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横浜中華街 0019 なにが精神障害じゃ 性同一性障害じゃ 

2010.02.01 15:00

精神の病気は、

脳や身体の器質に、原因となる病変が見つからなければ、

心の内容を、精神疾患だの、精神の病気だの、心の病気だの、

精神障害だの、精神病だのと、文学的に評価しているだけのように聞こえます。

ほんとは、心の中身なんか、さほど問題でありません。

 

たとえば、自殺する人がいて、

身体に原因となる病気がなく、脳の器質にも異常が見つからなければ、

自動的に精神の病気とわかります。

御本人の心の中身は、どうであれ、自殺する心は、病気です。

命や身体を維持できないという客観的証拠が、命や身体に現れて来ます。

 

自殺だけでなく、脳や身体の器質に、原因となる病気がないのに、

自傷するのも、精神の病気です。

身体に客観的証拠が現れます。

性同一性障害では、性ホルモン剤によって、身体を変形させて、

生殖機能の阻害と、性器の摘出を望みます。

脳や身体の器質に、原因となる病変がありませんので、

自傷の一種として、精神の病気と言われます。

 

御本人は、あれこれと理屈を付ける心の中身を、

精神の病気でない根拠として主張します。

自由な生き方や個性と言いますが、

心の中身は、人それぞれですので、

心が文学的に評価されるのでなく、

維持できない命や身体から、客観的に精神の病気と診断されます。

 

性同一性障害の人の中には、会社を辞めて、手術を受けるほど、

自分の心は、ほんとうに異性なので、精神の病気でないと言う人もいます。

心の中身は、人それぞれですので、評価できません。

 

命や身体を維持できなければ、病気であり、

脳や身体の器質に、原因となる病変が発見されなければ、

命や身体を維持できないのは、身体の病気でなく、

精神の病気と診断されます。

簡単でしょう?

 

     性同一性障害では、性別が違うと言う人がいます。

     性別は生殖のためにあります。

     元の性別のままでは、生殖できずに、

     性転換すれば、生殖できるようになるなら、性別が違うかも知れません。

     性同一性障害では、元の性別で生殖できた人が、

     生殖を拒否して、性別が違うと言います。

 

     生殖不能や生殖拒否の症状の出るのと、性別が違うと言い出すのが、

     今の患者さんでは、ほぼ同じ時期です。

     昔の患者さんでは、生殖不能や生殖拒否の症状が出てから、

     相当な遍歴の後に、性別が違うという口実に行き当たりました。

 

     今も昔も、性別が違うと言い出すのは、

     夜の歓楽街の性欲遊びに染まって、仕上がったという意味です。

     子供の性同一性障害は、大人と異なりますが、

     思春期になると大人の性同一性障害と同じ遊び仲間になりますので、

     中学生の子が涙ながらに心の性別を訴えるのは、

     すでに非行社会に根を下ろしているのかも知れません。

 

     刺青を入れるように、性同一性障害になります。

     そうでない人が性同一性障害になることは、

     統合失調症圏の症状が出ていなければ、まずありません。

 

     今も昔も、性転換すると、不可逆的に生殖できなくなります。

     男性の性同一性障害(MtF)でも、

     ほぼ全員がホルモン療法の前に、配偶子の保存を拒否します。

 

     ホルモン療法を中止すれば、性ホルモンの分泌は回復しますが、

     配偶子の生産は元に戻らないことが多く、

     配偶子に奇形を生じている可能性を否定できませんので、

     かつて性同一性障害のホルモン療法を経験した人の配偶子は、

     事実上、使用できません。

 

     昔の性同一性障害の人が使用していたDES(Diethylstilbestrol)

     という合成エストロゲン剤は、

     催奇性が証明されて、1980年代に製造販売が中止されました。

 

性別に、心の性別と、身体の性別とがあると、性同一性障害の人は言います。

心の性別は、おそらく文化や趣味のことですが、

命や身体や生殖を維持するために、脳の機能があり、

性別を維持するための、男女それぞれの脳の機能もあります。

それが病気になれば、命や身体や生殖を維持できません。

 

