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吉田茂 ポピュリズムに背を向けて (上)(下)

2022.06.05 04:43

        吉田 茂は、第二次世界大戦後の日本と連合国諸国の間で締結されたサンフランシスコ講和条約に署名をした日本国首相で、この講和条約締結により、日本は独立国家への復帰を果たします。また、その講和条約署名後、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(日米安保)を結んだ首相でもあります。


  茂は、1878年(明治11年)9月、高知県出身の自由民権運動家の板垣退助の腹心、竹内綱の五男として東京神田駿河台(のち東京都千代田区)に生まれます。実母の身元は、はっきりせず、一説には剛と芸者との間に生まれた子とも言われています。茂は、父、剛の親友で実業家の 吉田健三の下へ養子として出されます。茂が11歳の時、養父・健三が40歳の若さで死去。この時、茂は莫大な遺産を相続します。当時、華族の子弟などを外交官に養成するために設けられていた学習院大学科に入学。1904年(明治37年)無試験で東京帝国大学法科大学に移り、1906年(明治39年)政治科を卒業、同年9月、外交官および領事官試験に合格し、外務省に入省。当時、外交官として人気があったのは欧米勤務ですが、茂は、外務省勤務の大半を中国大陸で過ごします。茂は、中国政策においては、当初は日本軍の方針を支持していましたが、その後、軍の中国武力制圧に対し、距離を置き独自の外交路線を主張します。また、イギリス赴任後は、親英路線を取り日本の対米開戦阻止に力を注ぎます。


  1931年には駐イタリア大使に任命されます。英米国との関係を重視していた茂は、当時急速に軍事力を強化していたドイツとの関係構築に熱心だった日本の軍部から「親英米派」とみなされます。1936年(昭和11年)の二・二六事件から2か月後に駐イギリス大使となった茂は、駐英大使として日英関係を強く意識し、戦争回避の方向を目指します。極東情勢の悪化に伴い軍部はドイツ、イタリアとの関係を重視し、日独伊三国同盟の構築を画策しますが、茂は強硬に反対します。しかし、1939年(昭和14年)待命大使となり外交の一線からは退き、その後は政界へ進出することになります(政治家としては遅咲きの68歳で政界に進出)。


  1946年(昭和21年)5月、日本自由党総裁鳩山一郎の公職追放に伴う後任総裁への就任を受諾。内閣総理大臣に就任します。(茂はこの後、紆余曲折を経て4回にわたり内閣総理大臣に任命されるのですが、5回にわたって内閣総理大臣に任命された政治家は、これまで 吉田 茂ただ1人。内閣総理大臣在任期間は2616日に及びます。


  このように、吉田 茂という政治家は、外交経験を武器にして、日本の政治を牽引していった政治家ですが、その政治家としての努力は、サンフランシスコ講和条約署名という形で結実します。しかし、現代の日本人の視点から吉田茂という人を評価する時、当時の日本人の彼の評価と比べて、どうしてもマイナス評価が付いて回るような気がします。理由としてよく言われることは、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部) 主導の下に日本国憲法改正がなされてしまったこと、また、講和条約署名と同時に日米安全保障条約に単独で署名したことなどで、どうしても「米国従属」のイメージがつきまとっているためだと思います。確かに今の日本人の政治的無関心や現代の日本を取り巻く外交問題の無関心さも、もとはといえば「従属関係」とも受けとめられる日米関係、つまりアメリカに日本の安全保障を肩代わりしてもらい、一方日本は、その地政学的な利点を利用しアメリカとの友好関係を最大限に享受し経済成長を成し遂げたため、特に近年では国の独立自尊ということを国民が考える機会がなかった、ということも原因であるかも知れません。


  しかし、歴史というのは、常に見る時点で評価が変わるもので、当時の日本の状況で、吉田茂という人を学ぶと、当時の日本の将来を一番に憂い、他国の従属関係からの早期の脱却や日本の独立を一番に祈念し、そのため国際関係回復の最前線に立って尽力していた政治家であることもわかります。公職追放など理不尽なGHQの政策の合間を縫って行動した優れた政治感覚、「吉田学校」とも比喩された池田勇人や佐藤栄作ら若手リーダーの育成、そして何より、強いリーダーシップで成し遂げた「日本の独立」という彼の成果は現代でも再評価されるべきだと感じました。


  吉田 茂という人は、根回しをせず独断で行動することもたびたびあり、また、外交官時代には、外国語の習得にはあまり熱心ではなかったという変わった面もある人でした。また、ふくよかで小柄な体格(身長155cm)と大の葉巻好きということで「和製チャーチル」とも言われました。ドイツのヒトラーと対峙し、ナチズムと果敢に戦ったイギリス首相チャーチルですが、第二次世界大戦後は急速に母国で支持を失い、世界政治の表舞台から姿を消します。よく言われることですが、歴史はその時代に必要な人物をまるで必然であったかの如く表舞台へ送り込みいとも簡単に偉業を成し遂げさせますが、それが終るとすぐに表舞台から退かせます。歴史ではそういった人を「偉人」と呼びますが、吉田 茂という政治家も、サンフランシスコ講和条約締結の頃を人気の頂点として急速に支持を失い、日本の政治の表舞台から姿を消します。彼も正に、当時の日本が必要としていた「偉人」だったのかもしれません。著者は北康利さんです。


下/「吉田 茂 ポピュリズムに背を向けて」(下巻)