自分が何者か分からなくなる毎日
僕はこの時期になると、先輩カメラマンに紹介して頂いた証明写真の仕事を多くしています。
「就職活動」を始める大学生を相手にした商売で、いわゆる「就活ビジネス」の一つです。
以下、取引先の話も混じってしまいますが、僕はグレーゾーンだと認識してこのまま続けたいと思います。
明治維新で文明が開花したかと思いきや、何かと神話的なウマい具合の話を信じ続けてきた日本の庶民でしたが、ようやくこの頃、この国の危機に対して意識しだしたのかなぁ、というところです。かの著名な司馬遼太郎をしても、警笛を認識させるまでに至らなかった、マスメディアの暴走に対しても国民の反応が見られるようになりました。
ところが、
日本の肝の一つである「教育」において、最も重要なポジションであるかのように見せかけられている「就職活動」には、ほとんど変化はみられません。
以前、「就活反対デモ」が起きましたが、日本人がやる(発想する)デモは真のデモではない(小学校の「呼びかけ」しながらダラダラ行進してもなんの脅威も感じない)ので、結果的に遊び半分感が伝わり、失敗に終わりました。手段の選択を誤ってしまったのでしょう。逆に相手の力に負け、世間から嘲笑されるかたちとなりました。そして、なんのことなしに例年通り「就職活動」は始まっています。
エントリーシート(通称:ES)という謎のシステムは、証明写真の需要を一気に高めました。学生達は当然のように証明写真を買い求め、謎のエントリーシート作成代行業者から受け取った自分の経歴を暗記し、「皆が参加する」企業説明会にエサを見つけた蟻の如く集結します。
撮影の受付マニュアルに「背景の色を選んでもらう」というのがあるのですが、ほぼ全ての学生が「一般的なのはどれですか?」と聞いてきます。自分を表現するのではなく、目立たないように周りと合わせようとするのです。
採用に関する履歴書に顔写真を貼る慣習についての是非もありますが、仮に貼るのならば、自分をアピールする要素の一つとなるわけです。ところが、学生達はその方向を「平均・標準」を目指すほうに設定しようとするのです。僕はそういう学生の相手をする度に落胆を隠せずにいます。
「従順な平均的能力をもった人材(従業員)を造るシステム」=「日本の教育」
完全に上から目線。終身雇用が大前提でそのラインに乗らせるための仕組み。これでいいのでしょうか?もちろんそれにハマらずに志高く開花している人は大勢いると思います。でも国のベクトルには敵わない。こういう時代になったから、若者はもっと大志を抱いているかと思いきや、今までの教育の蓄積と未来への不安から、全くそんな気配は感じません。
確かに、元より意識の低い北海道での話なので望む方がおかしいのかもしれません。
「就職活動とは何なのか」
仕事に就くとは。その仕事の意義とは。
この問いに生きるための手段とは答えて欲しくない。それはもちろんそうなのだけど、きっとそれは社会を目前にして考え出したから前提条件を回答しているだけなんじゃないだろうか。
問題は「就職活動」を含めた教育システムにあると思います。
10代からこの社会において自分のすべきことは何なのか考えるようにトレーニングするべきではないでしょうか。職に就くとは「就職活動」で「蟻」になって内定をもらうことではありません。企業は「部下」を採るのではなくて、「パートナー」を見つけるニュアンスに。
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なんていろいろ考えると疲れます。
全部そっくり自分にぶつけるとウアァァァとなってしまいます。
人生矛盾だらけですね。