パティ・セッションズ(スミス・パリー)
ジョセフ・スミスの10番目の妻
●ジョセフの8番目の妻、シルビア・セッションズの母親。このシルビアも既婚者でありながら予言者ジョセフ・スミスの妻となり、彼の子を産んだと主張する。
●助産婦として活躍し、一生涯で、3977人もの赤ん坊をとりあげた。
●39歳でモルモン教会に入る。47歳でジョセフ・スミスと結婚。しかし、既にデビッド・セッションズと結婚していた。8人子供を産んだが、5人死亡。
●後に夫デビッドはブリガム・ヤングから圧力をかけられ、多妻婚を行い、若い妻たちをめとる。初めの多妻婚妻とパティは相性が合わず、けんかが絶えなかった。2番目の多妻婚妻とはけんかはあまりなかった。
●夫ダビッドは若い妻たちと時間を多く費やすようになり、経済的にも精神的にもほぼネグレクトされた。
●夫デビッドの死後、再婚するが、この男も多妻婚を行い、ネグレクトされただけでなく、別の妻を養う為に援助してくれ、とパティに泣きついた。
●娘のシルビアも予言者ジョセフの妻となり、後にこのシルビアは、死ぬ間際に自分の娘(パティの孫)ジョセフィンに、「実はあなたは予言者ジョセフ・スミスの娘なのよ」と告白する。
生い立ち
●1795年2月4日に生まれた。父エノク・バートレット、母アナ・ホール
●パティの父は靴を作る人、畑も耕してた。父の初めの妻は10人子供を産み、彼女が死んで再婚し、はじめに生まれたのがパティ。その後、8人の子が生まれる。
19人兄弟の大家族の中で育った。
●パティは17歳で、22歳のデビッド・セッションと結婚。農場を買った。
●1818年7月31日、シルビアが生まれる。
●おしゅうとめさんは大女で車いすの生活だった。それを支えるのが本当に大変だった。おしゅうとめさんを動かすのに自分の腕をケガしたこともあった。しかし、母も死んだ。
●8人子供を産んだが、5人死亡。
●1834年、7月2日、39歳でモルモン教会に入った。
●1835年8月に12使徒のブリガム・ヤングとライマン・ジョンソンがメインに来て、パティの家で総大会を行った。
●夫と長男のペリグリンもバプテスマを受けた。
メインからミズーリへ、そしてノーブーへ
●1837年、すべてを売り払ってシオンへと向かった。メインからミズーリへ。
カートランドでジョセフスミスと初めて会った。
●ミズーリでは非モルモンとモルモンが対立し、他のモルモンたちと共にイリノイへと逃げた。ミシシッピー川を渡ろうとしたが、氷が流れていて向こう側へ行けなかった。兄のぺリグリンが日記に書いている。
「ここでは乾燥したとうもろこし以外、食べる物がほとんどなかった。それでたくさんの人が病気になった。11日間ここに滞在した。雪が降り積もっていたけど川を渡った。」土地を借りて住んだ。
●息子ぺリグリンは伝道へ。
●1840年5月2日、ノーブーへ引っ越した。
●ぺリグリンが伝道から帰って来ると、家族はみんなマラリアにかかっていた。ぺリグリンは書いている。
「小さい丸太小屋に家族がぎゅうぎゅう詰めで住んでいた。床はガタガタで、雨もりはひどく、家族も友達も着る物もなく、貧困とみじめさの中で暮らしていた。どの家にも病人がいた。」
この後、ぺリグリンは家を建て、家族はそこへ引っ越した。
●3歳の末娘、アマンダが病気で死亡。
予言者ジョセフ・スミスと結婚
●1842年3月9日、パティは47歳でジョセフ・スミスと結婚。パティはこう書いている。
「私は1842年3月9日、ノーブーのニューエル・K・ホイットニーの家で、
ジョセフ・スミスに,この世でも、永遠にわたっても、結び固められた。
ウィラード・リチャードが式を行った。娘のシルビアも結婚式に出席した。」
ジョセフのの為に新しい妻たちを準備する役目を果たす
●パティはジョセフより年上の妻の第一号だった。恐らく、二人の間には肉体関係へなかったと思われる。ジョセフは年上の妻たちとは性交渉をしなかったと思われるからだ。
ジョセフの多くの妻たちが、ジョセフからの求婚を促すメッセンジャーとして、又ジョセフとの仲をとりもつ者として、将来妻になるであろう女性たちを教育した。
ある時は結婚式で証人の役もつとめた。
ウィリアム・ホールという、モルモンに同情的でない人物の証言によると、パティはもう一人の年上妻エリザベス・ダーフィーと共に、ノーブーでこのメッセンジャー的役割を熱心につとめたらしい。
