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谷中(やなか) 1019 台地と、溺(おぼ)れ谷

2012.12.05 15:00

東京都(とうきょうと)台東区(たいとうく)の、

谷中(やなか)って、

JR山手線(やまのてせん)日暮里駅(にっぽりえき)の、

西側(にしがわ)の町(まち)の名前(なまえ)です。

 

関東大震災(かんとうだいしんさい)や、

第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)の、

火災(かさい)の被害(ひがい)が少なく、

明治以降(めいじいこう)の、古(ふる)い町並(まちな)みが、

残(のこ)っている、と言(い)われています。

 

武蔵野台地(むさしのだいち)の端(はし)っこの、

上野台(うえのだい)と言(い)われる土地(とち)ですが、

坂(さか)が多(おお)く、

昔(むかし)ながらの狭(せま)い道(みち)が、

くにゃくにゃしていますので、

再開発(さいかいはつ)が難(むずかし)しく、

住民(じゅうみん)が老化(ろうか)しているだけかも知れません。

 

日暮里駅(にっぽりえき)から、

西(にし)へ、300mほど歩(ある)くと、

昔(むかし)の谷田川(やたがわ)の

河川敷(かせんじき)へ降(お)りる階段(かいだん)があります。

 

現在(げんざい)の水流(すいりゅう)は、

地下(ちか)に埋設(まいせつ)されて、

暗渠(あんきょ)になっています。

 

下水道(げすいどう)に、落(お)ちぶれたの。

 

藍染川(あいぞめがわ)とも、言われたそうですが、

谷中銀座(やなかぎんざ)という商店街(しょうてんがい)が、

昔(むかし)の川床(かわどこ)です。

 

階段(かいだん)の上(うえ)は、

自然堤防(しぜんていぼう)の感(かん)じですが、

川(かわ)が、武蔵野台地(むさしのだいち)を

侵食(しんしょく)しました。

 

河口(かこう)に近(ちか)いので、

土砂(どしゃ)が堆積(たいせき)したように見(み)えますが、

氷河時代(ひょうがじだい)は、海面(かいめん)が低(ひく)く、

河口(かこう)から離(はな)れた台地(だいち)を、

谷田川(やたがわ)が、削(けず)りました。

 

谷中(やなか)という谷(たに)は、溺(おぼ)れ谷(だに)なの。

気温(きおん)が上(あ)がり、

氷河期(ひょうがき)が終(お)わると、

氷(こおり)が解(と)けて、

海面(かいめん)が上昇(じょうしょう)しました。

 

海(うみ)が、陸地(りくち)の奥(おく)まで、

侵入(しんにゅう)しましたので、

JR山手線(やまのてせん)の、上野駅(うえのえき)から、

日暮里駅(にっぽりえき)を経(へ)て、

田端駅(たばたえき)に至(いた)るまでの、

線路(せんろ)の西側(にしがわ)の崖(がけ)が、

昔(むかし)の海食崖(かいしょくがい)と、

言(い)われています。

 

たぶん、嘘(うそ)ですけれど、

6000年前(ねんまえ)に、

海岸線(かいがんせん)であったことは、

間違(まちが)いありません。

 

線路(せんろ)は、傾斜地(けいしゃち)の地面(じめん)を、

水平(すいへい)に均(なら)してから、

敷設(ふせつ)しますので、

線路(せんろ)の西側(にしがわ)が、崖(がけ)になるのは、

当(あ)たり前(まえ)です。

 

この崖(がけ)が、

海食崖(かいしょくがい)というわけでは、ありません。

 

台地(だいち)の波打(なみう)ち際(ぎわ)の、

海食崖(かいしょくがい)の名残(なごり)の、

急傾斜地(きゅうけいしゃち)を、均(なら)して、

軌道(きどう)を敷設(ふせつ)しましたので、

線路(せんろ)の傍(はた)に、

垂直(すいちょく)の崖(がけ)が、再現(さいげん)されたのは、

当然(とうぜん)です。

 

海食崖(かいしょくがい)が出来(でき)た後(のち)に、

溺(おぼ)れ谷(だに)の河口(かこう)に、

土砂(どしゃ)が堆積(たいせき)しましたので、

台地(だいち)の海食崖(かいしょくがい)の沖(おき)に、

沖積平野(ちゅうせきへいや)が、

付(つ)け加(くわ)わりました。

 

上野台(うえのだい)と言(い)われる所(ところ)は、

谷田川(やたがわ)の溺(おぼ)れ谷(だに)と、

海食崖(かいしょくがい)の間(あいだ)に、

取(と)り残(のこ)された武蔵野台地(むさしのだいち)の

端(はし)っこです。

 

上野公園(うえのこうえん)や

谷中霊園(やなかれいえん)などが、あります。

 

谷田川(やたがわ)の

谷筋(たにすじ)の名残(なごり)の土地(とち)には、

不忍池(しのばずのいけ)や、

不忍通(しのばずどお)りなどが、あります。

 

谷田川(やたがわ)の、

西隣(にしどなり)の谷筋(たにすじ)にも、

谷端川(やばたがわ)という川(かわ)が、

流(なが)れていました。

 

やはり、現在(げんざい)は、

白山通(はくさんどお)りの地下(ちか)の、

暗渠(あんきょ)の下水道(げすいどう)になっています。

 