性同一性障害では、身体や生殖を維持できなくなる症状が出ています。

人によっては、命を維持できない症状も出ています。

しかし、性別を維持できなくなる症状が出ているようには見えません。

 

むしろ、命や身体や生殖を拒否するために、

性別をダミーの症状にして言い訳にしたり、

命を守るために、身体や生殖や性別を、

スケープゴートにしているのではないかと疑われます。

 

性同一性障害の、異性装や同性愛や、異性になったつもりの性的快感などは、

いずれも健常な人が、異性や、異性の文化様式に、性欲を催す気持ちと、まったく同じです。

性欲を自制できずに、性欲の対象を心に想像するだけでなく、

終日生涯、オナニーのように、想像の内容を実行してしまうのが、

健常でなく、病的ではないかと、一般の人は感じます。

 

精神の病気では、頭の中で様々な場合を仮に想像して、

将来に取るべき行動を、あらかじめ心積もりするために、未来をシミュレーションしたり、

過去の行動を分析して、原因と結果を特定しようとしたりすると、

頭の中の仮の想像の内容が、実際に起こった客観的な事実の内容と、区別がつかなくなります。

想像するときの、論理的な条件がはずれて、

無条件に実際に感覚された経験内容と同じになり、妄想や幻覚になります。

 

健常なオナニーも、この仕組みの一端を使っています。

性欲を催す異性を想像すると、想像しただけで実際に性的に気持ちよくなりますが、

頭の中で異性を演じて、同時に自分も演じて、二役をこなしています。

この時に、条件を仮定する論理がはずれると、

自制できずに衝動的に実行してしまい、性同一性障害になります。

 

仮定の論理がはずれるのと、自制できずに衝動的に実行するのが、

統合失調症や性同一性障害や拒食症などの類の精神の病気では、ほぼ同時に起こります。

うつ病のように嗅脳や視床の機能に異常があるだけでなく、

統合失調症の類では、大脳基底核の機能にも異常が起こっているからですが、

両方を説明するには、ドーパミン説だけでは十分でありません。

 

脳や身体の器質に、その原因となる病変が見当たりませんので、

統合失調症や性同一性障害の人が、命や身体や生殖を維持できなくなるのは、

今のところ、精神の病気と言えます。

心の具体的内容に、特別に触れる必要はありません。

健常な脳は、命や身体を維持するために機能しますが、

脳の器質を含めて、身体に病変がないにもかかわらず、

命や身体を維持できない脳の機能は、精神の病気と言わざるを得ません。

 

性同一性障害の患者さんは、精神の病気として、特別に庇護されなければ、

生きる能力がありませんので、

ナチスドイツのように、これを焼却処分にする気持ちが社会になければ、

刑務所に入れるか、入院させるか、施設に入れるか、社会的に特別に保護してあげるか、

いずれかを実行するしかありません。

社会生活をしてもらいながら、特別に保護してあげるのが、現在の世界の趨勢です。

 

     偏食や拒食と同じように、病気が軽快すれば、嫌いな物もよく食べるようになり、

     悪化すれば、あれやこれやと、嫌いと言い出して食べなくなり、

     もっと悪化すると、何も食べなくなります。

     何が、どれぐらい嫌いかの順番は、人それぞれですので、

     軽い病気では、食べなくなる食物の種類も、人それぞれです。

     重くなれば、何も食べられなくなりますので、みんな同じです。

     統合失調症の人も、病気が重くなれば、何も食べなくなります。

     拒食症だけが、何も食べなくなる診断名ではありません。

 

     同じように、性欲を自制できずに実行してしまったり、

     性欲がなくなったりする症状も、どの診断名の患者さんにも現れます。

     人それぞれに、食べ物の好き嫌いが異なるように、

     どうしても、そうせざるを得なくなったり、

     それが出来なくなったりする行動や言葉も、人によって違います。

     人それぞれの個性ですので、さほど重要な違いでありませんが、

     もしかしたら、統合失調症になるか、性同一性障害になるかの、

     違いになるかも知れません。

 