●パティはサラ・クリーブランドが語った異言を翻訳した。扶助協会でみんなを祝福するようなことを言った。予言した、もし皆がへりくだるなら、扶助協会のメンバーは予言の賜物を受けると。
●恐らく、この頃にはパティはジーナ・ハンティントンやエライザ・スノーと親交を深めていたものと思われる。ジーナたちもグロッソラリア(異言を語ること)、いやし霊の賜物に恵まれていた。
●1842年、6月11日、夫デビッドはにメインへ伝道へ。
●パティは日記にこう書いた。
「デビッドは私を一人残して行ってしまった。とても寂しい。」
デビッドが伝道へ行ってる間、助産婦として活躍した。
●1842年11月16日、デビッドが伝道から帰って来た。
●エマ・スミスが病気だった時、パティは扶助協会でエマを気遣う言葉を投げかけ、みんなで団結してエマの為に祈りましょう、と言った。祈りと歌を捧げた。
●息子のぺリグリンの妻が死んで、彼は子供たちを連れてパティと一緒にしばらくの間、住んだ。
●1845年の秋、非モルモンからの反発を受け、イリノイを去ることにした。旅の準備をすると同時に神殿を完成させ、儀式を執り行うのに力を尽くした。
●息子ぺリグリンは、
「異邦人たちから邪魔されない安全な土地で、天の法律の下でその特権と祝福にあずかれるようにと新な土地を探すのだ」
「異邦人たちは罪があって悪事を行っている」
と書いている。
●この期間に多くの多妻婚の儀式がここで執り行われた。
夫が新しい妻をめとる
●1845年10月3日、夫デビッドがロズィラ・コウィンズと結婚。
パティは多くの最初の妻が直面する困惑と苦痛を味わうことになる。
●1845年12月24日、エノク・トリップという、パティのおいっこが訪ねてきた。彼はモルモンではなかった。彼は生活に困っていて、仕方なくノーブーのモルモンのしんせきに助けを求めにきた。が、モルモンは非モルモンを殺すといううわさを聞いていたので、非常に恐れていた。
ところが、モルモンは親切で、友好的で、信仰深く、食事の時に祈りを捧げると知って驚いた。
●1846年2月12日、ノーブーを出発した。旅の間も助産婦として活躍した。
寒さに凍えて、ぬかるみだらけの道、大変な旅だった。よく、泣いたと日記に書いている。
2番目の妻とのけんかの日々
●1846年7月31日、パティはこう書いている。
「今週はとても寂しい時を過ごした。夫が私に落ち度がる、と言ったのだ。」
夫は自分より若くて魅力ある妻と多くの時間を過ごし、自分をほったらかしにしていると感じたのだ。
●パティは日記に、
「夫はロズィラにうそを吹き込まれていて、私の所になかなか来てくれない、 私に辛く当たる」
と書いている。二人の妻がけんかして、それを仲裁しようとした夫が初めの妻をせめてしまう。
パティは夫に拒否されたと思い、ロズィラはパティが最初の妻の権力をふりかざしていると感じ、反抗するのだった。 二人はしょっちゅうケンカした。
ある時、夫デビットが二人の妻に言葉の暴力を行った。パティは傷ついた。
「私は助産婦の仕事して疲れて帰ってきたのに、ロズィラは料理をしてくれない」
「ロズィラはウソばかりデビッドに言う」
とか、文句ばっかり日記に書いている。
●ロズィラはパティたちと住むのをやめ、違う家に住むことになった。遠くへ行ってしまった。これでパティの辛い多妻婚の日々はひとまず終わった。
●パティは依然として、異言を語る会や祝福会に多く参加していた。
パティはバイレット(ヒーバー・C・キンボールの最初の妻)の頭の上に手を置き、神の力が下りてきて驚くべきことを話した。バイレットは圧倒されて立ち上がり、皆を祝福した。エライザ・スノーもそこにいた、と言っている。
こうして当時の女性たちはお互いに祝福し合った。
●この間も旅は続いた。川を渡るのはいつも一苦労だった。車輪が外れて積み荷を全て降ろしてから車輪を盛り、又もとに戻したり、幌馬車がひっくり返って、ぺリグリンの息子カルロスがおぼれそうになったりした。パティは実に詳しく日記をつけていた。
家畜たちはどこかへ行ってしまい、連れ帰るのが大変だった。
男性は幌馬車の車輪をつけ、女性はパイを焼いた。バッファローがたくさんいた。その肉でミートパイを作った。
インディアンたちと会った、とても友好的で、ダンスもした。
ガラガラヘビを殺した。
●一時期、夫デビッドがディスフェローシップされた。1週間後に謝って、彼は又メンバーシップを手に入れた。
夫がまた多妻婚を始める
