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第六回「宮沢賢治と庭」 ~阿月さん編~

2022.06.08 00:09

 こんにちは。

 今回は、我らがポラン堂古書店の店主による夙川公民館の講座「宮沢賢治の世界 第六回」に、ポラン堂古書店サポーターズが誇る作家、阿月まひるさんが赴いたということで、記事をお願いさせて頂きました。

 我々仲間のなかではお馴染みの高い文章力、硬派なようで緩急のある、作家でありながら作家っぽすぎる文体がとっても素晴らしい力作です。

 それでは阿月さん、どうぞです。


 きっとみんな大なり小なり環境の変化があった昨今であろうが、それにしたって私はどうにも痛感していた、己の識字力の衰えを。

 私の大学時代の恩師である、ポラン堂の店主が90分ものあいだ熱弁を振るう『宮沢賢治の世界 第六回「宮沢賢治と庭」』の講演会でのことである。

 配布プリントを前に、私は十年前の自分に大敗したと感じたのだ。

 

 だいたい十年前の大学時代、そして卒業してからも、私や友人らは恩師とコンタクトを取り、文学と賢治の成分をコンスタントに浴びていた。フランクで、賢治文学のみならず今季のアニメを語れるようなサブカルチャーにも造形の深い恩師と、卒業したくらいで縁を切りたくないなあと思ったためである。私は全くいい生徒でなかったし、いい友人でもないだろうが、懐が五キロメートルくらいある恩師は幸いにして許容してくれた。そんなわけで、卒業後も恩師の存在を、友人らと堪能していた。あの頃の私はも~う言っちゃ悪いが完全に環境に恵まれていた。小説を書くお膳立てをされていた。そんなわけで小説を書いていた。


 のだが、今や私と来たら書こうとする設定だけが頭にあり出力しようとしても凡以下の出来になり、書いては消しを繰り返すドッ・ドッ・ドッ・スランプ真っ只中である。こりゃまずいと時間を作っては手当たり次第に本を読み、自分の中の理想の物語に昇華しようと無為に足掻く日々が続いていた。そう無為。インプット本の内容に感動するだけで満足してしまい、自分ならどうするこうするという段階にすら思考を練れていない。これはまずい、と危機感と焦燥感だけが募りますます辛くなっていったのだが、そんな鬱屈を抱えたまま前述の、『宮沢賢治と庭』講演に赴いた。参加費を支払い講義内容に沿ったレジュメを受け取り、そして気づいた。

 私、文字を目で追うのが下手になっている……!? と。


 大学時代は高校からの延長線上、座学に次ぐ座学で、インプットとアウトプットがまんべんなく行えていたわけだが、アウトプットがカッスカスの今、気づいていなかっただけでインプットも下手になっていたわけだ。恩師の朗読と、机の上のレジュメ。学生の時分は他者の朗読のペースなど無視して勝手に先読みし、勝手に読み終わって勝手な感想を抱いていたものだが、なんということだ、現在の私は賢治の作品の漢字が読めなくて視線が止まり、句点のないひらがなに意味が飲み込めず、英語のスペルがわからなくて(いやこれは元々か?)(賢治は英語を作品の中に出すことがままある)途方にくれた。

 ひょっとしたらここ最近、アウトプットどころか、インプットも満足にできていなかったのでは……? と悲しくなりながらも、しかしそんな時間は長くは続かなかった。

 恩師の講義は、そういえばめちゃくちゃおもしろいのだと、リアルタイムで思い出したのだった。


 恩師は賢治の研究者である。その傍ら、大学や高校で講師もしていた。

 ここで声を大にしておこうと思うのだが、恩師は、研究者講師にありがちな、自分の知識をひけらかし悦に入る、学生を置き去りにするような授業を、絶対にやらない。

 賢治の研究者であることが、イコール賢治の信奉者、となるわけではない。むしろそういった考えは研究の妨げとなるとばかりに、賢治の人間性、家族や友人との関係、賢治の思想や宗教、そういったものを、「どうして誰かそれは止めときなって賢治に言ってあげなかったのかな?」とバッサバッサ、賢治の、なんだろう、乳母?みたいな視点から、ぜんぜん賢治のことを知らない私たちに、賢治って、なにかと美化されてるけども、でもねこの人もちゃんと人間だったんだよ、と教えてくれる。


 今回の講義では、

「この人は賢治の弟さんですね。賢治が兄であったばかりに人生を狂わされたかもしれない人です。兄のために生きた人です」

「当時の価値観ではリアカーなどとても高価なものでしたから、そんなものを使って花を植えようだなんて、ご近所さんの『ま~たあそこのボンボンがなんかやってるよ……』というリアクションを買うだけだろうに家族の皆さんは止めなかったんですね。『まあ賢治やしなあ』と思っていたのかもしれません」

