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東京湾観音 914 エステティックと差別虐待

2012.08.21 15:00

夏の横須賀の街。

浦賀水道の向こうに、房総の山並が浮かんでいるように見えます。

 

写真をオリジナルサイズで見ると、

二隻の大きな船の間ぐらいの方向の、房総の山に、

白い棒が立っています。

 

高さ56mの東京湾観音ですので、

浦賀水道の千葉県側の位置を知るための目印になります。

海岸の山ね。

その後ろに、鹿野山(かのうさん)の山地があり、

 

 

わたしが性転換医療を知った病院は、

鎌倉時代からの修験道系の互助組織が運営していました。

性分化疾患の治療って、大昔からありましたので、

いつから始まったのかは、よくわかりませんが、

江戸時代には、すでに外科手術を行なっていました。

 

おしっこの出る道が塞(ふさ)がっていれば、

手術をしなければ仕方ありませんが、

抗生物質のない時代ですから、化膿を防ぐのは困難でした。

 

わたしの前任者が、すでに、今で言うGID(性同一性障害)の人に、

性転換医療を行なっていました。

体の性別は正常なのに、精神障害のせいで、

性転換を望む羽目になりましたが、

着衣の顔や体の見かけが、異性に似ているために、

社会的に差別虐待されていたことが、精神障害の原因でした。

 

日系の病院でしたが、

後に、TV(トランスベスティズム , ティーブイ)や、

TG(トランスジェンダー)と自称する人たちが、

たくさん、受診するようになると、

患者さんの多くが、韓国朝鮮系の人たちになりました。

 

在日の人って、昔は、日本の会社に就職できませんでしたけれど、

日本人でも、顔や体の見てくれが不細工ですと、

韓国朝鮮人や中国人のように言われて、差別虐待をされました。

 

言うまでもなく、欧米白人と日本人の、

見てくれの相違点が、差別の原因になりましたが、

実際には、目の小さい人と、足の短い人が、

集中的に被害を受けました。

今のほうが、ひどいのですが…

 

韓国人が、日本人を相手に、盛んに美容手術を宣伝するように、

差別をする人と、差別をされる人とは、

同じ考え方を共有しています。

類は友を呼ぶように集まり、

仲間内で、被害者と加害者の立場を、分かち合います。

 

共食いと言いますが、性転換医療がそれであると、

はっきりとわかりましたので、

わたしは、GID(性同一性障害)に対する性転換医療から、

撤退しました。

今は、性分化疾患の治療と、GIDの精神療法しか、

GID医療を行なっていません。

 

     うちの患者さんの間では、

     いわゆる部落差別が怪しい、と言われています。

     関東や東北には、部落差別がなく、

     大阪や京都などにしか、部落差別がないのは、おかしい、

     と言います。

 

     GID(性同一性障害)の人の多くが、

     韓国朝鮮系の人であるだけでなく、

     被差別部落の出身の人も、少なくありませんが、

     関西の大都市の被差別部落は、

     住人の大部分が韓国朝鮮系のようです。

 

     昔は、精神障害者や犯罪者の子孫のような人たちが、

     差別されて、流されて、吹き溜まるように、

     被差別部落に集まって来ましたが、

     朝鮮併合の後は、だんだんと、韓国朝鮮系の人たちが、

     居着いて離れなくなりました。

 

     被差別部落でなく、遊郭や色町であっても、

     いわゆる赤線廃止後は、日本全国のほとんどの町が、

     ほぼ完全に韓国朝鮮の人たちの支配下に入りました。

     この事情は、祇園や赤坂などの、高級な色街でも、

     同じです。

 

     値段が高くても、やることは似たようなものですから、

     当たり前ですけれど、

     国会対策委員会が、夜毎(よごと)に赤坂で行われて、

     料亭政治と言われていましたので、

     韓国人の世界も、被差別部落から国会まで、

     ちゃんと、道が通じていました。

 

     うちの患者さんたちも、そうでしたけれど、

     今でも、GID(性同一性障害)の人たちは、

     遊郭の名残(なごり)の町で、売春をしている人から、

     国会をうろつく人まで、色々いるでしょう?