●1850年、1月13日、夫デビッド(60歳)が又、多妻婚を始めた。相手はハリエット、19歳で離婚歴あり、一人の子持ち。パティは55歳。ブリガムヤングが圧力をかけたと思われる。
●パティは 婚約の話を聞いて「夜眠れない、、1日中悲しかった」と書いている。 結婚した後も、
「夫は彼女を連れて農場へ行ってしまい、私は一人残された。」
次の日も、
「悲しくて、寒くて、とても寂しい。」 と書いている。
●しかし、ハリエットはロズィラのように反抗的ではなかったので、けんかはなかった。
●時々デビッドは尋ねて来て少しの間だけ泊まって行ったし、パティもハリエットの 子供の世話をしたが、夫が近くにいないのは辛かった。
●1850年、デビッドは病気になり、体が動かなくなり、パティの家で介抱したが、死亡。
ジョンとの再婚とジョンが多妻婚を始める
●1851年12月14日、パティはジョン・ペリーと再婚した。パティより6歳年上。ジョンはタバナクル・クワイアーの最初の指揮者。
パティは日記に、「主に感謝します、たきぎを割ってくれる人がいるんですもの」と書いている。
●パティの息子ペリグリンは7人の妻を持った。
●1854年3月28日、夫のジョンはブリガムに呼ばれた。
パティの知らないところでジョンの多妻婚について話が進んでいったことに、パティは裏切られた気持ちになった。
●このように、D&C132章に書かれている多妻婚のルール、
「多妻婚を行うときは、最初の妻の許可を得てから行う」は、しょっちゅう、やぶられたのだった。
●65歳のジョンは31歳のハリエットと結婚した。
●でも、ハリエットはパティの家から出て行き、ジョンはほとんどをハリエットと過ごし、パティの所にはたまにしか来なかった。
●夫ジョンは経済的に頼りなかったので、パティは助産婦として稼いだ。
1857年4月30日、パティは悲しそうにこう書いている。
「パリー氏は10,5ポンドの小麦粉と1ポンドのバターを自分の稼ぎの中から持ってきてくれた。2年ぶりに。」
●1856年2月9日、パティの日記にはこう書いてある。
「ハリエット(夫ジョン・パリーの別の妻)はコーンブレッド以外にほとんど食べる物がない、とパリー氏が言った。」
パティはジョンに、食べ物を分けてあげますよ、それに、ハリエットがパティの所に来て一緒に住んだらどうか、その方が節約出来るから、と提案した。でも、ジョンはそれについては何も答えなかったとパティは書いている。
ジョンは、ハリエットのことも支えられなかったので、パティに物乞いする有様だった。
●このように、多妻婚のもう一つの事情がうかがえる。
男性は多妻婚を率先して行うが、結婚した後で、新しい家族を支える力がないことに気づくのである。
それで妻たちは自分の兄や弟、10代の息子たちに助けをもとめるのである。
ここで夫たちの為に言っておくが、彼らは教会の指導者たちから常に多妻婚を行うようにと教えられ、プレッシャーをかけられた。
●にも拘わらず、多くの妻たちが夫たちと離婚した。離婚しない妻たちも、多くが宗教上の義務感から形の上での妻だっただけであった。
気持ちの上でも、お金の面でも、ほっぽっておかれ、悪戦苦闘するのにひたすら耐える人生だったのだ。
●1857年からのパティの日記には、夫ジョンは出てこない。
パティが生きていくために、どれだけ必死に働かなければならなかったかが書いてある。助産婦と果物の栽培。
●1858年11月28日にパティは日記にこう書いている。
「ほとんどの時間、私は独りぼっち。でも瞑想してると良い気持ちになる。
いつも、主に感謝の気持ちを捧げている。」
●1857年9月23日、パティはハリエット(夫ジョンの妻)のお産を助けた。この語何年にもわたって、ハリエットの助産婦をつとめた。
●1859年2月2日、65歳で5歳の女の子、アルジニアを養女にし、育てることになる。しかし、二人の関係はうまくいかず、アルジニアは家出したりして、結局は10月9日にもとの両親に戻された。
●夫ジョン・パリーはほとんど会いに来なかったが、パティが病気の時は来て看病してくれたという。反対に、パリーが病気の時はパティが看病した。
1866年12月8日、パティの日記にはこう書いてある。
「パリー氏はひどい病気で私は呼ばれた。彼は私に、彼の頭に手を置いてくれ、と頼んダ。私は彼の頭に油を塗り、ハリエットと共に彼の頭に手を置いた。 すると、たちまち彼は癒された。」
夫の死とその後の活躍
●1868年1月13日、夫のジョンが死んだ。パパティはこう書いている。
