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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

フレデリック・ショパン、フレデリックの夢は父ニコラの夢…ふたりは一心同体…幼なじみ親愛なるジャシュとの文通とは…消えたセビリアの理髪師の主題のポロネーズ…ロシア皇帝が変わる時…

2022.06.11 13:21

ニコラ・ショパンとフレデリック・ショパン

の肖像画より、フレデリック16歳頃、

ジェラゾヴァ・ヴォラの生家の窓の前のふたり、イメージ

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フレデリックの父ニコラは第3次ポーランド分割のコシチュシュコ蜂起のときに市民軍の兵士として戦ったことがあり、フランスからやって来たニコラはこのようにしてポーランドに溶け込んで行った。フレデリックは、父親ニコラと一心同体のようなものであった。貧乏な没落貴族の出である母親ユスティナは、ポーランド分割の際ロシアに土地や財産を没収されたため貧乏になったが、貴族の出であった母ユスティナは音楽の嗜みがあった。

しかし、ユスティナは貧乏だったためスカルベック伯爵邸の使用人になった、そこに同じく使用人の家庭教師としてやって来たニコラと知り合ったのだった。

スカルベック伯爵は使用人の二人を結婚させてジェラゾラヴォラの屋敷の一角にある小さな納屋に住まわせた。フレデリックが自慢していた名付け親とは貴族の伯爵が貧乏な子供に目をかける慈善事業の一つでよくあることであった。フレデリックの妹達や姉もスカルベックが名付け親であった。

ニコラは貧乏から抜け出すには、一人息子のフレデリックを皇帝に売り渡すしか道がないと考えていた。フレデリックはそのニコラと家族全員の多大な夢を一人で背負わされていた。しかし、フレデリックは少年だったため、その多大な夢の重圧は何なのかは

はっきりとはまだわからなかった。

フレデリックは友人に恵まれて素直に成長して行っていた。その友人は全て父ニコラが

フレデリックの教育のために選んだ友達であったが、フレデリックは自分の意志でそうしていると錯覚をしていた。

父ニコラはワルシャワでは高校のフランス語の教師を務めていたため、影でフレデリックの友人を操っていた。それ故にフレデリックには親友がたくさんいたのだ。その親友の中のひとりがフレデリックより4歳年上のヤン・ビアウォブウォッキビだった。彼はワルシャワ大学に通って法律の勉強をしていた。その彼にフレデリックは頻繁に書簡を送っていた。

ビアウォブウォッキビは貴族の家柄だったが、ワルシャワの寄宿学校に居たことがありフレデリックと共に住んでいた。寄宿学校は、フレデリックの両親が雇われ大屋をしていた。

ビアウォブウォッキビは結核を患っていたため、この時、田舎に帰っていた。フレデリックはビアウォブウォッキビの姉がワルシャワに来たときにビアウォブウォッキビへの書簡を言付けていた。

「ビアウォブウォッキのお姉様がワルシャワにいるから、あなたに手紙を書きます。」

フレデリックはこの頃から既に、地下組織に染まっていたのか、郵便は使わずに書簡を、人の手から人の手で運ぶことをしていた。

「この数日、新しいニュースはほとんどありませんでしたが、それでも僕はあなたに

何が起きているかをお伝えしなければならないことがあります。

でも、その前に、あなたの体調が悪化していると知ってどれほど残念だったか、

そして、近いうちにあなたが完全に回復するのをどれほど僕が待ち望んでいるかを伝えておこう。僕は君が早く治ることを祈り2ヶ月間髭を剃らないようにする。

しかし、あなたはまだ僕の書簡を受け取っていないようですね。

気にしないでください、僕の情報はあなたに必ず届けますから。

コンスタンス(ビアウォブウォッキの姉)がこの僕の再度書いた書簡をあなたに届けてくださいます。」

ビアウォブウォッキへのフレデリックの書簡が届いていないことをビアウォブウォッキからの書簡で知ったフレデリックは、彼の姉の

 コンスタンスがワルシャワに来たことを知らされ、急いでもう一度書簡を書き直して、彼女に手渡した。

「ワルシャワの状況は(前回の手紙でご存知のように)『セビリアの理髪師』の

演奏は誰もが賞賛しており、長い間準備していた『魔弾の射手』も間もなく上演されると噂されています。

『セビリアの理髪師』の主題を使い、僕は

ポロネーズ変ロ短調を作曲しました。

友人たちはそれをとても気に入っています。

明日、石版印刷のために渡そうと思っています。それから、ルドヴィカ(ショパンの姉)は、ワルシャワが長い間踊っていないような素晴らしいマズルカを作曲しました。(不明)この曲は彼女の極上作品です。

