人の一生は金銀財宝に富めるにあらず、積善の道に如かず
タイトルは、
札幌の創成川の基礎を造ったとされる大友亀太郎氏の像の碑文にあったものです。
彼はこの信念の元、原野にあった札幌の地を身を削り開墾したのでしょう。
しかし、倒幕後、新政府の仕切りに変わると彼は身を引いて、この愛を注いだ地を離れてしまいます。
「新体制の仕事の進め方で意見が合わなかった」
と碑文にはありますが、具体的にそこにどんなドラマがあったのでしょう。
僕は、旧道庁(赤レンガ)に足を伸ばし、
妙に天井の高い西洋風建物の広い部屋に掛けてある、歴代首長の肖像画を見上げてみました。
そして気が付いたのです。
「見上げさせられている」ことに。
「天は人の上に人を造らず」
人は生まれながらにして、平等である。
ただ、等しいのは命の重さだけ。
生まれた後、人は人を押しのけ、足を引き、踏み潰し、蹴落として、人の上に立つ。
それ故に、学問をせよ。
と言うのが、福沢諭吉氏の云わんとするところでしょうか。
ところが。
日本銀行券最高額紙幣のシンボルになっているお方の教えに沿い、
真面目にその頂を目指し、人の上に立った者たちには、少々学び足らない部分があるようです。
彼らのモットーは
「人の人生は金銀財宝に富めるにあり。積悪の道に如かず」
らしいのです。
日本はアンバランスに都合良く教えを守り、
剣山の中の茨のレースを走った者たちは、その代償に揺るがない富を求めています。
そして自らの後継者を用意することで、自ら拓いた道を遺すという欲に埋もれているのではと疑います。
3.11震災直後、
「世界は日本の冷静な助け合う姿勢に驚いた」と伝えられています。
もし、世界が見たものが本当ならば、日本にはまだ捨てたもんじゃない気質を持った人たちがいるということでしょう。
しかし、
それをキャンペーン化した数々の動きに乗じて、都合良く言葉を使いプロパガンダが行われたことに、僕はやり場のない無念を抱えます。
ある日、小学校の授業科目から「道徳」が消えました。
当たり前です。
道を説ける大人が居ないのだから。
魂を磨きましょう。
金銀財宝は物質的に満足させるだけです。