     統合失調症の人は、何者かが悪さをしていると猜疑する傾向が強く、

     いったん発達していた能力が、低下したにもかかわらず、

     本人には、自覚できませんので、

     以前に首尾良く行ったことが、今はうまく行かなくなると、

     自分のせいではなく、

     他人や社会や、得体の知れない何者かのせいに違いないと、確信します。

 

     性同一性障害や拒食症や解離性障害などでも、

     いったん発達していた能力が低下したのか、

     それとも、もともとの発達が不十分だったのかを見極めるのが、

     治療法を決めるために、とても大切になります。

 

性格の違いも、病気の帰趨を決めることが少なくありません。

人格障害は特定の性格を病気としていますが、

統合失調症の診断基準に少し足りない人や、

発症以前の未病状態や、統合失調症の御家族などに多く、

境界性人格障害では、人格障害と診断された後に、1/4の人が統合失調症と診断されます。

その他の人格障害では、滅多に受診しませんので、

診断よりも鑑定のために、よく使われる診断名です。

 

アルツハイマーのように、精神障害の原因として、

脳の変性や萎縮が明白でも、

患者さんに最初に現れるのは、人格障害の症状で、

治療薬として抗精神病薬を使うのも、統合失調症と同じです。

 

統合失調症や性同一性障害や解離性同一性障害(多重人格)などでは、

原因となる器質的病変が見つかっていませんので、

病気の症状を人に伝えるには、性格と表現するのが、最も簡単です。

医師の中には、性格としか言えない症状を、

鼻で軽くあしらう傾向が少なくありませんが、

精神障害者の御家族が最も苦しめられるのは、

客観的証拠がなく、性格としか言いようのない症状です。

 

統合失調症や性同一性障害などを、

性格の病気(人格障害)と見るほうが、患者さんを守れますが、

能力の病気(発達障害)として見るほうが、御家族を守れます。

 

     性同一性障害の人は、性欲を自制できずに、どうしても異性の衣服を着たり、

     異性の気持ちになった積もりで、同性と性交渉したり、

     異性の気持ちなった積もりの性的快感に浸ったままでなければ、

     生活ができなかったりしますが、

     本人の多くは、できるだけ幼少期からそうであったほうが、

     立派であると思い込んでいますので、

     物心ついた幼児の頃に、すでに性別の違和感があったと訴えます。

     多くは思春期以後に現れた症状にすぎず、色ぼけと同じです。

 

     人それぞれの趣味が、症状の違いに現れていますので、

     性同一性障害に特徴的な症状を論じても、

     趣味を見ているだけで、病気を捉えたことにはなりません。

     何ごとにつけても、許容力がなくなり、融通が効かなくなり、

     自制力のなくなる症状の出ていることを、よく観察しなければなりません。

 

お葬式に出れば、みなさん涙を流していますので、

ああ、ここは泣く場面だなあと思って、

ふと我に返ると、涙がぽろぽろ落ちて来ます。

それまで、亡くなった人の思い出に、一人で耽っていましたので、

周りの人の様子が、気になりませんでした。

 

お葬式が終わって、参列者と一緒にお食事の段になると、

みんなで楽しそうに、思い出話に耽ります。

そのほうが、故人を懐かしむには相応しいとするのが、

日本だけでなく、世界中の慣習です。

みんなのしきたりを尊重すると、自然に笑みがこぼれてきます。

 

怒るときも、悲しむときも、これまで習ってきた表現の形式に従います。

人間の感情はすべて、文化の内容に置き換わっていますので、

砂漠の国でも、冬のロシアでも、

いつでも、その国のしきたりに従って、実行します。

 

生まれたときに反射的に備わっていた感情は、

おそらく3才までに、ほとんど無くなっています。

生まれた時に持っていた感情を、何か一つでも思い出せますか。

精神障害では、赤ん坊が一人にされると、わけもなく泣き出す気持ちを、

いつまでも持ち続けている人が多いと、言われています。

見捨てられ不安と言います。

 

