Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

浦賀奉行 992 

2012.11.08 15:00

ペリーが来た時の、浦賀奉行(うらがぶぎょう)の、

戸田氏栄(とだ・うじよし)という人の、胸像(きょうぞう)。

 

浦賀(うらが)の隣(となり)の、

久里浜(くりはま)という所にあります。

浦賀(うらが)も、久里浜(くりはま)も、

横須賀市(よこすかし)です。

 

戸田(とだ)さんの部下(ぶか)の、

中島三郎助(なかじま・さぶろうすけ)という与力(よりき)が、

浦賀(うらが)では、有名(ゆうめい)ですけれど、

お奉行(ぶぎょう)さんのほうが、上役(うわやく)ですので、

ペリー記念館(きねんかん)の胸像(きょうぞう)になっています。

 

中島(なかじま)さんは、

ペリーのサスケハナという蒸気船(じょうきせん)に乗り込み、

その仕様(しよう)を検分(けんぶん)した人です。

幕末(ばくまつ)の浦賀(うらが)に、

造船所(ぞうせんしょ)を作(つく)りましたが、

五稜郭(ごりょうかく)の戦争(せんそう)で、

亡(な)くなりました。

 

戸田(とだ)さんは、

後(のち)に大坂町奉行(おおさかまちぶぎょう)になりました。

 

転任(てんにん)ばかりの経歴(けいれき)ですから、

幕府(ばくふ)の旗本(はたもと)って、

官僚(かんりょう)と同じですけれど、

お奉行(ぶぎょう)さんは、大臣級(だいじんきゅう)ですから、

政治家(せいじか)と官僚(かんりょう)が、

分離(ぶんり)されていない昔(むかし)は、

大変(たいへん)でした。

 

中島(なかじま)さんは、与力(よりき)でしたが、

浦賀奉行所(うらがぶぎょうしょ)には、

14人の与力(よりき)がいました。

奉行所(ぶぎょうしょ)って、現代(げんだい)で言えば、

中央(ちゅうおう)の省庁(しょうちょう)と

同格(どうかく)でしたから、

与力(よりき)は、上級試験(じょうきゅうしけん)に

合格(ごうかく)した官僚(かんりょう)の、

管理職(かんりしょく)です。

局長(きょくちょう)さんぐらい?

 

中島(なかじま)さんの三男(さんなん)が、

海軍機関中将(かいぐんきかんちゅうじょう)ですから、

生(う)まれついた家柄(いえがら)と、

ちょうど同(おな)じぐらいの地位(ちい)まで、

人間(にんげん)って、努力(どりょく)するものかしら。

船(ふね)のエンジンの、専門家(せんもんか)でした。

 

明治時代(めいじじだい)ですから、

たぶん、周囲(しゅうい)の人が、

本人(ほんにん)の家柄(いえがら)に

相応(ふさわ)しいところまで、

引(ひ)き立(た)てたと、思(おも)います。

 

現代人(げんだいじん)が、

自分(じぶん)の学歴(がくれき)と釣(つ)り合うところまで、

努力(どりょく)するようなものかしら。

 

世襲(せしゅう)の血統(けっとう)や門地(もんち)などと、

賢(か)しこさや努力(どりょく)による学力(がくりょく)は、

原理(げんり)が同(おな)じですけれど、

現代人(げんだいじん)には、わかりません。

 

美人(びじん)コンテストやオリンピックなどと、同じですけれど、

論理(ろんり)や事実(じじつ)が、エステティックであるって、

現代人(げんだいじん)には、わかりません。

 

物理化学(ぶつりかがく)の考(かんが)え方って、

宗教(しゅうきょう)の宗派(しゅうは)みたいなものなのに…

 

ペリーは、戸田(とだ)さんの頭蓋骨(ずがいこつ)の

形(かたち)を見(み)て、

額(ひたい)が広(ひろ)いので、賢(かしこ)いと、