんて 身ぐるみはがされて
病気をうつされて 殺されても
誰も何とも思わない 誰かが死んだって
誰も気を留めることもないの」
雪子はため息とともに
唇をきゅっとつむった
その言葉に姉さんは何も言わない
「とにかく
始めは大変だろうけど 頑張ってね」
雪子は私にそう言葉をかけると離れて行った
外は昏くなってきた
女達はいそいそと
木蓮格子の周りへと身を寄り添わせ始めた
襟を正す女もいれば
わざと襟をはだけさせる女もいる
鎖骨が見える様に
着物を肩元から落ちる限界まで
引っ張っている娘も居る
前へ前へと出ていく娘
木蓮格子にへばりつく娘もいる
夜が地に落とされる時
女達は自分の持ち得る最大限の価値を
男達の目の止まるように
格子の内側から醸し出そうとする
女の本能が月の上りと共に頭角を現す
私は彼女達の変容姿を眺めていた
「始めてみる女達だろ」
声がして私は横を向いた
姉さんだ
姉さんは私の方を見ないまま続けた
「これがここに居る女達だ
ここを生きている女達だ
こうするほか 選択肢がな活発た 女達だ」
私は姉さんの言葉を聞きながら
女達を見つめていた
「ここに来た女達は
好きで来たんじゃねえ
それぞれの理由があって
来なければならなかったんだ
なあ あんたも同じだろう
誰も望みやしねえ
見てみ
あんな姿を晒している 女達だってな
ここへ来たときは あんたと同じ
震えて泣いていた 夜を怖がって泣いた
お天道様が憎い
そう嘆いていた幼い娘もいた
いつ終わるか知らねえ 未来に飲み込まれ
自ら首を裂くものも居た ここ居る女達の命運は男にしか託せねえんだ」
「そんな理不尽な事あるか?」
姉さんは初めて私の方を向いた
姉さんの視線と私の視線が重なり合った
私は首を振った
姉さんの瞳の中に‘感情’が見えた気がした
姉さんは はっとした
「あんたには」
ふと姉さんの口元がほころんだ
「話すにはまだ 早かったな」
つい話してしまったのかもしれない
昏さが増す度に
此処に居る女達の握られている命運
その理不尽さを感じているのだろう
彼女達の姿を見ながら
「どうにかしてやりてえ」その思いを押し殺し続けているのだろう
野次を飛ばす男の声を
女達は毬のような言葉で投げ返す
私は先程声をかけてくれた
雪子の姿を探した
格子の傍には見当たらないからだ
雪子は格子から少し離れた右側に居た
格子に顔は向けてない
背を向けて座っている
時折外を確認するようにチラッと見る
買いたければ買えばいい 外に出られなくても構わない
他の女とは違う女
そう眺めていると
一人の女の声が際立って聞こえてきた
「ねえ 殿方様 私と遊びましょ」
「ね 殿方様 私を」
「選んで」
女は格子を両手で掴み、
半ば縋るように外へ向かって声をかけている
泣き声にも聞こえる叫びは
「お願い お願い」
そう繰り返される
細い手を格子の間から外へ出して
手招きをしている
むなしく響き渡る声は
何処へも行きつく先が見当たらず
四方に飛び散っている
ぞっとしちまう
外を歩きゆく男の目線になると
縋る姿が 伸び行く腕が まるで妖怪の様に見えたからだ
生きているのに 生き物には見えねえ
生かされ続ける
化けもん
「お願い お願い」
繰り返される言葉は生きたもんの声じゃねえ
私の体が強張るのを感じたのか
姉さんが言った
「壊れる女もいる」
壊れている女
哀れなほど自分の命運を男にかける
命運を司る権利は
自分には一欠けらもない
なりふり構わず縋るだけが
あの女の唯一の救いだと彼女自身が信じ切っちまってる
ここから出るには男に買われることだけだ
その心情が現実を創り出す
ここでは縋りつく心情を間違えると
現実に亡霊として在る事になるのだ
「あんたを ああにはさせねえよ」
姉さんは独り言の様に言った
私の命運はどこにあるのだろうか
姉さんは命運を
どこに置いているのだろうか
隠しているのだろうか
喉の入り口まで尋ねてしまいそうだったが 吐き出すことなく飲み込んだ
女の声と男の声が入り交ざる
姉さんは
「これから何年かあんたはな ここの女として創り上げられる 目の前に在る事だけを
こなしていくことになる
男と言う客の前に出されるまでに
通り過ぎなきゃならねえ道があるんだ」
そう言うと
私の方を向き‘行くよ’という様に
あごと目で合図した
私は無言のまま姉さんについて行った
小さな部屋に着いた
そこには白い布団が敷かれていた
「慣れるまで あんたはここで寝る そのうちに 大部屋に移る事になるからな」
姉さんは言った
「今晩は寝とけ」
私は姉さんに頭を下げた
姉さんが部屋の扉を閉めるまで
そうしていた
私は格子のはまった窓を見た
小さな窓にまで格子が付けられている
逃げないためか
格子越しに外が見えた
誰も通っていない
この部屋は裏道に面していると分かった
星が二つばかり見えた
「ここから見る星とお父とお母の家から見る星 同じだ」
安堵を覚えた
いつかお父が言っていた
「自分たちが星を見上げる時 星もこっちを見ているんだ」と
「考えないとならないのは
自分と対するものが在るのならば
限りなくお互いに影響し合っている事だ
人間と星と言う
遠い距離の在る者同士であっても
星だけがお前に影響を与えているわけじゃあない
お前も星へ影響を確実に与えているんだよ」
お父は頭が良かった
何より
困っている人が居ればほっとけない
優しいが故に
時に騙されもした
遠回しになるが
私がここに居る理由だ
だからと言って
私には恨みはない 憎しみもなければ 怒りもない
起きた事は仕方がねえ
そう無理矢理に切り替えたのかもしれないが
誰も恨んじゃいねえんだ
私は窓から離れた
そして、冷たい布団に入った
眠れるはずはなかった 疲れた体とは裏腹に意識だけが眠りを拒否していた
でも
丁度良かったのかもしれねえな
こんな布団
涙で濡らしちまっていたら
お天道さんに
なんて言われるか分からねえ
私は
意識が許す範囲で想いを巡らせていた
初めての夜はこうやって過ぎて行ったんだ