わたしが今も持っている感情は、一つ残らず文化的に習ったものですので、

演技のように意図的に使い分けるのが、日頃の生活習慣になっています。

自然な感情というのは、どこにも残っていません。

 

手足を動かすように、心を制御して動かしますが、

たまには手足が痙攣するように、制御不能になる場合もあり、

病気で身体が痛く、苦しんでいる時でなければ、たいへん疲れている時です。

習慣的な動作は、必ずしも意識していませんが、

意図的に制御しようと思えば、いつでも簡単に実行できます。

感情も手足の動作も、基本的には同じように感じられます。

 

何も命令していないのに、手足が勝手に動くのは、病気でなければあり得ませんが、

心臓や胃腸などは、勝手に動いています。

感情に、そのように不随意なものがあるかと、思いをめぐらしても、

病気の時の痛いとか、苦しいとかという気持ち以外に、何も浮かびません。

 

感情は、大脳辺縁系(嗅脳)と言われるところに中枢があります。

言葉を喋る時の喉の筋肉の動作も含めて、

手足や顔などの随意筋の動作は、大脳基底核が制御しています。

感覚神経の中では、嗅覚だけが大脳(嗅脳)に直接入ってきますが、

フェロモンを感じて、生殖を制御するためです。

人間では、嗅覚が廃れて、視覚が鋭敏になっていますので、視床(間脳)がよく発達しています。

手先もたいへん器用ですが、基底核で制御されています。

 

わたしは泣こうと思えば、いつでも5秒で涙が止めどなく出てきます。

泣きやむときも、世間の相場を慮って、自分で決めています。

怒るときは、子供を叱るように、教育上の効果を配慮して、いつも計画的です。

逃げる時は、恐いと感じません。

 

登山中に高さ300mの崖から転落したことがありますが、絶壁の途中に木が生えていて、

リュックの肩ひもが引っかかりました。

肩に掛けていたカメラも、同じ木の枝に引っかかっていたので、

それを回収する方法を思案しながら、

崖の上の人に、ロープを下ろしてくれるように頼みました。

 

少しも恐いと思わずに、遭難したはずのわたしが、

救助法のすべてを、仲間の人に指示していました。

恐いと思っている場合でなく、何をするのが最も良い結果になるかを、

よく観察して、観察結果を仲間の人に伝えて、意見を求めて、ゆっくりと考えました。

 

性同一性障害の人が、自分の心は異性だとか、現在の身体の性別では満足できないと言って、

生殖機能を阻害して、性器の摘出や性転換を望むのを見ていると、

もしも雇用するなら、障害者枠でなければ難しいと、一目瞭然でわかります。

 

御本人たちが、自由な生き方や個性であり、

病気でなく、社会の差別のために病気にされていると主張する気持ちは、

統合失調症の患者さんの気持ちと、まったく同じですが、

統合失調症のような興奮症状は稀で、

認知障害は性同一性障害の仲間社会から離れてからでなければ、出てきません。

 

性同一性障害の仲間社会を離れた人の、半数が治癒して、

残りの半数の人は、他の精神症状が目だつようになり、認知障害が顕著になります。

統合失調症と同じようでありながら、違うところも大きく、

抗精神病薬を使わずとも、認知障害が半数の人にしか見られないのは、とりわけ大きな違いです。

 

     病気って、自覚症状と、他覚症状とがあって、

     自覚症状にも、他人にわかって、自分にもわかる自覚症状と、

     自分にはわかるけれど、他人にわからない自覚症状とがあります。

     他覚症状にも、自分にわかる他覚症状と、

     他人にはわかるのに、自分にわからない他覚症状とがあります。

     自覚症状でも、他覚症状でも、耳を揃えて物的証拠を示されると、

     本人にも他人にも、客観的にわかります。

 

     客観性がないと、信じがたい気持ちになるのが普通と思うけど、

     客観性がないから、絶対に信じられるって気持ちになる人もいて、

     だいたいは、精神の病気です。

     でも赤ちゃんや老人には、そういうのが多いみたい。

 