     夜の町にたむろする人たちのする事は、

     昔と、ちっとも変わっていません。

 

     京都から大阪にかけての、淀川水系の被差別部落に、

     竹田の子守唄という民謡が、伝えられていますが、

     韓国朝鮮の民謡でないかと、疑われています。

     似たような旋律が、周囲の日本の民謡にありません。

 

     歴史的に、同性愛差別のなかった日本では、

     性転換の流行って、

     オカマも、ブルーボーイも、ニューハーフも、TVやTGも、

     社会的に差別された人たちが、吹き溜まって来る地域の、

     生殖拒否のための、自傷自滅の風潮でなかったかと、

     疑われます。

 

     エステティックは、それを意味しています。

     性転換医療を行なう医師が、

     そもそも、同じような種類の遊び人たちでした。

     生殖や世代交代の拒否を目指して、

     性別の文化的な心がうんぬんと言い逃れるために、

     エステティックな手法を使います。

 

     殺し合いを、歯に衣(きぬ)を着せて言えば、

     エステティックと聞こえるの。

     性別も同じです。

     有性生殖のために、性別があるのに決まっていますから、

     生殖や世代交代を妨げるのは、念入りに殺す意味です。

     本人だけでなく、子孫まで絶やします。

 

     差別をされる人たちが、そのように解釈しました。

     欧米白人が、アフリカ黒人や、インド人や中国人や、

     日本人などを、差別虐待するときには、

     顔や体の見てくれや、服装を見て、

     相手を識別しますから、

     顔や体や服装などを差別された、と思うのは、

     当たり前です。

 

     欧米白人は、

     鉄砲や黒船や、蒸気機関や電信のような技術を使い、

     仲間でない連中を殺そうとしましたけれど、

     欧米白人でも、子供たちは技術を知りませんから、

     教えなければいけません。

 

     欧米白人でない奴に教えても、理解する能力がないと、

     高を括って、馬鹿にしていましたので、

     鉄砲や軍艦を使い、征服することになりました。

 

     日本人は、欧米白人の真似(まね)をして、

     技術を覚えましたので、

     黒人や黄色人種には、理解力がないと、

     思い込んでいたのは、誤解でした。

     

     そのせいで、黒人や黄色人種を殺そうとしましたから、

     戦争になるのは、当然です。

     殺し合いをすれば、欧米白人が勝ちましたから、

     人殺しの憎しみが、自惚れや偏見に、重なりました。

  

     誤解を拭(ぬぐ)い去るのは、容易でありませんが、

     日本人や中国人やインド人や黒人の、だれもが、

     欧米白人の技術を、習得できるのでありません。

     頭が悪ければ、文化を模倣できないのは、

     欧米白人の子供たちも、同じです。

 

     頭が良くても悪くても、

     自分たちの仲間内を、贔屓目(ひいきめ)に見るのは、

     当たり前でした。

     頭の悪い我が子を、

     頭が悪いからと言って、差別をしてはいけません。

     我が子だからと言って、大目に見るのが、人情でした。

 

     どれほど賢い人にも、障害を持った子供が生まれます。

     これを虐待したのでは、人情が廃れますけれど、

     頭の悪い子供たちが、鉄砲を振り回すのと、

     顔や体の見てくれや、衣服の美を、競い合うのとは、

     同じ社会の出来事でした。

 

     仲間内で殺し合いを行なうのが、性転換医療です。

     関西の被差別部落や、遊郭や、

     韓国朝鮮系の人たちの間に、普及しました。

     エステティックと言い、顔や体の見てくれによって、

     人を殺します。

     GID(性同一性障害)の人たちは、

     心の性別と言いますが、共食いの意味です。

     

人間って、差別をされると、頭が悪くなります。

知能は価値観ですから、何が賢いかは、人それぞれの考え方です。

知能を測る方法はありませんけれど、

人が何を賢いと思っているかは、人に聞けばわかります。

みんなが何を賢いと思っているかは、みんなに聞けばわかります。

みんなが賢いと思っている通りのことができれば、

知能検査は、知能が高いとします。

 

早い話が、みんなと同じことをできる人は、賢いと言われ、

できない人は、あほと言われますから、

孤立して疎外されて、差別されると、頭が悪くなるのは、

当たり前です。

 

仲間はずれにしてやれば、どんどん頭が悪くなりますから、

頭が悪いと言って、人を笑ったり、

頭が良いと言って、人を褒めたり、自惚(うぬぼ)れたりするのは、

殺し合いと同じです。

ノーベル賞と言い、金メダルと言い、人を褒めるのは、

殺し合いをしています。

 

そのことが、エステティックに現われます。

目で見て、手で触って、殺し合いの相手を識別しますから、

当たり前です。

 

何々ならば、何々である、という因果関係が、

自然と一致するかのように、ギリシャ人は考えました。

論理と自然は一致するってね。

自然には、筋道(すじみち)がある、と考えたの。

 

ほんとは、論理って、定義をしているだけですから、

これとあれ、という二つのものを、結びつけているだけです。

連合と言いますけれど、言葉みたいに、くっつけているだけなの。

 

言葉は文化ですから、覚えるほかないでしょう?