「パリー氏は1年にもわたって、言葉では言えない程の辛い痛みを耐えた。誰よりも忍耐強く、一言も痛みに対して文句を言わなかった。最後は苦しまずに息を引き取った。優しい夫、思いやりのある父親、良き末日聖徒であった。」
●神殿の儀式をよくやった。
ジョセフ・スミスの妻たちの中では珍しく、経済的に結構自立していた。
●1862年3月24日、何とブリガム・ヤングに、金で175ドルを貸した、と日記に書いている。
納屋、穀物倉、幾つもの家を建てた。息子パリグリンと一緒にメイン州を含むいくつかの州へ旅行に行った時も、500ドルかかった、ときちんといくらかかったか記録している。
●最後は娘シルビアと息子ぺリグリンの近くに引っ越して住んだ。なんの借金もない、と日記に書いている。
●しょっちゅうユタへ行き、扶助協会では姉妹たちの為に布を買って服を作り、新聞も3つも買って読んでいた。
●1883年12月15日、88歳で、パティ・セッションズ・アカデミーをつくった。自分のお金で、無料の学校を建てたのである。ZCMIに16000ドル投資した。ZCMIとはソルトレーク・シティにあるショッピングモールである。
●パティは果樹園もよくしきり、孫たちに農場の仕事を与えた。教会によく献金し、縫物、読書も行った。ローガン神殿にも多額の資金を出した。息子ぺリグリンとは仲が良かった。
●1892年12月14日、97歳で死亡。
私の感想
●パティの多妻婚は、非常に辛いものだったのですね。彼女は夫ジョン
死んでからの方が、幸せだったように思います。愛してくれないのに生きているよりは、いっそいない方がストレスがないです。
●パティは、エマが病気の時に扶助協会みんなでお祈りしましょう、と提案しましたが、これ程卑怯な偽善行為・裏切りはないと思います。エマが一番嫌っていたジョセフの多妻婚を、パティは裏で推進していたのですから。
自分はそう思っていなかったんだと思います。ただ、神権者に従って従順だったのでしょう。
●ジョセフの5番目の妻ジーナとパティはよく似ています。2人とも、いつも寂しいともらしながらも、どんなにひどい扱いを夫やリーダーたちから受けても、文句言わないで言うことに従い、夫たちを讃えました。
ジーナも、嫌でしょうがないカイコの世話をブリガムの為にやりました。彼は彼女をあまり愛してくれなかったのに。
●パティも、自分を支えるどころか、若い他の妻にうつつをぬかした夫ジョンが死ぬと、あの人は優しい夫だった、と日記に書きました。
●教会は、今でも彼女たちを利用して、まるで多妻婚が神聖で、素晴らしい教えだったかのように信者に教えます。辛い教えだったが、そこから彼女たちは精練されたとか何とか言ってますよね。しかし、彼らの日記を読むと、不幸です。こんな人生を、私は自分の娘にさせたくありません。
●彼女たちがどんなに多く奉仕したか、又、多妻婚の神聖さを教えようとしたか、今でも教会は彼女たちを使って信者に多妻婚の正当性を信じさせようとします。
しかし、彼女たちの苦しんだ過去についてはなるべく話さないようにしてきました。
一番の被害者たちを使って、私たちを信じさせようとする、こんなひどいことをよく教会のリーダーたちは出来るな?と本当に当惑します。理解が出来ません。
又、こういうことを聞きたくない、と言い張る私の妹たちにも本当に驚きです。
●非モルモンのおいっこが訪ねてきて、モルモンは怖い人たちではないんだな、とびっくりした、とあります。反対に、モルモンたちは非モルモンを悪い人たち、とみなしていました。
これはモルモンリーダーたちが原因で起きた誤解だと思うのです。
ー他人の妻たちを自分のものにしようとしたジョセフ・スミス。
ー銀行運営に失敗し、多くの人たちに迷惑をかけたジョセフ。
ーモルモンは選民で、自分たちに反対する人たちはみな、悪者だと信者に教育した
ジョセフ。
このようなことをしたので、多くの人がモルモンに対して良い気持ちを抱かなったのでしょう。ジョセフはよく、公の場でウソをついたのも事実なのです。
これによって、何も関係ない信者たち、特に子供たちが家を追い出され、食べ物もなく、飢えと寒さで死んでいきました。モルモンリーダーたちのしくじりの犠牲になって。
●ジョセフ・スミスが、多妻婚などせず、銀行など建ぜず、莫大なお金のかかる神殿などつくらず、ただ、貧しい人たちの為に働いていれば、モルモンは毛嫌いされることもなく、他の人たちから追い出されることもなかったのではないか、と思います。