谷端川(やばたがわ)は、

小石川(こいしかわ)とも、言(い)われました。

 

谷田川(やたがわ)と谷端川(やばたがわ)の間(あいだ)の

武蔵野台地(むさしのだいた)の尾根筋(おねすじ)を、

本郷台(ほんごうだい)と言(い)い、

現在(げんざい)の本郷通(ほんごうどお)りの一部(いちぶ)が、

昔(むかし)の中山道(なかせんどう)の名残(なご)りです。

 

本郷台(ほんごうだい)には、東京大学(とうきょうだいがく)や、

JR中央線(ちゅうおうせん)御茶ノ水駅(おちゃのみずえき)の

南側(みなみがわ)の、ニコライ堂(どう)などが、あります。

 

神田川(かんだがわ)は、江戸時代に、

本郷台(ほんごうだい)の南北(なんぼく)の尾根(おね)を、

東西(とうざい)に切(き)り通(とお)しました。

 

日比谷入江(ひびやいりえ)に流(なが)れていたのを、

隅田川(すみだかわ)の河口(かこう)に流(なが)すためでした。

 

日比谷入江(ひびやいりえ)を埋(う)め立(た)てて、

現在(げんざい)の、皇居外苑(こうきょがいえん)や、

大手町(おおてまち)や、丸(まる)の内(うち)や、

有楽町(ゆうらくちょう)や、新橋(しんばし)などの、

埋立地(うめたてち)を作(つく)りました。

 

入江(いりえ)と言(い)っても、

平川(ひらかわ)と言(い)われた神田川(かんだがわ)の、

河口(かこう)が幅広(はばひろ)くなり、

川(かわ)なのか、海(うみ)なのか、

わからない喇叭型(らっぱがた)の浅瀬(あさせ)に、

河口(かこう)の堆積物(たいせきぶつ)の、

江戸前島(えどまえしま)と言(い)われた中洲(なかす)が、

武蔵野台地(むさしのだいち)の海岸線(かいがんせん)の、

東(ひがし)の沖合(おきあい)に、

北(きた)から垂(た)れ下(さ)がり、

ちんちんのように延(の)びて、

半島(はんとう)になっていました。

 

その間(あいだ)の海(うみ)を、

江戸時代(えどじだい)の人(ひと)は、

日比谷入江(ひびやいりえ)と言(い)いましたが、

平川(ひらかわ)の河口(かこう)の

干潟(ひがた)と言(い)っても、

別(べつ)に構(かま)いません。

 

わたしは、学生時代(がくせいじだい)に、

チャリンコの運転(うんてん)が、得意(とくい)でしたので、

運動量(うんどうりょう)と到達時間(とうたつじかん)から、

最適(さいてき)の進路(しんろ)を選択(せんたく)するために、

東京(とうきょう)の地形(ちけい)を、

調(しら)べ上(あ)げました。

今(いま)でも、覚(おぼ)えています。

 

自動車(じどうしゃ)や、坂(さか)や、橋(はし)の、

少(すく)ない道(みち)が、楽(らく)ちんでした。

 

江戸時代(えどじだい)の土木工事(どぼくこうじ)は、

洪水(こうずい)の予防(よぼう)と、

湿地(しっち)の排水(はいすい)が、目的(もくてき)でしたが、

飲料水(いんりょうすい)の供給(きょうきゅう)と、

水運(すいうん)の確保(かくほ)と、

耕作地(こうさくち)の開発(かいはつ)を、

兼(か)ねていました。

 

お城(しろ)の防御(ぼうぎょ)も、あったかも知(し)れません。

 

なんで、こんなところに、川(かわ)を掘(ほ)ったのかしらと、

文句(もんく)を言(い)いながら、

チャリンコを漕(こ)ぎました。

 

なんで、法律(ほうりつ)を作(つく)り、

あほや気違(きちが)いを間引(まび)くために、

性転換(せいてんかん)を吹聴(ふいちょう)したのかしら。

 

性転換(せいてんかん)って、土木工事(どぼくこうじ)ですが、

国民(こくみん)は、儲(もう)かりません。

 

わたしは、

溶鉱炉(ようこうろ)の中(なか)で、生(う)まれましたので、

地球温暖化(ちきゅうおんだんか)と

人口減少(じんこうげんしょう)の関係(かんけい)が、

気(き)になって、仕方(しかた)ありませんでした。

 

ゲーテのファウストは、

海岸地方(かいがいちほう)の土地(とち)に、

土木工事(どぼくこうじ)を行(おこ)ない、

宮殿(きゅうでん)を築(きず)き、

夢(ゆめ)のように、死(し)にましたけれど、 

錬金術師(れんきんじゅつし)とも、言(い)われていました。

 

溶鉱炉(ようこうろ)は、

サラマンダーという神(かみ)さまの住(す)む子宮(しきゅう)

でした。

 

徳川家康(とくがわいえやす)って、

戦争(せんそう)や同性愛(どうせいあい)が、

大嫌(だいきら)いの、

生殖本位(せいしょくほんい)の人(ひと)でしたので、

江戸(えど)の町(まち)を作(つく)り、

東照宮(とうしょうぐう)という神(かみ)さまに、

祀(まつ)られました。

 

わたしは、

GID(性同一性障害)や両生類(りょうせいるい)でないのに、

サラマンダーは、