     心の性別と、身体の性別が違うって言って、

     心は変更できないので、性ホルモン剤や手術によって、身体のほうを変更するって、

     真顔で言う性同一性障害の人もいます。

     なんか、わたしには、心と事実とが違うので、

     心を信じて事実を否定するみたいに、聞こえます。

 

     脳や身体に、器質的病変の発見されない精神障害って、

     たいていは、事実を拒否してでも、自分の心を信じて、押し通そうとするんですよ。

     性同一性障害って、それが真っ正直に現れています。

     精神の病気の典型ね。

 

     それでも患者さんは、性同一性障害って、病気でなく、

     自由な生き方や個性や、文化や趣味や、権利などと言います。

     社会の差別があるから、病気にされていると言います。

 

     統合失調症にも、何者かの陰謀のせいで、精神病にされていると、

     思い込んでいる患者さんが、ごく普通にいます。

     そのくせ、ちゃんと通院して、ちゃんとお薬をもらって帰ります。

     お医者さんの言う通りに、ちゃんと飲んでいるんですよ。

     あの医者は陰謀の手先なので薮だと、思ってるのにね。

 

     お薬を飲まないと、苦しいことになるって知っているのに、

     病気にさせられていると思っているのは、

     病気の本当の原因が、何者かの悪意にあるってことらしいの。

     ほんとは病気でないのに、病気にさせられています。

     毒を盛られて、病気になるみたいに、

     自分は健常だったのに、身も心もボロボロにされたとかね。

     そういう真相を知る能力が、お医者にはないけれど、自分にはあると思っています。

 

     眠っている間に、脳に受信器を埋め込まれたなんて、

     統合失調症の患者さんは、よく言います。

     性同一性障害の人が、自分は精神の病気でないと言って、

     性器を摘出する手術を強く望むのと、あんまり変わりません。

     違うところがあるから、診断名も違っているんですけど、

     違うところってのが、根本的な違いなのか、

     それとも、枝葉末節の些細な違いなのかは、お医者さんによって、意見が違います。

 

本人に意識や意志のない場合を除いて、

受診は、本人の意志によります。

治療すれば簡単に治る癌でも、

本人が治療を受けたくなければ、誰も治療を強制できません。

そのせいで死んでしまえば、半ば自殺のようなものですが、仕方ありません。

誰も無理矢理に治療できません。

 

何か変でしょう?

意識のない場合って、眠っている時は、どうかしら。

叩き起こせばいいのだから、屁理屈を言わないでちょうだいね。

でも、意志のない場合って、なにこれ?

意識はあるけれども、意志がないって・・・

簡単に言うと、赤ちゃんがそうでしょう?

 

意志って、未来の状況をシミュレーションして、将来の行動を心積もりするから、

それができなくなると、意志がないってことね。

判断能力が低下するの、赤ちゃんみたいに。

 

ほんとうに変なのは、死刑になるような凶悪事件が起こるたびに、

かならずと言っていいほど、

責任能力の有無が裁判で争われるのと同じです。

精神の病気には、法律によって強制的に診察や治療を受けさせて、

入院させることのできる病状というのがあります。

 

赤ん坊や子供でなく、意識がありながら、

判断能力がなく、健常な意志を表せない状態を、精神科医が認定しますので、

一般の診療科の医師が、救急車で搬送されて来た意識不明の患者さんを、

一存によって治療するのとは、わけが違います。

どれぐらい、判断能力が低下していれば、強制的に治療できるのか、

意識があるのに、いったい何を基準に、判断能力がないとするのか、

かならずしも、説得力のある現実にはなっていません。

 

だいたいの感じで言うと、

自分は病気でない、精神病でないと、強く抗弁できる状態ですと、

たとえ精神病であっても、強制的には治療できません。

無理矢理に入院させることのできるのは、

本人に、自分は精神病でないと、あくまで主張する能力が、すでになくなっています。

徹底抗戦できなくなっています。

 

名前を呼ばれても、自分のこととわからずに、返事ができず、

どんな気持ちかを尋ねられても、あさってのことを言っていて、受け応えができません。

ここが何処か、わかりますかと尋ねられても、質問の意味さえ、わからなくなっています。

 

