遠州光明山初甲子祭は1月21日(日) 日本最大の木像大黒天
2018.01.06 14:09
金光明山光明護国禅寺
静岡県浜松市天竜区山東2873
光明山初甲子祭は平成30年1月21日(日)に執り行われます。
一本彫りの木像として日本最大の像である遠州福の神開運出世光明大黒眞天を祀る大黒殿では、朝10時より約一時間毎に御祈祷が行われます。
遠州光明山は養老元年(717)に行基菩薩が元正天皇の勅詔を蒙り開山したと伝えられています。
この時、行基菩薩が最初に訪れたのが、現在光明寺が建てられている場所です。行基菩薩は本尊三満虚空蔵大菩薩、奥之院三宝摩利支天、十一面観世音菩薩の尊像を自ら刻作したと云います。
光明寺の敷地内にある光明山古墳は五世紀半ば頃に造られた浜松市最大の前方後円墳(全長82m)。行基が訪れる以前からこの土地は特別な場所であったようです。
光明寺から東へ8キロほど離れた場所に、寺伝によれば天地開闢の始めより神霊佛陀の守護し賜う霊場であったという標高539mの光明山(鏡山)があり、行基菩薩は光明山中の明星谷にて七千五百の大眷属と倶に遊現した遠州の大天狗笠鋒坊(りほうぼう)大権現と接し、鏡岩に坐して摩利支天のご神託を蒙るなどの霊験を感得し、元正天皇に奏して伽藍造営の官符を賜わり山上に諸堂が創建されました。
この時より光明寺は皇室の御祈願寺となり、鎮護国家の道場となりました。
光明山に遺るかつての光明寺の石垣跡
江戸時代には京の清水に似る(「遠山奇談」寛政一〇年(一七九八)京都の平安書林華箋堂梓、華誘居士著)と書かれた明鏡山光明寺の大伽藍は明治初期の大火で焼失、大正時代に再建された伽藍も昭和6年の火災で全焼し、昭和14年に現在地に再建されました。
かつての絵図を見ると、清水寺同様、大きな舞台が描かれています。
光明山頂からは蛇行する天竜川が見下ろせます。火伏の秋葉山に対し、光明山は天龍河を制する治水の神と云われており、古来から光明秋葉の両詣りは全国的な信仰を集めてきました。
また、鳥羽湊から下田湊まで見渡すことが出来、江戸時代の菱垣廻船は、用事のない限り掛塚湊には寄港せず(掛塚など遠州の港は入り江が無いため、荒天時に船舶の退避が出来ない)、難所である遠州灘を鳥羽から下田まで一気に航海していきました。
この時、光明山と秋葉山の重なり具合を見て海上での位置を判断し、また夜でも光り輝く光明山鏡岩を灯台代わりにして航行していたと云い、遠州光明山は海上交通の神としても広く崇敬されてきました。
光明山の別名「鏡山」の由来となった巨大な鏡岩。かつては海上から光り輝いて見えたという。
また、武田軍と徳川軍が光明山中で戦った際には、家康公がこの岩に隠れて難を逃れたこともあったと云う。
この元の光明山に開山以来の御神木として周囲10.2メートルの大黒杉がありました。
春埜山の春埜杉(周囲14メートル)、武速神社の将軍杉(周囲10.6メートル)と並ぶ静岡県屈指の巨木でしたが、昭和の火災で火が入り伐採されることになりました。
この大黒杉から仏師岡田天孝が昭和12年に刻作したのが、木像として日本一大きな大黒天像です。
大型の木像は寄木造ですが、この大黒天像は一本の木から刻まれており、大黒杉のような巨木は国や県の特別天然記念物に指定されているので、今後この様な巨大な一本彫りの木像が造られるケースはほぼあり得ないでしょう。