お世辞抜きで、稀に見る質の高さです。

あなたが私の家に来られたときに、僕があなたに弾いて差し上げます。」ショパンはロッシーニに憧れ、聴いたばかりのオペラ[セビリアの理髪師]の主題を基にポロネーズ を作曲した。(現存せず不明)

そして、ポーランド分割の戦争の余波で、ワルシャワでは、マズルカを踊ることもが許されなかった。その暗いワルシャワの雰囲気だった中、ルドヴィカは人々が踊り出したくなるようなマズルカを作曲したのだ。

「私は高校のオルガニストに任命されました。

ですから、私の妻と全ての子供たちは、私を尊敬する二重の理由を持っています。

ああ、わが主よ!

私が校長に次いで学校全体で一番重要な人物になったとは!」

これは、ショパンが現実に結婚しているとか結婚していないというような浅い意味ではない、ショパンは教会に祈りに来るポーランドの母親や子供達の前でオルガンを弾いていた。その人々のことを、同じ教会で同じ信仰心を持つ家族のような仲間として、フレデリックは「私の妻や全ての子供たち」と表現したのであった。

キリストの「全ての人に喜びを与える」

と言う言葉をフレデリックは実践していたからこその表現なのだ。そして、

「私は週に一度、日曜日にヴィジタンディン家の教会でオルガンを弾き、他の子供たちが歌っている間、私は伴奏しています。

親愛なるジャシュ(ビアウォブウォッキの愛称)今はこれ以上の内容はこの書簡には書けません。

私は、これからチェット・ヴェルティンスキーに 会いに行かねばならない 。コンスタンスは今、あなたのところへ行くところです。

今度は、もっと長い(詳しい)手紙を送ります。

私たち(家族は)みんな元気です。」

ビアウォブウォッキビへの書簡の終わりには、病気の彼を励ますための追伸を添えたフレデリックだった。

「デレールさん、ズィウニーさん、バルドゥィスキさん、レシチフィスキさん、そしてすべての人があなたに挨拶をしています。」

信心深いフレデリックは少年の頃から礼儀正しく気遣いを心得ていた。

それの後、12月のクリスマスの休暇の間、ショパン家はワルシャワの寄宿舎から

ジェラゾヴァ・ヴォラの家に帰って過ごしていた。

ビアウォブウォッキビとフレデリックの二人の友情による文通は、クリスマスの休暇の後に再開された。

フレデリックは学校の試験に向けて頑張っているところだった。

この頃、ポーランドを支配していたロシア皇帝は、アレキサンドル1世が

(1777年12月23日ロシア帝国−1825年11月19日サンクトペテルブルク(47歳))11月に亡くなったところであった。

アレクサンドル1世は1825年11月にロシア南部への旅行中にチフスで亡くなりました。彼は2人の娘は子供の頃に亡くなり、アレクサンドル1世の兄弟は皇帝になることを辞退したため、次のロシア皇帝は12月からはニコライ1世に引き継がれたところであった。

ヤン・ビアウォブウォッキビ

1805年ポーランド 、ポモージェ県クヤヴィ・

ソコウォボ−1828年3月31日、同上)

彼はフレデリック・ショパンとは幼​​なじみでだった。ふたりは文通をしていた。

ビアウォブウォッキビは貴族の家柄だった。1816年にワルシャワ高等学校でフレデリック・ショパンの父ニコラの生徒であった。

貴族だったビアウォブウォッキビは、ピアノを弾き、合唱団で歌い、絵画を習い芸術的な教養があった。ビアウォブウォッキビは、1823年からワルシャワ大学 で法律を学んだ。1824年と1825年の夏休みビアウォブウォッキビはショパンと共に過ごした。