これぐらいの状態になっていなければ、初診で強制的には治療できません。

本人が治療を拒否すれば、御家族の人にお薬を渡しておきますが、

たぶん、本人は飲みません。

 

     わたしたち個人には、責任能力があり、自由な意志があるとするのは、

     化学や生物学の、いわゆる自然科学の知見とは異なります。

     神様や王様の政治を蹴飛ばして、

     庶民が、みんなで社会を運営するには、

     個人に責任能力があり、個人は他人や社会と自由に契約できて、

     その責任をとらねばならない、とする思想が必要でした。

 

     現代のいわゆる近代国家の、法律家や政治家は、

     かつて理想を掲げて革命を起こし、

     血まみれになって権力を握った人たちの、革命の思想を継承しています。

 

     権力によって、医学の考え方も、法的に拘束されています。

     自我もまた、デカルトの「我思う、故に我在り」のように、

     権力によって是認される意見が、法的に規定されています。

     個人は自我の意志するところを、自由に行ない、責任を持つことになっています。

 

     戦争を実行した権力者たちの、流行の華々しい考え方を、

     戦争に反対する人たちは、わが身を危険に曝さないように、

     処世術に反しないように、静かに冷やかに見つめていました。

 

     わたしは、自我や個人や自由や責任などの、

     フランス革命以来の権力者たちの、流行の考え方に、

     身動きがとれなくなるほど躍起になって、のめり込みたいとは思いません。

     僅か数百年の政治的な流行を信じることが、

     精神障害を発症する道のりの、

     認知の歪みの元になっているのではないかと、危惧しています。

 

     近代的な個人と自我と、自由と責任の思想は、

     能力の低い人を、自滅に追い込み、

     能力の高い人が、自惚れて威張れる社会や文化を、正当化します。

 

     王様や貴族や聖職者などが、生まれつきの門地や家柄から、

     能力が低いのに、一生、安楽に暮らせて、

     我が侭で横着で、残酷な政治を行なっていたことを、

     18世紀のフランスの革命家たちは、非常に情熱的に攻撃しました。

 

     でも、高い能力を獲得できる素質や、

     低い能力しか獲得できない素質もまた、生まれつきです。

     家柄だけが生まれつきでなく、美人も、知能の高いのも、

     運動神経の優れているのも、素質は生まれつきです。

     生まれつきに低い素質の人は、

     いくら努力をしても、高い能力を獲得できません。

 

     知能の低い種類の発達障害の子や、

     知能は正常にもかかわらず、他人や社会と意志疎通を試みる能力が低く、

     人と協調して学習する能力が低く、

     あるいは、それらを拒否して動物的な心地良さに浸り、自閉的になるような、

     性同一性障害に多い種類の発達障害の子などは、

     生まれつきに、将来が閉ざされています。

 

     精神障害者だけが、生まれつきの素質に、たたられるのではありません。

     健常な人にもまた、生まれつきの素質による能力の序列があります。

     フランス革命の成果は、近代的な政治体制として、広く世界に普及していますが、

     政治や社会や文化の、ちょっとした流行に過ぎません。

 

     脳や身体の器質に、原因となる病変が発見されないにもかかわらず、

     慢性的に、複合的な精神症状をきたす人の多くが、

     フランス革命の信念や、それに反対する宗教や芸術の教義などを、本気で信じています。

     そういう政治や宗教や芸術などの流行文化に扇動されて生きるのは、

     精神衛生上、良くないかも知れません。

 

     わたしは自分の子供や孫に教えて来たことを、精神障害の人にも伝えています。

     子供や孫に、政治や宗教や芸術の考え方を、うちでは教えませんでした。

横浜中華街って地元なんだけど、中華料理は嫌い。

出された物は、なんでもおいしく食べるけど、

わざわざ中華料理を注文することはない。

孫に見せておかないとね、中華料理も中華街も。

子供が写ってると、載せたくなります。

真っ正面に上海料理の四五六菜館が写ってるでしょう?