これを表す言葉は、これであると。

物事(ものごと)という記号と、音波という記号に、橋を掛けます。

自然の必然性や筋道(すじみち)なんか、

あるわけがありませんから、覚えなければ仕方ありません。

 

でも、溝(みぞ)を掘るように、筋道(すじみち)をつけると、

水が流れるでしょう?

自然には、筋道があるように、見えます。

 

この自然の必然性という筋道は、どこから来たのかしら。

どうしても、実際に水が流れるにように見えるのが、

認識の仕組みですけれど、これが論理に一致するって、

ギリシャ人は書き記しています。

自然の仕組みと、論理の仕組みと、認識の仕組みが、

一致するって意味です。

 

コンピュータは、

水が高い方から低い方に流れるのは、文化である、と教えています。

物事(ものごと)と言葉の関係のように、

人間の作った約束事である、と言います。

定義って意味ですけれど、水の流れるのが、定義にすぎません。

 

水が高いほうから低いほうに流れる、と定義しているから、

確かに、自然に水が流れるように、見えます。

それが証拠に、

溝を掘るから、確かに自然に水が流れた、とわかります。

溝を掘らないのに、勝手に水が流れれば、

元から水が流れていたか、さもなければ、

誰かが、こそっと溝を掘ったのでないかと、疑います。

 

大雨が降り、水が溢れ出して、水が流れるのは、

神様のせいかも知れませんし、人間の誰かのせいかも知れません。

 

自然に水が流れる、と理解するには、

どうしても、誰かが工作したと、理解しなければいけません。

神さまや、他人や、自分や、あるいは、自然が主体かも知れません。

自然の摂理と言うけれど、主体がなければ、そうなりません。

 

誰かが働きかけなければ、自然は機能しない、と人間は見ています。

刺激がなければ、反応しません。

自然が勝手に、自動機械のように機能するって、

人間には認識できません。

無意識って、認識されないから、無意識でしょう?

 

自然も、そうなの。

誰かが働きかけたことしか、わたしたちは自然を認識できません。

自然が、自分で自分に働きかけた、と言うような、

自動機械のことを、認識できませんから、

自然が自然に働きかけたとなれば、

人間で言うところの、解離した意識のようになってしまいます。

 

ヒステリーのことね。

病気です。

 

それなら、溝を掘って、水が流れたのは、

自分が掘ったから、水が流れた、と見るのが、

いちばん理解しやすいのでないかしら。

 

自然の摂理でなく、自分が溝を掘ったからです。

掘れば、水が流れる、というプログラムを使ったからです。

キーボードから入力をするように、掘って作業をしただけです。

そうすれば、水が流れると、プログラムされているので、

水が流れたと、認識されました。

 

自分が働きかけた、と言っても良いし、

自分が刺激して、自然が反応した、と理解しても良いし、

自分が原動力であると、認識することも可能です。

 

そういうプログラムのことを、文化と言います。

みんなのプログラムを使ったので、

みんなの文化の通りに認識されました。

どうしても、みんなに共通の事実が、

そこにあるかのように見えます。

 

これって、入力する主体が必要ですので、

自分で入力をして、

自分でプログラムを作ったり、選択したりした覚えがなけば、

誰かがやったと、理解せざるを得ません。

なんとなく、統合失調症の被害妄想にそっくりですけれど、

自分がやったのでなければ、誰かがやったのに決っている、

と思うのは、当たり前です。

 

精神の病気では、プログラムの作り方や選択の仕方に、

間違いがあったような気もしますが、

孤立して疎外されると、あほになりますから、

みんなと一緒の選択になりません。

 

それにもかかわらず、習慣のせいで、

勝手にプログラムが選択されていたら、

きっと、御本人は、誰かのせいと、解釈してしまいます。

習慣のせいで、勝手に頭が機能してしまうのを、

自分一人で自覚するのは、不可能と思います。

 

わたしたちは、文化的なプログラムという入れ知恵を、

知っていますので、

習慣のせいで、無意識に二足歩行をする、と解釈しますけれど、

文化的な先入観がなけば、無意識を自覚することは、できません。

 

わたしたちが意識するのは、

文化のせいでなければ、精神の病気ですので、

意識という文化的なプログラムの作動を、

精神の病気の一種と、言えないこともありません。

 

みんなと一緒のことをしていなければ、仕方ありません。

統合失調症の多くの人は、

みんなと一緒のことをするのを、意図的に拒否しますから、

孤立して疎外されるのは、当たり前なのですが…

GID(性同一性障害)も、そっくりです。