「教え子に頼まれ花壇の設計をした賢治ですが、あまりにもお金がかかったため上からストップをかけられてしまいます。そんな折りに発表された詩がこれです。タイトル、『悪意』」


 などと虚空を見つめながら言っていた(思い出したが、基本的に教師というのは授業中教え子の顔を見ない。なので教え子の諸氏は是非、笑ったり感嘆したり拍手したり、耳で聞こえるリアクションをしてほしい)。

 こんな感じで大学時代から講義をうけていたため、賢治のことをなんにも知らない私もなんとなく身近に感じてしまうのだった。

 繰り返すが、恩師は、自分の知っていることだけをマシンガンのように話すだけの独りよがりな授業を絶対にしない。何故か? 賢治のことを、我々、賢治を知らぬものに「布教」したいからだ。

 恩師は「推し」である賢治を布教するため、時にキャッチーに時にツッコみ時にたしなめながら、常に真摯に、愛を持って我々に訴えかけてくる。このひとおもしろいでしょ、この作品の裏にはこういう事件があったんだよ、ね、これについてはどう感じた? と。

 あわよくば賢治沼に来いと誘われているのかもしれない。オタクというのは新規の新鮮な感想がとっても好きだから。恩師は研究者であり、同時に、というか同義で、賢治のオタクでもあるのだ。

 賢治の研究者による、第六回の講演会は、『銀河鉄道の夜』など、空の上の話が有名な賢治の、「庭」、「土地」という文字通り土臭い点から賢治の一面を読み解く試みであった。

 「装景」。耳慣れぬ、見覚えもおそらくない人が多いこのキーワードをもとに、賢治の思想、作品に頻出する「ほんとうのさいわい」に続く道筋を辿っていった。

 さて、宮沢賢治の研究者は、もちろん彼の作品の魅力の分いるわけだが、賢治の研究者必携、という、『宮沢賢治語彙辞典』という本があるらしい。私ははじめて知った。みんな知ってた?

 実はここに恩師の名前も載っている。「装景」という本日のキーワードは実は、研究者としての恩師のキーワードでもあったらしい。このへんの話は、是非ともポラン堂を訪れご本人の口から聞いていただきたい。


 そんな感じの90分は、終わってみるとあっという間だった。

 固い椅子で後ろの席のひとのためにオナラを我慢するのも懐かしい。受講者側から時おり鳴るカメラのシャッター音以外はまあまあ当時の授業風景と何も変わらなくて、ふと思った。私ほんとうに学生楽しんでやっていたんだな、と。

 恩師の弁舌の冴えは衰えるどころか更に鋭くなっていて、我々受講者の心をぶっ刺していった。


 最後に。

 本文資料としてレジュメに載っていた、『虔十公園林』。今回、私は特にこの作品、そして恩師の解説に、刺されてしまった。正直な話、朗読する恩師の声をききながら、レジュメの漢字にルビを振りながら、泣きそうになった。

 身内贔屓でなく、良質なインプットをさせてもらったと思う。この講義は、きっと次回作への発破になると思ったんだよ。

 阿月の作品にいつもパワーを与えてくれる恩師と、彼女の運営する超素敵な古書店・ポラン堂をどなたさまも末長くどうぞよろしくお願い致します。


 再びブログ主あひるに戻ります。

 阿月さん、ありがとうございました。

 確かに朗読の声に泣きそうになったというのは、大げさではなく、わからなくもない気持ちです。ノスタルジーもあるのです。私たちが繋がった原点というか、十年以上変わらず自分は先生のファンなんだなぁと気づかされるものがあって。(ファンなので『宮沢賢治語彙辞典』に先生の名前があるのは知っていましたよ)

 今回の講座「宮沢賢治と庭」は、先生曰く”一番マニアックな回”だったそうです。確かに、学生時代、授業の中にはなかった題材で、要するに私は聴講したことがなかったわけで、受けたかった……。

 さて、次回6/20は、「注文の多い料理店」の回です。いろんな方に親しみを持っていただきやすいかと思いますし、我々先生ファンにもお馴染みの楽しい回です。

 ぜひ時間と場所に都合の合う方は、お越しください。


 そして、角川書店より阿月まひるさんの小説『さよなら、ビー玉父さん』『たとえ好きなものが見つからなくても』が発売中です。特にデビュー作『さよなら、ビー玉父さん』は阿月さんが学生時代、先生のゼミで、卒業制作として執筆した作品です。

 ぜひポラン堂古書店か、お近くの新刊書店で手に取って、そのままレジまでお持ちください。